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ローマの信徒への手紙 13:8〜10

2021-02-14 18:02:55 | 聖書
2021年2月14日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 13:8〜10(新共同訳)


 8節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」
 なぜこのような表現がここで出てくるかと言いますと、7節に「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」とありますが、ここは原文に近い訳だと「すべての人に対して負債を返却しなさい」(岩波版)という表現なので、この表現に合わせて言われています。

 13章は、12:17「すべての人の前で善を行うように心がけなさい」からの流れで、善を保つために、神は権威を立てられたことが語られました。神の御心に応えるために、神の民も善をなすため世の権威に従います。その権威を維持するために、税も納めるという話になり、7節「自分の義務を果たしなさい(負っているもの(負債)を納めなさい)」(田川健三訳)という話になりました。

 「負っているもの(負債)を納めなさい」という表現が出たので、今度は8節で「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」という言い方が出てきた訳です。

 今、8節に至るまでの流れを確認しましたが、きょうの箇所はちょっと不思議です。
 「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」ということは、愛し合うことは借りがあっても構わないということです。
 しかもその言葉の後に来るのが「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」一体何を言っているのでしょうか。

 この箇所を理解するには「愛する、愛」ということと「律法」の意味を理解しなくてはなりません。
 まず最初に「愛する」について考えてみましょう。「愛する」という言葉は、日常でも使うので、国語辞典に載っています。見てみると、三つの説明があります。一つは「愛情を抱く」。もう一つは「コーヒーをこよなく愛する」という表現のように「好きで親しんでいる」。三つ目は「かけがえのないものとして、大切にする」。「学問を愛する」とか「自然を愛する」のように(新明解国語辞典)。
 けれど、聖書が示している「愛」は少し違います。聖書が示している「愛」は「共に生きていく意思」を表しています。神が「わたしはあなたを愛している」と言われるとき、「わたしはあなたと共に生きていきたい」という神の意志がそこに込められています。
 この意思があるところが、「好き」という感情と違うところです。聖書が「愛しなさい」と言っても、「好きになりなさい」とは言わないのは、この意思の部分が大切だからです。
 信仰は決断、意思を求めます。洗礼を受ける決断、信仰告白をする決断、神と共に生きていく決断を求めます。
 好きという感情は、気分や出来事の影響を受けて短時間で変化することがありますが、愛するという意思は、もっと落ち着いた生き方の基本となるものです。
 愛は、共に生きる生活を造り出していくエネルギーになるものです。

 一方「律法」ですが、わたしたちがよく使うのは「法律」という言葉であって「律法」ではありません。しかし律法と訳された言葉「ノモス」というギリシャ語は、「法」という意味の普通の単語で、特別な聖書の専門用語ではありません。訳によっては、律法という言葉を使わず、ノモスを全部「法」と訳しているものもあります。律法という訳を使っているものは、法律一般と区別して、神が与えられた戒めを律法という言葉で表しています。

 さてその律法ですが、神は何のために律法をお与えになったのか。それは、罪の世にあっても、神と共に生きるため、神の下で共に生きるためです。この「共に生きる」は、聖書の柱となっているメッセージです。
 「共に生きる」ための律法であることを、罪人はしばしば忘れます。律法学者やファリサイ派の人たちは、自分が正しいことを確認するため、また自分を誇るために律法を守ります。自分のために守るのであって、そこに「共に生きる」ためという感覚はありません。その勘違いをイエスは「偽善者よ」(マタイ 6:2, 5, 16他)という言葉で示されたのです。

 愛は、共に生きることを造り出すエネルギーであり、律法は、共に生きることの道筋を示すものです。ですから、愛と律法はよく合うし、つながっているのです。それを言っているのが9節です。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」そして、共に生きることを願う愛は、隣人に悪を行わないのです。

 だから、共に生きようとする愛だけが、律法の願いを果たすのです。それをパウロは「愛は律法を全うする」と言っています。8節と10節で二度言っています。

 では最初に「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言われているのは、どうしてでしょうか。それは、愛は返すことができないからです。
 愛は貸し借りなしにはなりません。親に受けた愛を返したら、借りのない正しい親子関係になれるのではありません。神に愛を返したら、貸し借りなしの対等な関係になれるのではありません。愛は、返してもらうために愛するのではありません。だから愛は、受けるもの、借りでいいものなのです。愛は、受けて喜ぶもの、受けて感謝するものです。

 神は愛です(1ヨハネ 4:8, 16)。その神にかたどってわたしたちは造られました(創世記 1:27)。もう一度確認しますが、愛は共に生きようとする意思です。共に生きようとする思いの源は、神ご自身です。そして、その神にかたどってわたしたちは造られました。共に生きるものとして造られました。これは人間の本質です。ですから、神を知っている者も知らない者も、神を信じている者も信じていない者も、愛を求めます。共に生きることを求めます。
 その人間の本質が、罪によって傷ついています。神はその傷を癒すために、愛を注ぎ続けてくださいます。神の愛を信じられるまで注ぎ続けてくださいます。ひとり子を遣わすほどに愛を注いでくださいます。
 では、神の愛を信じたから、それが止まるかと言うと、止まりません。母の胎に命が誕生したときから、注がれ続けています。だから、神の愛こそ、受けて喜ぶもの、受けて感謝するものです。
 そして、人は愛されることによって、愛を知るのです。そして愛された者は、愛するのです。だから、人は愛される者、赦される者として幼児期を過ごすのだと思います。愛されること、赦されることを経験して、人生は始まるのです。わたしは、そこに神の御心があるのだと思います。そして礼拝において、わたしたちは生涯、神の愛を受けていくのです。
 だから愛に関しては、借りのある者として生きるのです。そして、どう愛したらいいんだろうと考えるわたしたちに、神はその道しるべとして、律法を与えてくださいました。

 皆さんが、律法に触れられるときには、共に生きることを願っておられる神の愛を感じて頂きたいと願っています。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをあなたにかたどってお造りくださり、愛に生きる者として創造してくださいました。そしてあなたご自身が、尽きることのない愛を注ぎ続けてくださいます。どうかわたしたちが、あなたの愛を喜んで受ける者、感謝して受ける者であることができますように。そしてあなたの愛に満たされて、愛する者として律法に聞くことができますように。どうかわたしたちを、あなたの愛を分かち合う恵みで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン