聖書の言葉を聴きながら

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詩篇 139:1〜12

2020-09-03 11:30:54 | 聖書
2020年9月2日(水) 祈り会
聖書:詩編 139:1〜12(新共同訳)


 聖書からメッセージを聞き取っていく際に、それが書かれた状況が分からないと、何を言っているのか分かりにくいことがあります。今読んでいる詩編であるとか、新約であれば書簡などでそういう箇所に出会います。
 神学の分野でそれを扱うのが「緒論(しょろん or ちょろん)」と呼ばれる分野です。わたしは神学校の1年生で新約緒論と旧約緒論を学びました。漢和辞典には緒論は「本論に入る前置き。序論」とあります。英語だと Introduction です。

 きょうの139篇ですが、読んだだけでは詩人の置かれている状況は明らかではありません。
 ある人は「この詩篇のヘブル語は、バビロンの言葉から採られた、アラム語法が一杯見出される」(ナイト、デイリー・スタディー・バイブル 詩篇 II、新教出版社)ということで、バビロン捕囚から帰還した後に祈られたものと考えています。

 それでも時代的なイメージは掴めても、状況は分かりません。ある人は19~22節から「無実の罪で訴えられた人が、自分のすべてを調べ尽くしたヤハウェにその全知・遍在を告白し、その予定に従って自分と神との敵である不法者を『殺す』ことを願う」(旧約聖書翻訳委員会訳、旧約聖書 IV、松田伊作訳、岩波書店)と理解しています。別の人は「この詩は神の審きの決定を準備するものとして、礼拝の枠内にもともと場を持っていた」(ヴァイザー、ATD旧約聖書註解 詩篇 下、ATD・NTD聖書註解刊行会)というように神に対する罪を裁く裁判の備えの祈りと考えています。

 けれども「詩人は、主なる神の偉大さとともに、主が自分と深い交わりをもってくださる恵みの深さに感動してこの歌を作った」(鎌野善三、3分間のグッドニュース 詩歌、ヨベル)という理解もあると思います。

 残念ながら現時点では、わたしには状況ははっきりとは分かりません。表題に「指揮者によって。・・賛歌」とあるので、礼拝の場で聖歌隊の指揮者によって導かれて讃美するようになっていったのだろうと思いますが、詳しくは分かりません。
 加えて、聖書本文にははっきりしない箇所がかなりあって、138:1~3で簡単な聖書研究をご紹介しましたが、138篇以上に翻訳によって日本語訳が違います。基本的に今読みました新共同訳に沿って読んでいきたいと思います。

 きょうは前半、1~12節を読んで参ります。
 1節「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。」
 神はわたしたちを知っておられます。しかし民は苦難の中にあるとき、神はわたしたちの今の状況を知らないのではないか、わたしたちの祈りは届いていないのではないか、と不安になります。そのような思いで祈っている詩篇もあります。44篇24~27節「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください。/なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを/忘れてしまわれたのですか。・・立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」
 神の民は、神に問い、神の御心・神ご自身を求めてきました。そして神と向かい合う中で導かれてきました。121篇4~6節「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。/主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。/昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」
 139篇の詩人は、何を経験して、神を知ったのでしょうか。神は「わたしを究め」わたしの深みまで知っていてくださいます。詩人がまだ自覚もしていない思いまで知っておられます。

 2~4節「座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。/歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。/わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

 苦難の中にある者にとっては「神が知っていてくださる、わたしは忘れられてはいない」ということは支えになります。しかし罪に留まる者は、神が知っておられることを恐れます。罪を犯したアダムとエバは、神がエデンの園を歩く音が聞こえたとき、二人は神の顔を避けて木の間に隠れました(創世記 3:8)。
 しかし神に望みを置く者は、神が知っていてくださることは支えです。讃美歌II -210に黒人霊歌の「わが悩み知りたもう」という曲があります。その原曲の歌詞は「わたしの経験した苦しみは誰も知らない。しかしイエスは知っていてくださる」です。神と共に生きる者には、神が知っていてくだること、わたしを究めていてくださること、日々の歩み、わたしの辿る道、わたしの思いまでも知っていてくださることは慰めです。

 神は5節「前からも後ろからもわたしを囲」んでくださいます。つまりわたしの辿ってきた道・わたしの過去にも、これから辿る道・未来にも神の御手があり、神が導いていてくださいます。わたしの人生・わたしの歩みのすべてが神の御手の中にあります。
 その神の御心、6節「その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達でき」ません。わたしたちは神の御心を理解し尽くすことはできません。最近礼拝説教で聞きましたように「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ 11:33)。神と知る者は、驚きを経験します。

 わたしを知っていてくださる神は、どこにいようとこのわたしと共にいてくださいます。詩人は、自分が神の手が届かない場所にいるのではないか、という不安に襲われます。詩人はその不安の一つひとつを確認するように言います。7~10節「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。/どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。/天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。/曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
 神は天にいまし、陰府にもおられます。曙の光が現れる東の端から、西の大海 地中海の果てまで神はおられます。わたしたちがどこにいようと神の御手はわたしたちと共にあり、右の御手をもって導いてくださいます。生きているときも、死んで陰府に降っても、共にいてくださいます。神は約束してくださいました。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア 1:5)イエス キリストも言われます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20 口語訳)。

 詩人は光を見出せない闇のような試練の中にいるのでしょうか。
 11~12節「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」
 詩人はどこに向かって歩めばいいのか分かりません。人は幸いを求めて選択しますが、詩人はどれを選べば幸いになるのか分かりません。詩人は、自分と同じように神を信じて歩んだ先祖たちの歩みを思ったかもしれません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、出エジプト、荒れ野の旅、約束の地への帰還、士師の時代、サウル、ダビデ、ソロモン、王国時代、そして王国の滅亡、バビロン捕囚、捕囚からの解放、神殿の再建、王宮の再建・・ いつの時代も、そして誰もが、「死の陰の谷を行く」(詩篇 23:4)ような経験をしました。
 しかし、主が共にいてくださり、主が導いてくださったので、それぞれの時代に、神の民は歩み行くことができました。
 詩人は言います。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」主の前では、闇はもはや闇とは言えない。「闇も、光も、変わるところがない。」それは、神は救いの神でいてくださり、神は変わることなく真実であってくださるからです。

 主はわたしを知っていてくださる。わたしの日々の歩みも、わたしの思いも、わたしの過去も未来も、すべてが主の御前にある。主は常に共にいてくださる。たとえわたしがどこにいようとも、生きているときも、死に臨むとき、死の中にいるときにも、主はわたしを導いてくださる。わたしが道を見出せなくなっても、神はわたしの救いの神。わたしの救いは主と共にある。主こそ我が光。

 聖書には全編を通じて神の民の歩みが記され、それを通して神は御心を示されます。わたしたちもこの詩人と同じように、闇の中にあっても、神を知ることができるように、神の導きがどのようなものであるか知ることができるように、神の救いの歴史・神の民の歩みを通して語られるのかもしれません。

 詩人が祈って数百年の後、イエス キリストは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ 8:12)
 だから代々の教会は、イエス キリストを指し示して「見よ、あの方だ」と言い続けてきたのです。詩人が抱いた望みは、すべての民の望みです。それはイエス キリストにおいて成就し実現しました。神への望みは、虚しくなることはありません。神の民は、祈りつつ歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを知っていてくださる幸いを感謝します。そして、あなたがどのような方であるかを知らされている幸いを感謝します。どうか代々の聖徒たちと同じように、あなたを経験することができますように。わたしたちにあなたと共に歩む幸いをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン