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ローマの信徒への手紙 5:18〜21

2020-02-01 14:11:38 | 聖書
2020年1月29日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 5:18〜21(新共同訳)


 パウロは、3:21から「キリストを信じる信仰の義によって救われる」ということを、丁寧に語ってきました。なぜパウロは、そこまで「キリストを信じる信仰の義によって救われる」ということを語るのでしょうか。
 それは、神が「キリストを信じる信仰の義によって救う」とお定めになったことを知っているからです。

 パウロはユダヤ人です。ベニヤミン族の出身です。もちろん割礼を受けています。彼は熱心なファリサイ派に所属し、有名なラビ ガマリエルの許で律法について学びました。彼は律法に基づく厳格な生活をしていました。彼は、キリスト者が律法を軽んじ神を侮っていると感じ、憤りを押さえられず、迫害に加わるようになりました。
 それが、キリスト者逮捕のためダマスコに向かう途中、パウロは復活のキリストに出会います。使徒9章にその次第が書かれています。

 「さて、サウロ(パウロのヘブライ名)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者(キリスト者)を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」(使徒 9:1~8)

 パウロは、復活のキリストご自身によって回心させられ、迫害する者から宣べ伝える者へと変えられたのです。
 この経験を経て、パウロは自分に示されたことをこう語ります。
「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:4~9)

 パウロは、自分は神に喜ばれる正しい信仰の道を歩んでいると確信していました。それを復活のキリストに否定されたのです。
 救いは自己満足では得られるものであはありません。自分はユダヤ人として割礼を誇りとしているとか、律法をきちんと守っていることを神は評価してくださるはずだとか、いくら自分で主張しても、救いは神がお決めになることなのです。それをパウロは、復活のキリストによって突きつけられたのです。

 神は、善悪の知識の木の実を食べるという一つの罪によって、すべての人が罪に定められたように、罪なきイエスが罪人の救いのために十字架を負い命を捨てるという一つの義なる行為によって、命を得させる義がすべての人に及ぶと、神がお定めになったのです。
 ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのだと、神がお決めになったのです。

 それなのに、いや自分はそこに割礼を加えてほしいとか、断食を入れてほしいとか、自分の満足、自分の納得のために、神の御心と関係なく自分で付け加えてはいけないのです。救いは神の御業、神の憐れみ、恵みによって神が一方的に与えてくださるものなのです。

 旧約の民には律法が与えられましたが、律法の大切な働きの一つは、自分の罪を知ることです。律法によって、自分が神の思いとは違う考え方、違う生き方をしてしまうことを知るということです。旧約の律法を読んでいきますと、21世紀の現在でも実現できていない「すごい」としかいけない律法があって驚かされます。神の御心を受け入れられない自分に気づかされます。
 ですからパウロは「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(ローマ 5:20)と言うのです。自分が罪を抱えており、罪に導かれて生きていることを知るためです。

 「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ 5:20)罪は決して放置されることなく、救いへと招く神の恵みが現れたのです。神は、罪人をあきらめ、捨てることをなさいませんでした。ついには、ひとり子イエス キリストを救い主として世にお遣わしになり、救いの御業を成し遂げてくださいました。
 罪がわたしたちを死と結び合わせ、死によって支配するようになったように、神は、イエス キリストを通して信仰の義という恵みを与えることにより、主イエス キリストによって、わたしたちを信仰による神との正しい関係に招き入れ、神と共に生きる永遠の命によってわたしたちを満たし生かしてくださるのです。

 神がひとり子の命を差し出してまで、わたしたちに与えようとしておられる救いを、自分の願望や自己満足で失ってしまうことがないように、パウロは丁寧に語り続けるのです。
 それは、神があきらめておられないからです。神が、罪の増し加わったところにさえ、恵みをますます満ちあふれさせてくださったからです。パウロ自身が、決してあきらめない復活の主の恵みによって救われたからです。だからパウロはあきらめないのです。かつての自分のように、割礼や律法によってキリストの救いの恵みを拒絶してしまうことがないように、パウロは語るのです。

 神は、イエス キリストを信じる信仰の義によって、わたしたちを永遠の命に招き入れ、救うとお決めになって、イエス キリストを救い主として世にお遣わしになりました。わたしたちの救いは、この神の御心にこそあるのであって、これ以外にはありません。


ハレルヤ


父なる神さま
 全世界の罪の贖いのためにひとり子イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。わたしたちには、救いの時にあっても自分を満たそうとする罪があります。ただイエス キリストだけが自分では拭うことのできない罪から救い出してくださることを知ることができ、信じることができますように。あなたが与えてくださる命の恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン