聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 5:9〜11

2020-01-10 09:18:17 | 聖書
2020年1月8日(水) 祈り会
聖書:ローマ 5:9〜11(新共同訳)


 「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」とパウロは言います。
 義とは、正しい関係を表します。聖書では、神と正しい関係にあることを表します。義とされた、正しい関係になったということは、それ以前は正しい関係ではなかったということです。
 わたしたちと神との関係は、罪によって壊れてしまいました。罪によって、神を信頼して、神と共に生きるということができなくなってしまいました。聖書はそのことを創世記のエデンの園の出来事として記しています。

 神との関係が壊れることによって、人は不安の中に閉じ込められてしまいました。神がこのわたしを祝福していてくださることを信じられません。お祓いをしたり、お守りを持たないと不安です。神がこのわたしを神の国へと導いてくださることも信じられません。風水や占いで示されたラッキーカラーやラッキーアイテムを必要なものと考えます。不安だからこそ、自分が欲するものを与えてくれる偶像を求めます。
 ですから、神との関係の回復、そして神と共に生きることは、人間にとって必須の課題です。それがキリストの血によって、つまりキリストの十字架によって回復された、と聖書は告げます。このことから、神との関係の回復は人間の業によってできるものではないことが分かります。救いは人間の業で得られるものではありません。救いはキリストの業です。恵みによって与えられるものです。

 イエス キリストは、罪人の罪を負って十字架にかかりました。罪人に代わって神に裁かれました。罪の裁きがキリストの十字架においてなされました。神との関係が壊れた原因である罪が、裁かれました。これによって神との関係を妨げるものがなくなりました。神との関係はイエス キリストにより正しいものとなりましたので、もはや神の怒りはなくなりました。ですからわたしたちは、安心して神の御前に集うことができるようになりました。

 8節にあるように「まだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され」たのです。ですから「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさら」なのだとパウロは言います。
 もはや罪による神との敵対関係は、取り除かれたのです。わたしたちは神の招きを受けて、安心して喜んで神の御前に進み出ることができるようになったのです。

 和解は、聖書の大切なメッセージです。和解というのは、仲直りです。神と仲直りできるように、神が整えてくださいました。神が与えてくださるものは、人間が生きる上で欠かせない大切なものです。もし、仲直りができないとするならば、わたしたちの人間関係は壊れる一方です。人はただひたすらに孤独になるより他はありません。
 わたしたちは、神が与えてくださるものによって、生きる道が示され、命の道を歩んでいくのです。神に赦されて、わたしたちも赦すのです。神に愛されて、わたしたちも愛するのです。同じように、神に和解へと招かれて、わたしたちも和解へと招くように導かれるのです。それは、主の祈りにおいて「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と常に示され教えられています。
 聖書は、人は神のかたちである、神にかたどって造られたと告げます。ですからわたしたちが、なぜこのように生きなければならないか、その根源には神がそのようになさるから、ということがあるのです。神ご自身に、わたしたちの根本的な理由があるのです。なぜ赦さなければならないのか、なぜ愛さなければならないのか、なぜ和解しなければならないか、それは神がわたしたちに対してそうしてくださり、神のかたちであるわたしたちを導き、恵みに与らせようとしていてくださるからに他なりません。
 キリストの救いの御業には、人が生きていくための招きと導きがあるのです。

 そればかりではないのです。神との和解を得させてくださったわたしたちの主イエス キリストによって、神を誇りとすることができるのです。誇りは人の存在を支えるものです。神がこのわたしの存在を支える誇りとなってくださるのです。
 わたしたちを創造し、わたしたちを救われる神を誇りとするということは、自分の存在を肯定し、生きることを喜べるということです。わたしをお造りくださった神を喜べる。わたしの人生を導かれる神を喜べるということです。自分自身に対する確かな肯定が神の許にあるのです。神を信じられない不安の中を生きるのではなく、神を誇りとし、神の許にある平安と希望に生きるのです。神は、イエス キリストによって、わたしの神となってくださったのです。

 ですから、神を知る者は、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っています。運命に翻弄されるのではなく、神が御子の命をもってこのわたしが、神の国に確かに入ることができるように、救いに与ることができるように、導いていてくださっていることを信じることができます。神はわたしの神となってくださった。そのことを信じて、神が与えてくださる確かさの中で、わたしたちは喜び生きる者とされているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの似姿に造られたわたしたちに、必要なすべての業を自らなしてくださり、明らかにしてくださったことを感謝します。またわたしたちの誇りとなってくださり、わたしたちを常に支えていてくださることを感謝します。わたしたちの源であるあなたを仰ぐとき、わたしたちは神の国に至る救いの道を歩むことができます。どうぞ聖霊によってわたしたちを照らし、あなたを仰ぎ見つつ歩む、あなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:25〜29

2020-01-06 21:44:46 | 聖書
2020年1月5日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:25~29(新共同訳)


 パウロはこの手紙で、イエス キリストこそ神が約束された救い主であることを確認し、キリストによってのみ救われることを明らかにしようとしています。それはユダヤ人であること、割礼を受けていること、律法を守っていることを誇りとするユダヤ人の誇りを傷つけることになりました。

 誇りというのは実にやっかいなものです。誇りは人の存在を支えています。ですから、誇りが傷つけられようとするとき、人は誇りを守ろうと懸命になります。
 1989年、ベルリンの壁が崩壊したとき、ついに東西対立が終わり、平和な時代が来ると期待しました。しかし東西対立の後には、悲劇的な民族対立が出現しました。
 民族が誇りとなるとき、民族の数だけ散り散りになってしまいます。そして今に至るまで、民族対立の根底にあるナショナリズム、民族主義が全世界で人々を引き裂いています。

 教会はこの問題をも解決するためにイエス キリストを宣べ伝えます。キリストを信じる者は、キリストを誇りとします。「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31)と聖書にあるとおりです。すると「キリストに結ばれたあなたがたは皆・・もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ 3:26, 27)と言われているとおり「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ 2:14)となり、「キリストは・・御自分において・・平和を実現し、十字架を通して・・神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼ」(エフェソ 2:15, 16)してくださったのです。

 神の御業を語るとき、被造物である人間は神を捉え尽くすことはできない、有限な人間が無限の神を理解し尽くすことはできない、というわきまえが大切です。パウロは9〜11章で旧約の民イスラエルの救いについて書いていますが、その最後でパウロが語っているのは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ 11:33)という言葉です。そしてその直前に語るのは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ 11:32)という言葉です。神の御心は、わたしたちの思いを越えていますが、すべては「すべての人を憐れむため」なのです。

 イエスも譬えを用いて「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ 20:16)と言われていますが、人はどうしても先の者は先になりたくて、「先にいる者が後になる」神の御心をなかなか受け入れられません。
 パウロはきょうの箇所で、旧約を引用して、神は旧約の時代からイスラエルに対してその御心をちゃんと明らかにしてこられたことを明らかにします。
 最初に引用するのはホセア書です。旧約の十二小預言書の一つです。ホセアは紀元前8世紀の預言者です。預言者には行為によって預言する務めが与えられることがあります。その行為を通して神の御心を明らかに示すのです。
 神がホセアに与えた務めは「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」(ホセア 1:2)淫行は偶像礼拝を表します。神が、偶像礼拝に陥っている民を赦し、受け入れる御心を示すため、ホセアは淫行の妻を迎え入れ、淫行による子どもたちを家族として受け入れるのです。神に対して「正気ですか」と問いたくなるような命令です。そのホセアの行為を通して、神は25,26節の御心を、救おうとしている偶像礼拝の民に語りかけるのです。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」パウロはこの言葉を異邦人の救いに当てはめています。

 赦される罪人にとってはよき知らせです。神の民は、その知らせを確かに伝えるために預言者に求められたものを知らねばなりません。さらにそのメッセージを実現するために、神がひとり子に託されたことを。神は全能の力で手軽にパパッと救いをなされたのではないのです。神は痛みを負われました。自ら痛みを負ってまで、神は救いの御業をなされたのです。その神の民とされ、神の子とされるとき、自分は先に選ばれた者、割礼を受けた者、律法を守る者といった人間の誇り、自慢を手放さなくてはなりません。

 さらにイザヤの預言が引用されます。このイザヤの預言は「残りの者」についての預言です。残りの者というのは、神の民が神から離れていってしまうときに、神の許に留まり、神に従う者のことです。パウロは、キリストを信じるユダヤ人を残りの者だと理解していました。神は、旧約の民の中にキリストを信じる残りの者を置いてくださり、旧約の御言葉が新約の民へと引き継がれるようにしてくださったのです。
 もし神が残りの者を置いてくださらなければ、イザヤが言うようにソドムやゴモラのように滅んでしまったでしょう。イスラエルの十二部族の内十部族は、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアのとった移住政策によりいなくなってしまいました。
 旧約の民は、旧約の御言葉、神の救いの歴史、イエス キリストが神の約束の成就であることの証人です。

 神の御心は、大きすぎて、理解し尽くすことはできません。しかし、わたしたちが救いに与り、神を喜ぶために必要なことは聖書を通してお語りくださっています。神はわたしたちの救いを願っておられ、そのために御業をなしておられます。
 ですから「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」(1コリント 15:58)と聖書は語り、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ 8:28)と語るのです。旧約の民、ユダヤ人の存在意義は、罪人の救いを願う神の御心、神ご自身の内にあるのです。

 旧約の民イスラエルは、割礼や律法、先に選ばれた者であることに執着するのではなく、ひとり子を失う痛み・悲しみを負ってまで旧約の言葉、ホセアの預言を成就された主を誇りとするのです。そして、それはわたしたちも同じです。
 わたしたちの存在を支えるわたしたちの誇り、そして未来の希望は、わたしたちの主ご自身なのです。父・子・聖霊なる神はそのすべてをわたしたちに示し与えてくださいます。その全能の力をわたしたちの救いのために用いてくださいます。だから、聖書も礼拝も、説教も聖礼典も父・子・聖霊なる神を証しします。この神に出会い、神を知ること、信じること、愛することこそが、わたしたちを罪から救い出していくのです。

 「自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる」。
 この御言葉は、わたしたちが神を喜ぶために今語られたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御言葉は空しくなることはありません。だからわたしたちは信じることができます。どうか御言葉を通してあなたと出会い、わたしたちの思いを越えるあなたの救いに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

申命記 11:8〜12

2020-01-01 20:10:58 | 聖書
2020年1月1日(水) 新年礼拝  
聖書:申命記 11:8〜12(新共同訳)


 今年最初に聞く御言葉は、申命記の言葉です。申命記は旧約の5番目の書物です。申命記の「申」には「重ねる」という意味があります。ですから「申命記」の「申命」とは重ねて命じるという意味です。モーセが約束の地を目前にして、最後にもう一度説教してヨシュアに引き継ぐのが申命記です。

 きょうの箇所のメッセージははっきりしています。戒めを守りなさい、ということです。ですが、どのように戒めを守るのかが問題になってきます。
 たとえば旧約の民、ユダヤ教徒は旧約の戒めに従って今日でも豚肉を食べない人が多くいるだろうと思います。一方キリスト教徒は、嫌いな人や菜食主義の人を除いて豚肉を食べるのに抵抗のある人はいないのではないかと思います。
 戒めに限らず、神の言葉を聞くとき、必ず解釈が生じます。その解釈の基準が重要になってきます。その点に気をつけながら、きょうの御言葉を読んでいきたいと思います。

 「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。」
 神が用意していてくださる恵みを受けるために、神は戒めを用意してくださいました。戒めは、神と共に歩み、神の恵みに至る道しるべなのです。
 きょうの礼拝では、戒めは赦しの言葉の後にあります。これは、戒めを守って救いに至るのではなく、赦され、救われて神の民とされたからこそ、神と共に歩むため与えられた恵みが戒めであることをその順序で表しています。
 よく「福音と律法」という言い方がされますが、律法は福音と対立するものではありません。律法も恵みです。神がわたしたちのために語ってくださるものはすべて福音なのです。
 神は、救った後に「後は自分で頑張れ」と言って放り出されるのではありません。例えて言うならば、救った人間を砂漠の真ん中において「後は自分でちゃんとやってね。オアシスに着くといいね」とは神は言われないのです。救われたからこそ、救いの中に留まり、恵みから恵みへと歩むために戒め・律法が与えられているのです。
 ですから、戒めは窮屈だとは思わないで頂きたいのです。登山や旅に地図を持っていくように、神は神の国を目指すわたしたちの人生に地図を与えてくださっているのです。ただ人は罪を抱えていますから、神から地図をもらわなくても、地図は既に持っているからいらないと思ってしまうのです。ですが、神から頂く地図以外には、神の国に至るルートは記されていないのです。
 戒めは「なぜ神はこういう戒めを与えられたのだろう」と神の御心を考えることが大切です。この神の御心を問うことこそ、聖書解釈の最も重要な基準です。これにより律法学者・ファリサイ派の人たちのように形式的に守るのではなく、神の御心を求める中で、神の愛が現れるように、共に神の祝福に与るように守っていくのです。

 「こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。」
 神が導こうとされている約束の地は、エデンの園を思わせる生きるための恵みが溢れ、長く生きることが約束された土地です。イスラエルにとっては地上にあるカナンの地でしたが、わたしたちにとっては神の国こそ約束の地です。聖書は「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ 3:20)と言っています。
 わたしたちの信仰生活は、救いの完成の先駆けです。大好きなドラマや映画の予告編に似ています。本編を見るのを楽しみにしながらその日が来るのを待ち望んで歩むのです。礼拝も聖晩餐も、神の国の喜びを証しするものです。それに与りながら、神の国の到来を望み見て歩むのです。

 「あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。」
 わたしたちの人生は、旧約の民の荒れ野の旅にも似ています。わたしたちの人生は本国である天・神の国を目指して歩む旅のようです。神は礼拝を通して旅の終わりを楽しみに生きられるようにしてくださいました。イエスは言われました。「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ 17:21)。食事が始まる前にやって来た子どもにちょっと味わわせてくれる親のように、神は救いの完成、神の国の到来を楽しみにし、望み見て歩めるように、礼拝も聖晩餐も、神の言葉も戒めも備えてくださっているのです。
 ですからこの新しい年も、神が備えてくださった恵みを味わい、神を喜んで歩んで行きたいと願っています。

 「それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。」
 罪の世にあると「神はおられないのではないか」と思うことがしばしばあります。罪は神の不在を信じさせようとします。ですから神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と語られます。だからイエス キリストは「インマヌエル 神は我々と共におられる」という神の御心を成就するために来られました。十字架も復活もわたしたちのためのものでした。そして、聖霊によってわたしたちはイエス キリストと一つに結び合わされて、「キリストがわたしの内に生きておられ」(ガラテヤ 2:10)るようにされているのです。たとえ迷いだしても、捜し求め見つけ出してくださいます(ルカ 15:1~7)。昨年ヨハネによる福音書から聞いたサマリアのシカルの女性もそうでした。神はご自分が造られたものをどれ一つ忘れることがありません。主が始めてくださったこの新しい年も、始めから終わりまでわたしたちを御心にかけ、常に目を注いでいてくださいます。
 だからわたしたちは、主の平安に生きることができるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この年もあなたがわたしたちの主であってくださいますように。あなたが御言葉によって導かれる救いの道を喜びと感謝をもって歩み行くことができますように。あなたの栄光が豊かに現れ、わたしたちの住むこの社会、この国、この世界があなたの祝福に満たされていきますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン