晴嵐改の生存確認ブログ

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

The Bird in Ruins (後編)

2010年04月29日 | SS
SS企画「一枚絵で書いてみm@ster」参加作品
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前編からの続きです。未読の方は、先に前編をお読みください。
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 夢を見ている。

 いつもの廃墟。
 もう飽きるくらいに訪れた、朽ち果てた世界。

 だが、いつもとは少し様子が違った。
 これまではずっと昼間だった世界が、今回は日暮れ時か夜明け前のような薄闇に覆われていた。
 こんなことは、これまでに一度もなかった。
 訝しくは思うけれど、それが何を意味するのかもわからず、どうすればいいのか見当も付かなかった。
 とりあえず、いつも通りに港湾跡を目指して歩き出す。
 荒れ果てた港では、古びた船の残骸が、いつもと変わらずにそこにあった。
 こうして下から見上げると、竜骨も、そこから突き出た肋材も、桁外れの巨大さであることがよくわかる。もしもこれが完全な形であったなら、相当に大きな船であったのだろう。
 いつもの場所へ上がりたいと思ったが、空を飛ぶ気にはなれなかった。
 風をつかまえれば飛べると思うのだけれど、月も星も出ていないような薄暗い空を舞いたいという気持ちになれなかった。
 思い切って海中に足を踏み入れると、水深は思った以上に浅かった。くるぶしのあたりまでしか水がない。なるほど、これでは廃船が沈むことなく、その荒れ果てた姿を晒しているのも当然だと納得する。
 パジャマの裾をまくり上げ、私はざばざばと浅瀬を歩いて、かつて船だったものへ歩み寄ってゆく。あちこちにある凹みに足をかけ、私は自力で肋材をよじ登っていく。
 いつもの倍以上の時間を掛けて、いつもの場所に辿り着く。
 腰を下ろして、息を吐く。

 歌を歌うべきなのだろうか……。

 いつも、そうしてきたように。

 だが、声が出なかった。何を歌えばよいのか、わからなかった。
 夢の中で歌うこともできないのか、私は。
 忸怩たる気持ちごと膝を抱え込む。


「今日は、歌わないんですか?」


 よく通る声に、振り返る。

 いつ崩れてもおかしくない状態の桟橋に、昨日の少女が立っていた。

「高槻さん……」

 思わず零れた言葉に、少女は柔らかく微笑む。

「やっぱり、如月さんでした」

 そうね。夢で会うなんて、奇遇ね――などと気の利いたことが言えるわけもなくて、私は、ただ黙り込む。
 私の無言を肯定と受け取ったのか、高槻さんは得心がいったように頷いてから、再び口を開いた。

「如月さん!」
「な、なにかしら?」
「私、如月さんの歌が聴きたいかなーって」
「……私の、歌……?」
「はいっ!」

 私の歌、か……。
 そう言えば、なぜ私は歌っているのだろう? 歌っていたのだろう?
 歌が好きだから?
 本当に、そうだろうか?
 私は歌が好きなのですと、そう言って胸を張れるだろうか?

 誰に対して?

 プロデューサーに?
 両親に?
 それとも、高槻さんに?

 この廃墟を夢に見るようになってから、私はずっと恐れていた。
 私は、ただ歌に逃げているだけではないのかと。
 歌うことで、現実の、立ち向かうべき問題から目を逸らしているだけではないのかと。
 夢の中でそれを自分に問いかけ、その問いから逃れるように目を覚ます。
 現実から逃げ、夢からも逃げる。そんな循環。
 とんだお笑い種ではないか……。

「高槻さん……」
「なんですか?」
「私は、ちゃんと歌えていたのかしら……」
「素敵でしたよ、とっても!」

 本当にそうだったのなら、嬉しいと思う。

 その気持ちだけで、もう一度歌を歌えるだろうか。

「……拙い歌だけど、聴いてくれるかしら? 高槻さん」
「はいっ!」

 何の躊躇いもなく元気のよい返事をしてくれた高槻さんを視界の隅で捉えつつ、私は深呼吸をする。
 気持ちを落ち着かせ、何を歌おうか、と考える。
 今までは、特に深い考えもなく好きな歌を好きなように歌っていた。どうせ自分一人しかいないのだからと、ただ気を紛らわせるために歌っていた。
 だけど、今日は歌を聴いてくれる人がいる。ならば、精一杯の気持ちを込めて歌おう。

 私が、大切にしていた歌を……!

 ヒット曲ではないけれど、まだ私がもっと歌が下手くそだった頃に弟が好きだった歌。よく歌ってくれとせがまれていた歌を、歌おう。
 ただ、弟を喜ばせたい一心で歌っていたときの気持ちを思いだして――

イラスト:タカシP

 力一杯歌いきって、ふっと息を吐く。
 パチパチと拍手が響く。
 見ると、高槻さんがまっすぐこちらを見ていた。

「やっぱり、如月さんは素敵です」

 そう言って、彼女は笑った。
 昨日は眩しすぎて直視できなかった笑顔だけど、今なら受け止められると思った。
 だが、今日の夢はそれで終わらなかった。
 ふと違和感を覚えて顔を上げた私は、世界が変化しつつあることに気がついた。

「夜明け……?」

 薄暗かったはずの空が明るさを取り戻しつつあった。
 水平線から光が迸り、世界を白く染めていく。

 光が満ちる。

 けれど、これは慈愛の光などではない。破壊の光なのだ!と、直感する。
 高槻さんに目を向けると、やはり彼女はどうしていいのかわからない様子で、呆然と立ち尽くしていた。

「高槻さんっ!」

 思わず伸ばした手は、十数メートルの距離を超えて、高槻さんの手を掴んでいた。

 次の瞬間、電流のような衝撃が私を貫いた。

 一瞬のうちに頭の中へ流れ込んできた膨大な情報。それは、数え切れない量のイメージと感情だった。私には、それが高槻さんの記憶なのだとわかった。
 痺れるような感覚が、足をふらつかせる。
 おそらく、逆のことも起きただろう。つまり、高槻さんへ私の記憶が流れ込んだに違いない。驚きに目を瞠っているのであろう高槻さんの表情からだけでは、それがどんな影響を及ぼすのかまではわからなかった。

 そして、そのほんの僅かな遅滞の間にも光は世界を侵食し続けていた。輝ける奔流が瞬く間に私たちを包み込み、そして隔ててゆく。

「如月さんっ! どこですかっ?!」

 高槻さんの呼ぶ声が微かに聞こえた。ような気がした。

 だが、もう視界は真っ白で何も見えず、声を上げようと口を開いても音にはならなかった。

 ああ、これで終わりなのか、と思った。
 私の中で何かが永遠に失われた、という漠然とした感覚だけが胸の奥で燻っていた。
 何を失くしてしまったのかはわからなかったけれど、それが二度と取り戻すことはできないのだということだけは確信していた。
 何かを手に入れるということは、同時に何かを失うことでもある。
 だとするならば、夢の中の廃墟を失って、私は何かを手に入れたのだろうか? 手に入れられるのだろうか?


 目を開く。


 視線の先にある天井は、いつもの私の部屋の天井で、そして何故だかぼんやりと滲んで見えた。
 手の甲で目尻を拭って、カーテンの隙間から窓の外を窺う。
 あまりにも朝陽が眩しくて、私は目を細めた。





「おはようございます」

 と挨拶したが、返答がない。
 おかしいな、と思って首を巡らせると、事務員の音無さんが申し訳なさそうに手を合わせるのが見えた。

「ごめんね、千早ちゃん。プロデューサーさん、まだ出先から帰ってないのよ。もうじき戻ってくると思うから、ちょっと待っててくれる?」
「わかりました」

 仕事であれば仕方ない。
 私は空いている応接スペースで待たせてもらうことにした。

 俯き加減で歩いていたから、パーティション代わりの観葉植物の陰から出てきた人とぶつかりそうになる。

「ごめんなさ――」

 反射的に返して、相手の顔を見て、私は息を呑んだ。

「――高槻さん……」

 どんな顔をすればよいのかわからなかった。
 夢の中で高槻さんに触れたときに、私の中へ流れ込んできたイメージが真実なのか。
 それを本人に問い質すことができるほど、私も神経の太い人間ではなかった。
 しかし、口籠もる私の顔を見て、高槻さんは敏感にこちらの心情を察したらしかった。

「たぶん、如月さんの考えている通りです」

 そう言って、高槻さんは屈託なく笑ってみせた。

「うちは、貧乏なんです。お父さんはよく失業するし、きょうだいは多いし。だから、節約することだけは、私、得意なんですよ」

 と、高槻さんは胸を張る。
 そんな境遇で、どうして笑っていられるのかわからない、と思った。
 そのことを訊ねると、高槻さんは事も無げに言ってのけた。

「だって、笑う門には福来たるって言うじゃないですか! 辛いこともいっぱいありますけど、でも、なるべく私は笑ってなくちゃって思うんです。私が辛そうにしていたら、弟や妹たちは余計に辛くなっちゃいます。それじゃダメだって思うんです」

 なるほど、そうなのかもしれない。

「そうね……。くよくよしてちゃいけないのかもしれないわね……」
「はい。その……、如月さんも、いろいろ大変みたいですけど……」

 そこで初めて、私は高槻さんが「きさらぎ」と発音するのが不得手なのだと気がついた。

「苗字が呼びにくければ、千早で良いわ」
「あ、えへへ……。千早さんも大変みたいですけど、でもでも、くじけないでがんばっていれば、きっと良いことがあるって思いますっ!」

 高槻さんにそう言われると、本当にそうなんじゃないかと思えてくるから不思議だ。

「ありがとう、高槻さん」
「えへへ、どういたしましてっ」

 と、ちょうどそこへプロデューサーが慌ただしく帰ってきた。

「ただいま戻りましたっ。――小鳥さん! もう、千早は来てますか?!」

 と、音無さんに確認するプロデューサーに、高槻さんがよく通る声で呼びかける。

「こっちですよ、プロデューサー!」
「え?」
「お疲れ様です、プロデューサー」
「あ、ああ……」
「どうしたんですか?」
「いや、千早にねぎらいの言葉をかけてもらえるとは思ってなかったから……。こりゃ、明日は雹でも降るかな?」
「……どういう意味ですか?」

 失礼なことを口走るプロデューサーを睨みつけると、彼は慌てて顔の前で手を振ってごまかした。

「いや、何でもないんだ……」

 何でもないわけはないが、今この場で深く追求することはやめておくことにする。

「それより、やよいとすっかり仲良くなってるみたいじゃないか。昨日は折り合い悪そうだったのに」
「女の子には、いろいろと秘密があるんです」
「はあ……。そんなものなのか?」
「そんなものです。……ね? 高槻さん」
「はいっ。千早さんの言うとおりだと思います!」
「はあ……」

 しばらくプロデューサーは狐につままれたような顔をしていたが、やがて気を取り直すかのようにかぶりを振った。

「……まあ、いいか。レッスン、行くぞ。準備はできているか?」
「勿論です」

 と即答して、私は高槻さんの方へ振り返る。

「それでは、またね」
「いってらっしゃい、千早さん」

 短く視線を交わして、私たちは別れる。

 もう夢で会うことはないだろう。

 けれど、これからは同じ765プロダクションの仲間として切磋琢磨する関係になれるのではないだろうか。そんな予感を胸に、私はレッスンスタジオへと向かった。





 私は歌う。

 逃げるためではなく。

 私は歌う。

 未来を掴むために。

 私は歌う。

 それが、私の生きる道だと信じるがゆえに。


(了)


The Bird in Ruins (前編)

2010年04月29日 | SS
SS企画「一枚絵で書いてみm@ster」参加作品
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後編へ続きます。
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 夢を見ていた。

 いつもの夢。

 私は、朽ち果てた廃墟の真ん中に、ひとり佇んでいた。
 周囲には、かつては建物だったであろう白亜の石材が散乱していて、人間どころか生き物の気配すら感じない。
 背後を振り返ると、すっかり枯れてしまった泉がある。もう水どころか湿り気すら感じないほど乾き切っている。それなのに、なぜ泉だったとわかるのだろう。考えてみれば不思議だけれど、夢なのだからわかって当然なのかもしれないと思い直す。
 足下に視線を移せば、地面を舗装する石畳はボロボロで、既に風化が始まっていた。
 そんな殺風景という言葉でも足りないような荒廃した景色の中で、私は淡いブルーのパジャマ姿で突っ立っている。場違いにも程がある、と思った。

 これが現実であるわけがなかった。

 私は溜息ひとつ吐いて、歩き出す。
 何度も通った道だ。もう迷うこともない。
 しばらく歩いていると、肌に触れる空気の質が変わるのがわかる
 延々と続くかと思われた廃墟が途切れ、目の前が開ける。
 湿り気を含んだ風が頬を撫でて、潮の匂いを鼻腔に残してゆく……。

 海だった。

 かつては港だったであろう岸壁にもたれかかるような格好で数隻の船が朽ちたまま着底し、見るも無残な姿を晒していた。
 これは骸なのだ――と、もう何度目になるかわからない感慨を抱く。
 大昔には、この船は外国との交易に使われていたのだろうか? と、そこまで考えてから、私は自分の浅はかさを笑った。
 目の前に広がる光景は、全て私の夢の中にあるものだ。
 骨組みだけになってしまった船の残骸を見て、その往事の姿を想像するなど、あまりにも馬鹿げていた。
 ここには、最初から過去も未来もないのだから。

 益体もない思考を振り捨てるように、私は両手を掲げて伸び上がる。その勢いのまま、体が浮き上がる。
 夢だから、空を飛ぶことだってできる。
 そのことに気づいたのは、いつだっただろう。
 私は、私以外には誰もいない、このひっそりと静まりかえった世界で、不可視の翼を広げた。
 船の墓場と化した港湾跡を眼下に見て、私は身を翻す。急角度で降下しつつ、廃墟に屹立する古びた石柱の間を縫うように飛ぶ。もし誰か見ている人がいたのなら、私はまるでピーター・パンのように見えたかもしれない。いや、パジャマ姿だから、ウェンディの方が喩えとしては適切だろうか?
 そうして、ひとしきり荒っぽい空中散歩を楽しんでから、私は再び港湾跡へ舞い戻り、朽ちた船の残骸の上に降り立った。
 寸断された竜骨から、まさに巨獣のあばら骨のように突き出た肋材の突端に腰を下ろして、私は歌を歌う。
 この世界には、私の歌を聴いてくれる人はいない。
 それでもよかった。好きな歌を歌って過ごせるのなら、そこがどこだって構わないと思った。

 けれど、と私は自分に問いかける。

 私は歌が好きなのだろうか?
 歌を愛しているのだろうか?

 そこで、いつも夢は終わる。
 計ったようなタイミングで。
 まるで、答えを出すことを避けるかのように。





 目覚まし時計のアラームを止めて、私は身を起こす。
 カーテンの隙間から漏れる光に目を細めてから、時計を覗き込んで時刻を確かめる。
 いつも通りの時刻に起床したことに安堵し、私はパジャマを脱いで制服に着替え、階下へ降りた。
 朝だというのに、一階のダイニングには誰もいない。
 もう何年もこんな有様だから、すっかり心が慣れっこになっていて、今となっては何の感慨も湧いては来ない。
 これでは、夢も現実も大して変わらない。
 無人の台所に入り、買っておいた食パンをトースターに放り込みつつ、お湯を沸かす。
 焼き上がったトーストにマーガリンを塗りつけ、苦いだけのインスタントコーヒーで流し込む。
 そうやって朝食を済ませて、手早く身支度を調える。
 早めに登校したからといって、特に何かするべきことがあるわけではない。
 だけど、この家でゆっくりしていたくはなかった。
 だから、まるで何かから逃げるように、私は家を出た。

 本当に、逃げられたらよいのに……。





 いつも通りに一日を過ごし、下校する。

 部活はしていない。
 一応、合唱部に籍を置いてはいる。けれど、他の部員と部活動の方針を巡って一悶着あってから顔を出していなかった。あれから一ヶ月ほど経っているけれど、もうどうでもよかった。
 帰宅部の生徒たちに紛れるように校門を通り抜け、最寄り駅から自宅へ向かうのとは逆方向の電車に乗る。数ヶ月前まで縁もゆかりもなかった駅で降り、改札を抜け、商店街を歩く。
 私の目的地は、その商店街の外れにあった。
 どこにでもあるような雑居ビルの3階を見上げると、窓ガラスに貼り付けられたガムテープが「765」の数字を形作っているのがわかる。それが目印。看板代わりにしては、あまりにも拙く、貧乏くさいとも思ったけれど、あえて口にするほど子どもではない。
 私は黙って歩を進め、芸能事務所――765プロダクションへと通じる階段を登った。

 今、私が置かれている状況に全く不安を感じていないと言えば嘘になる。
 もともと事務所の規模には興味がなかった。私に歌う機会を与えてくれるかどうか。それだけが関心事だった。
 とは言っても、これといってやることもないまま事務所のCDライブラリを片端から聴いていくだけの日々が続くと、さすがにいろいろと考えてしまう。私がこのまま765プロに所属し続けていてよいのかどうか問い直し始めたのを察したわけではあるまいが、今から二週間ほど前に急遽デビューすることが決まり、担当プロデューサーが付くことになった。
 私を担当することになった年若いプロデューサーの資質には幾許かの疑問と不安を感じないでもなかったが、今はまず無事にデビューすることが大事だ。オーディションに備えてレッスンを繰り返していれば、気持ちも紛れる。余計なことを考えなくていい。そう思うことにしていた。

 階段を登り切ると、目の前に「765PRODUCTION」と小さく英字で記された扉が現れる。
 扉の前に立ち、私は呼吸を整える。
 控えめにノックをして、ドアノブに手を掛ける。

「おはようございます」

 ようやく慣れてきた業界流の挨拶で、事務所に足を踏み入れる。

「おう、おはようさん」

 私の担当プロデューサーが軽く手を上げて、挨拶を返してくれた。
 まあ、悪い人ではないのだということは何となくわかってきた。だから、プロデューサーとしての手腕も優れている、とは限らないけれど。
 我ながら、頑なだとは思う。
 けど、仕方ないとも思う。

「今日は、ダンスレッスンだ」

 その言葉に、私はきっと不機嫌な表情になっていたのだろう。

「ま、気持ちはわかるけどな」と言って、プロデューサーは私の肩をポンと軽く叩いた。
「千早の歌への思いが強いのは認めるよ。実際、誰に習ったわけでもないのに、あの歌唱力だ。大したもんだと思うさ。でもな、アイドルとしてやっていくためには、ボーカル一本槍ってわけにはいかない。ダンスやビジュアルレッスンは好きではないかもしれないが、疎かにすることはできないんだ。わかるな?」

 それは正論だと思った。
 だから、私は頷いた。

 けれど、と私は自分に問いかける。

 私は歌が好きなのだろうか?
 歌を愛しているのだろうか?

「行くぞ、千早」

 プロデューサーの言葉が私の思考を遮って、そこでいつも疑問は立ち消えになる。
 計ったようなタイミングで。
 まるで、答えと向き合うことを避けるかのように。





 また、夢を見ている。

 白い瓦礫が周囲に広がる、いつもの廃墟。

 枯れた泉のほとりに腰掛けて、私はすっかり見慣れてしまった風景をぼんやりと眺めていた。
 いくら夢とはいえ、なぜこんな寂しい世界に私はいるのだろう。
 そう思わないではない。
 一切の他人が登場しない世界。家族も、友人も、知人も、赤の他人もいない。私ひとりだけの世界。この上なく孤独だが、同時にあらゆる種類の人間関係に煩わされることもない世界。
 それが、私の望みなのか?

 そうなのかもしれない、と思う。
 そうなのだろうか、とも思う。

 あれから何年経っただろうか。
 家が安らぎの場でなくなって、それでも生きていくためには家族を――もう私のことを見ようともしない両親を頼るしかない現状。頼れるだけマシではないかという諦め。早く自活できるようになって家を出て行くんだという焦りにも似た気持ち。それを希望と読み替えてみても、何も変わりはしなくて……。

「幾ら考えても堂々巡りだとわかっているのに、ね……」

 私は独りごちつつ立ち上がり、荒れた石畳の道を海へ向かって歩き出す。
 吹き寄せた風に流されるようにして空へと舞い上がり、あぁ、この世界にも風だけはちゃんと吹いているんだなぁ……なんて、妙なことに感心しながら、港に散らばる船の残骸に向かって私は飛んだ。

 そして、いつもの場所に腰かけて、歌を歌う。

 誰もいないこの場所で、誰に聴かせるわけでもない歌を歌う。
 最初は自己満足だと思っていた。
 けれど、途中で気がついた。そうではないのだと。自分を満足させるために歌っているわけではないのだと、気づいてしまった。
 つまり、私は歌を聴かせたい相手を見失っているだけだったのだ。
 いちばん歌を聴いて欲しい人を失くしてしまい、次に誰に向かって歌えばいいのかわからないまま、ここまで来てしまっていた。
 その行き着く果てが、この廃墟なのだろうか。
 そうだとは思いたくなかった。
 自分の歌には価値があるのだと信じたかった。
 他に取り柄がないから歌に逃げているだなんて認めたくなかった。
 だけど、それも限界かもしれない。
 これまでに感じたことのない倦怠にとらわれて、私は歌うことをやめて空を見上げた。
 こんなふざけた世界でも、空はやっぱり青かった。


 パチパチパチパチ……


 突然の拍手に、私は心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。
 ここは夢の世界で、私以外には誰もいない廃墟だ。
 そう思い込んでいたから、ほんのささやかな拍手が私をひどく狼狽させた。
 内心の動揺を押し殺して、周囲に視線を走らせる。
 拍手の主はすぐに見つかった。
 淡い橙色のドレスを着た少女が朽ちかけた桟橋に立ち、まっすぐにこちらを見上げている。
 ここは夢の世界だから、相手が見たままの存在かどうかはわからない。
 けれど、目に見える姿を持っていたことは、私を多少なりとも安堵させた。

 どこから来たのか。
 何者なのか。
 いつからいたのか。

 そう自問することで、心を落ち着けることができた気になっていると、不意に少女が口を開いた。

「とても素敵な歌ですね」

 そう言って、少女は花が咲くように微笑んだ。
 しかし、私は返すべき言葉を知らなかった。
 口を噤んだままの私に構わず、少女は言葉をつなぐ。

「私も、お姉さんみたいに上手に歌えるようになりたいです」

 お姉さん、というのは私のことだろうか。
 他に誰もいない。
 私のことに違いなかった。

 だが、少女のまっすぐで裏のない言葉が、今の私には身を切る刃のように感じられた。
 彼女の眼差しから逃れるように私は俯き、そして呟いた。

「私には、他に何の取り柄もないから……」

 その声が彼女の耳に届いたかどうかはわからない。

 そこで、夢が終わったから。
 計ったようなタイミングで。
 まるで、彼女から逃げ出すかのように。





 目覚まし時計のアラームを止めて、身を起こす。
 静まりかえる薄暗い部屋の中で、私は膝を抱えた。

 また逃げてしまったという苦い思いが、私の中でじわじわと広がってゆく。

 嫌なことから目を逸らし、耳を塞いで、それで生きていけるわけがないのに。
 わかっているはずなのに……。
 わかっているつもりだったのに……。





「おはようございます」

 正直なところ、全く気乗りはしなかったが、デビューもしていないうちからレッスンをサボるようではいけないだろうという義務感だけで事務所に顔を出す。

「おう、おはよう」

 プロデューサーが返す脳天気な挨拶に、少しムッとする。
 それが単なるわがままなのはわかっている。わかっていて、腹を立てる。
 本当に度し難い生き物だなと思う。

「あぁ、ちょうどよかった。折角だから、紹介しておくよ。……おーい!」

 しかし、私の気持ちなど知らぬ顔で、プロデューサーは誰かを呼んでいる。
 私はソロでやっていくと決めたのだ。誰とも馴れ合うつもりはない。
 そんな冷め切った気持ちで、私は踵を返す。プロデューサーの準備ができるまで、空いている会議室のオーディオシステムを借りて音楽でも聴いているつもりだった。

「千早!」

 プロデューサーに呼ばれて、足を止める。

「紹介しておく。お前と同じアイドル候補生の高槻やよいだ。仲良くしてやってくれな」

 溜息を吐いて振り返る。
 次の瞬間、私は息が止まるかと思った。
 夢で会った少女――にそっくりの少女が、そこにいた。
 危うく声を上げそうになったが、どうにか踏みとどまる。

「はじめまして、高槻やよいです。よろしくお願いします」
「……よ、よろしく。高槻さん……」

 深々とお辞儀をする少女――高槻さんに、私はたどたどしい挨拶をすることしかできなかった。
 そんな私を見つめて高槻さんは小首を傾げ、そして言った。

「あの、私、如月さんにお会いしたことがあるような気がします……」
「そ、そう?」

 前触れなく放たれた言葉は胸元に突き出された剣のようで、私は内心の動揺を悟られまいとするだけで精一杯だった。
 確かに、私は夢の中で高槻さんによく似た――それこそ瓜二つの少女と出会った。服装は違えど、ふんわりしたボリュームのある髪を頭の後ろで二つにまとめた髪型は全く同じだったし、声もよく似ていると思う。
 だが、それはあくまでも夢なのだ。
 落ち着け、と自分に言い聞かせながら、乱れた呼吸を整える。

「どこで会ったのかなあ……。うーん……」
「……きっと、他人の空似ではないかしら?」

 しきりに首を捻る高槻さんにそう言い捨てて、私は彼女に背を向ける。
 これ以上、高槻さんと向き合い続けては、平静を保つ自信がなかった。

「そう、なのかなぁ……」
「そうよ。きっとね」

 あれは、夢なのだ。

 そう自分に言い聞かせる。
 他人の空似だと言ったのは、他でもない私自身ではないか。

「行きましょう、プロデューサー。スタジオを使える時間は限られているのですから、有意義に使うべきだと思いますが」
「あ、あぁ……、そうだな……」

 私たち二人の間に流れる微妙な空気に戸惑っていた様子のプロデューサーを促して、レッスンへ向かう。
 何かに打ち込めば、忘れられると思った。
 忘れたいと思った。
 忘れて、どうするのかまでは、考えなかった。


続く


春霞蒼月記 ~其の一

2009年12月30日 | SS
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以下の文章は、ゲーム「THE iDOLM@STER」を題材とした二次創作小説です。原作のゲームとは一切関係ありません。キャラクターの描写などにおいては、原作のゲームを参考にしておりますが、物語の都合により意図的に改変している箇所もありますので、読み進めるにあたりましては、ご注意とご理解をよろしくお願い致します。
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春霞蒼月記 ~序


 春香にとって半年ぶりとなる水瀬の町は、変わることなく活気に満ち溢れていた。
 市街を南北に貫く大通りに沿って多数の商店が軒を連ね、客を呼び込む威勢のいい声が飛び交う。店先を覗いて品定めする人々の横顔も、心なしか生き生きしているように見える。
 忍びの隠れ里とは百八十度異なる空気。だが、それを春香は不快とは感じなかった。それどころか、むしろ好ましいとさえ思っていた。もしかしたら、こんな賑やかな町で暮らす人生もあったのかもしれない――そんな夢想を抱かなかったと言えば嘘になる。喧しく、騒がしく、静けさをどこかに置き忘れてきたような町の雰囲気に、とうの昔に失くしてしまった何かを感じ、不思議な安らぎを覚えたのもまた事実ではあったのだ。
 しかし、そんな感傷を抱いたのはほんの一瞬のことに過ぎない。
 通りを行き交う人々の間を縫うように、春香は再び歩み出す。如月家の使用人として雇ってもらう前にやっておかなければいけないことが、まだ幾つか残っていた。ただ如月家の門を叩けばよいという、単純な話ではないのだ。

「萩原屋は……確か、こっちだったよね……」

 と、春香は独りごちる。
 大通りの中程にある角を西に曲がったところにある商店。それが、萩原屋であった。
 様々な雑貨、道具や日用品を扱い、店の入口に白字で『萩原屋』と書かれた藍染めの暖簾が掛かっている以外には主張らしい主張はない。賑やかな呼び込みもなく、派手な宣伝も、謳い文句もない、ごくひっそりとした構え。しかし、品揃えの良さでは定評があった。店頭に並ぶ品物の質の高さは、水瀬に住む職人達からも大いに頼りにされており、いまや萩原屋と言えば知る人ぞ知る良店である。
 が、それは表向きの顔――萩原屋の持つ一面に過ぎなかった。

「ごめんください」

 と声を掛けつつ、春香は萩原屋の暖簾をくぐる。
 はーい、と店の奥から澄んだ声がして、一人の少女が姿を見せた。

「何をお求めですか?」

 気さくに応対する少女の髪は肩の少し上で綺麗に切り揃えられており、その肌は雪のように白かった。

「雪歩!」

 春香が呼び掛けると、雪歩と呼ばれた少女は柔らかい笑みを浮かべた。

「お久しぶりだね、春香ちゃん」
「雪歩こそ、元気にしていた?」

 訊ねる春香に、雪歩は小さく頷き返す。

「うん。……話は聞いているよ。奥に行こうか」
「そうだね」

 春香と雪歩は連れ立って店の奥に姿を消し、二人と入れ替わるように若い男が店番に立つ。何事もなかったかのような静けさが戻ってくる。
 たまたま店内に客はなく、一連のやり取りを見ていた者はいなかった。けれど、仮に誰か見ている者がいたとしても、離れて暮らしていた友人もしくは親戚の再会、というようにしか見えなかったに違いない。
 だが、それもまた見せかけに過ぎない。忍びである春香と顔なじみである雪歩という少女が、その雪歩が店番をしている萩原屋という店が、見た目通りの存在であるはずがなかった。
 忍びは、世の裏を歩く稼業である。しかし、ただ闇に紛れての暗殺を生業とするだけの存在ではない。世の中に影響を及ぼそうとするのであれば、裏からだけでなく、表からも力を行使しなくてはならない。
 そのために作られたのが『萩原屋』という存在だった。表通りに堂々と存在し、その信頼感を担保に各方面から情報を収集する。自らが工作活動を行うことはないが、忍びの行動を支援することで間接的に任務達成に貢献する。それが、萩原屋の真の存在理由であった。

「――今度は長いんだって?」

 奥座敷に通された春香がぼんやりと壁のシミを眺めていると、不意に雪歩が訊ねてきた。

「……少なくとも半年はかかるって言われてる」
「そっか。大変だね……」

 と、お茶を淹れながら雪歩が応える。
 大変だよーと言いつつ、春香が畳の上に寝転がる。

「そもそも、見ず知らずのお姫様に近付いて、しかも親密な仲になるなんて、そんな簡単にできるものなのかな」
「うーん……」

 頤に手を当てて、雪歩が小首を傾げる。

「でも、春香ちゃんに命令が下されたってことは、それができるって判断されたってことなんじゃないのかなぁ」
「だといいんだけどね」

 苦笑しながら身を起こした春香の前に、湯呑み茶碗が置かれる。

「はい、お茶。気弱なんて、春香ちゃんらしくないよ?」
「ありがと、雪歩」

 湯気を立てるお茶に息を吹きながら、春香は訊ねた。

「どうなの? 雪歩は上手く行ってるの?」
「おかげさまで」

 と、雪歩は微笑んだ。
 元はと言えば、雪歩も春香と同じ隠れ里で過ごしてきた忍びの一人である。春香達と共に忍びとしての特殊訓練を受け、実地での任務経験もある雪歩だったが、今は萩原屋の責任者として忍び達を後方支援する立場にあった。
 彼女の能力自体は高く評価されていたものの、長期に渡って忍びとして前線で戦い続けることは性格的に向いていない。そう判断した里長により、雪歩は萩原屋での後方支援任務へ回されることになった。それに異を唱える者はいなかった。忍びとして生きていくには、雪歩は優しすぎる。里の誰もが、そう思っていたから。

「もう一年になるんだね」

 そう言って、春香は湯呑みに口をつけた。

「そうだね。ほんの一年前まで、私も命懸けの任務に就いていたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちがする……かな」
「ま、それはそれとして――」
「仕事の話、だね」
「うん」

 二人の間に流れていた空気が、ピンと張りつめたものに変わる。
 雪歩は立ち上がり、壁に作り付けられた棚から大きな封筒を取り出すと、その中身を卓袱台の上に並べた。

「これが、春香ちゃんの身元を保証する書類一式。打ち合わせの通り、天海村の出ということにしてあるけど、一応ちゃんと確認しておいてね」
「わかった」

 春香は首肯して、それらの書類を手に取った。
 いまだ全国統一の戸籍は整備されていないが、水瀬は自らの支配地域において住民登録とでも呼ぶべき制度を施行していた。氏名、性別、生年月日、出生地、現住所といった情報を政庁に登録することで、いわば水瀬家が領民の身元保証をおこなうというものであった。
 租税徴収のための領民管理が制度の目的であったことから導入当初は抵抗もあったが、住民登録と引き換えに各種のサービスを提供することで急速に浸透していき、今では水瀬城下では政庁発行の身元保証書なしには働くこともままならない状態となっていた。
 忍びの里に身を置く春香達も、架空の住民登録を済ませており、必要に応じてこれを使用していた。

「それから、これが紹介状。これがないと門前払いされちゃうから、失くしちゃダメだよ」
「気をつけます」

 春香が神妙な顔で頷くと、雪歩は懐から小さな巾着袋を取りだして春香の前に置いた。

「あとは、当座の資金。どうせ、路銀だって大して持たされていないんでしょう?」
「……ご明察」
「住み込みの使用人だから必要なものは支給されると思うけど、だからといって一文無しというわけにはいかないものね」
「ありがとう。助かる」

 応えて、春香は立ち上がる。
 積もる話は幾らでもあるが、今はゆっくりしていてよい時ではない。

「じゃあ、行ってくるね」
「気を付けて。落ち着いたら、遊びに来てね」
「そっか、そうだね。同じ町にいるんだもんね。ありがと、雪歩」

 そう言い置いて、春香は萩原屋をあとにした。
 背後は振り返らなかった。




 水瀬の大通りを北上すると、やがて立派な屋敷が建ち並ぶ区画に辿り着く。この町を中心とした一帯を支配する水瀬家の家臣達の居宅が集められているのだ。春香が目指す如月家も、この区画の中にあった。
 どこまでも長く続く土塀。風格ある門構え。どこを取っても他の屋敷とは規模が違う。細工の精巧さも比にならない。さすが譜代の重臣と言うだけのことはある、と春香は感心した。
 しかし、感心してばかりもいられない。見物に来たわけではないのだからと気を引き締め、まずは屋敷の正門に立つ門番に声を掛けてみることにする。

「あの、こちらで使用人を募集していると聞いて来たんですけれど」
「確かに募集はしているけど、飛び込みでの応募は受け付けてなくて――」

 と門番が言い終える前に、紹介状を取り出す。

「紹介状なら、ありますっ!」

 春香の勢いに面食らったのか、門番の青年は目を瞬かせた。
 だが、すぐに我に返ると慇懃な口調で春香にしばらく待つように告げて、奥へ引っ込む。と、間もなく人を連れて戻ってきた。
 どこか凜とした雰囲気を漂わせる妙齢の女性だった。着ている服装から判断する限り、門番よりも家中における位は上であると思われた。

「こちらの方が、使用人の応募に来られた……えーっと、お名前は何でしたっけ?」
「春香、と申します」
「春香さんですね。その紹介状を見せていただけますか?」
「はい」

 と、春香は紹介状を差し出す。

「では、失礼して――」

 女性が紹介状を検める。
 使用人を雇う際に紹介状の提出を義務づけるのは、間者が紛れ込むことを避けるためでもあった。防諜対策――つまり、今まさに春香がやろうとしていることを防ぐのが目的なのだが、そのことを忍びの側も熟知しているから紹介状を偽造する。それも単純に偽造したのでは裏を取られてしまうし、そもそも相応の名前と立場と力のある人間の紹介でなければ意味がない。ゆえに、各地の有力者とパイプを作り、偽造でありながら本物の紹介状を用意する。それもまた萩原屋の仕事のひとつであった。

「……問題ないようですね」

 念入りに紹介状を確かめていた女性は顔を上げ、納得げに頷いてみせると、春香を屋敷の中に招き入れた。

「では、こちらへ」
「はい」

 女性の後を歩きながら、春香はさり気なく周囲に視線を走らせて、屋敷の様子を観察する。初めて訪れる場所では、侵入経路や逃走経路を考慮しつつ、建物や部屋の配置を把握することに努める――というのは、忍びとしての職業意識というか習い性のようなものであった。

(広い敷地だな……)

 というのが、まず率直な感想だった。これならば、事を起こしても屋敷全体に情報が伝わるには時間が掛かるだろう、とも思った。それは、如月家の危機管理という観点からは由々しき問題だろうが、春香にとっては好都合である。逃げる時間が稼げるということなのだから。
 もっとも、暗殺実行の時期は如月家の姫が神官の座に就く直前と決められているから、今すぐどうこうという話ではないのだが。
 そんなことを考えている間に、春香は母屋から少し離れた建物に辿り着いていた。

「こちらです、春香さん」

 誘われるままに、春香は敷居をまたぐ。

「私は、ここで。あとは、女中頭がご案内しますので」
「あ、ありがとうございました! その、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あら、光栄ですわね。私は、梓と申します。春香さんが如月家にお仕えすることになったら、私の後輩ということになるのかしら~」
「はい。その、もし、そうなったときは、よろしくお願いします」
「こちらこそ。……しっかりね、春香さん」
「はい!」

 梓が出て行くのと入れ替わりに、一人の老女が奥から姿を現した。
 老女の名前は、八重といった。女中頭を務め、先々代から如月家に仕えているということだったが、それ以上のことは語ろうとしなかった。
 広間に春香を通し、座る位置を指示した後で、八重は躊躇いがちに切り出した。

「……春香さん」
「はい、何でしょうか」
「もうすぐ姫様が参られます。決して粗相のないように」
「と申されますと?」
「あなたに言うべきことではないのかもしれませんが、姫様は少々気難しいお方なのです。機嫌を損ねれば、使用人としての採用は見送らねばなりません。よいですか?」
「わ、わかりましたっ」
「よろしい。くれぐれも気をつけるように」

 とはいえ、そんなことを言われても、春香にはどうしようもなかった。
 ここで不採用を言い渡されれば、即任務失敗である。それは避けたかったが、さりとて何が人の気分を害するかなど、そう簡単にわかるものではない。会ったこともない相手なら、なおのことだ。しかも、春香は如月家の姫についての予備知識らしいものを殆ど与えられていない。一抹の不安が胸をよぎるが、じたばたしても仕方ない。こうなれば、なるようになれ、である。
 春香は静かに頭を垂れて、姫が現れるのを待つことにした。
 程なくして、部屋の戸が開かれる音がした。
 上座へ向かう人物の着物の裾を視界の端で捉える。鮮やかな青色の衣だった。
 足音は春香の正面で止まり、腰を下ろす気配が伝わる。

「あなたが、新しく当家に仕えることを志望される方ですか?」

 何とも涼やかな声だった。

「はい、春香と申します!」

 顔を伏せたまま、春香は応えた。

「……面を上げなさい」
「はい」

 言われるままに顔を上げると、姫と視線がぶつかった。
 瞬間、姫が息を呑むのがわかった。
 何かを躊躇うような、戸惑うような表情が浮かんだのを、春香は見逃さなかった。

「千早様、如何なさいましたか?」

 八重が横から声を掛けるが、それには応えず、姫は春香をひたと見据えていた。
 その澄んだ眼差しに、春香も少なからず動揺していた。

「……春香さん、と言いましたね」
「は、はい」

 問い掛ける姫に、ぎこちない頷きを返しながら、春香は『千早』という名前を頭の中で何度も繰り返していた。如月家の姫の名前が千早であるというのは、聞いていた。知っていた。けれど、そんな筈はないと思っていた。千早など、ありふれた名前だと。どこにでもある名前だと。そう思っていたのに、これではまるで――

「少し庭を歩きませんか? 花が綺麗ですよ」

 姫の誘いを拒否する理由など、春香にあるわけがない。

「お供します」

 と頷いて、姫の、千早の眼差しを受け止める。

「八重」
「はい」
「人払いを」
「かしこまりました」

 そう応えて、八重が静かに退室する。

「行きましょう」

 千早に誘われるままに、春香は腰を上げた。




 屋敷の庭はよく手入れされていて、様々な草木が色とりどりの花を咲かせていた。
 人払いがされていて、他には誰もいない。
 二人きりの庭は、静寂に満ちていた。
 その静けさを破るように、千早が口を開いた。

「……私は、今から十年前に故郷を失い、如月家の養子となりました。もう、ずいぶんと昔のことです。実の両親の顔さえ、確とは思い出せません。ただ、いつも一緒に遊んでいた幼馴染みがいました。彼女のことは、今でもよく覚えています。名前を春香といいました。あの時の混乱の中で離ればなれになってしまい、それから一度も会っていません。生きていれば、きっとあなたと同じくらいの年のはずです。あなたの名前で、そのことを思い出して、少し取り乱してしまいました。気を悪くしたなら、ごめんなさい」

 千早は一度も振り返らなかった。春香を見ようともしなかった。
 その意味が理解できたわけではない。
 だが、春香も言わなければいけないと思った。

「奇遇ですね。実は、私も十年前に故郷を失くしました」

 と、努めて冷静に告げる。
 前を歩く千早が立ち止まり、息を呑む気配がした。

「何が原因なのか、今となってはわかりません。それを理解するには、私は幼すぎました。覚えているのは、燃えさかる炎の光と熱だけです。どこをどう歩いたのか、気づけば私は知らない家で寝ていました。たまたま通り掛かった人が助けてくれたんですね。その里で、私はずっと過ごしてきました。今でも、時々思い出します。仲が良かった幼馴染みのことを。千早ちゃんっていうんです。姫様と同じ名前ですね。歌が上手で、いつも歌を聴かせてくれました。その歌が忘れられなくて、だからきっと千早ちゃんのことも忘れられなかった……。千早ちゃんがよく歌っていた『蒼い鳥』を……」

 それは、ずっと昔に旅芸人から教わった歌。哀しい歌。
 子供の時は上手く歌えなかった歌を、もう一度口ずさんでみる。
 もし、目の前で背を向けている姫が春香の思った通りの人なら、何かしらの反応があるはずだと思った。

「……音が外れているわよ、春香」

 と、千早は言った。
 それだけで、春香には十分だった。

「……本当に、千早ちゃんなんだね?」
「それは、こちらの台詞よ。……本当に、春香なのね? 陽月荘の春香なのよね?」

 ようやく振り返った千早の目には光るものがあった。

「うん――」

 そうだよ、と言いたかった。一緒に山野を駆けた春香だよ、と言いたかった。
 だが、声にならなかった。声にできなかった。
 顔を伏せる。
 生き別れていた幼馴染みに再会できたことは嬉しい。けれど、その幼馴染みを暗殺するために、春香は今この場に立っている。その現実の重みに、春香は込み上げる感情を押し殺すことで耐えようとした。声を出せば、自分を支える土台が崩れ去ってしまいそうだった。
 と、不意に温もりに包まれる。
 それが千早の体温であることに気づいて、春香はついに涙を堪えることができなかった。
 千早に抱きしめられて、その温もりに安らぎを感じる。しかし、いずれは自らの手でこの温もりを断たねばならない。

 生き残れたから、千早に再び出会えた。
 生き残れたから、千早を殺さねばならぬ。

 もし運命の神がいるのだとしたら、それはきっととびきり残酷で非情な存在に違いない。
 春香に与えられた密命など知らない千早は、ただ幼馴染みとしての優しさで包んでくれている。それがわかるから、春香の心は千々に乱れる。
 不幸中の幸いなのは、今すぐ決着をつける必要がないということ。少なくとも、半年の猶予は与えられている。
 その間に気持ちの整理をしなければならないという冷徹な忍びとしての思考と、どんな理由であれ千早の傍にいられることを喜ぶ一人の娘としての感情とが、春香の中で混濁していた。
 まだしばらくは、千早の腕に身を任せているしかなかった。




(つづく)

春霞蒼月記 ~序~

2009年11月30日 | SS
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以下の文章は、ゲーム「THE iDOLM@STER」を題材とした二次創作小説です。原作のゲームとは一切関係ありません。キャラクターの描写などにおいては、原作のゲームを参考にしておりますが、物語の都合により意図的に改変している箇所もありますので、読み進めるにあたりましては、ご注意とご理解をよろしくお願い致します。
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 開けはなった窓から差し込む月光がやけに明るく感じられて、春香は身を起こした。
 蚊帳をめくって、そっと寝床から出る。暦の上では既に春だが、まだ夜風は冷たい。玄関へ向かう前に手探りで上着を見つけて、それを羽織った。
 擦り切れかけた草履に足を突っ込んで外へ出ると、やはり辺りは暗かった。
 見上げた空には煌々たる満月が浮かんでいたが、その月の輝きは地上を照らすにはあまりにも弱い。と、春香は思った。

「眠れないのかい?」

 不意に掛けられた声に、春香は振り返る。視線の先には、よく見知った顔が二つ並んでいた。

「真……。響……」

 故郷を失った春香が忍びの里に拾われてきて、はや十年の年月が過ぎていた。その時間の多くを共有したのが、目の前にいる同年代の少女――真と響だ。共に修練のために汗を流し、協力して危険な任務に臨んだことも一度や二度ではない。気心の知れた仲。けれど、その二人との時間は、明日で節目を迎える。

「いよいよだなぁ」

 少し癖のある調子で、響が言った。

「だからだろ? 春香も緊張してたんだろ?」
「……ん。ちょっと寝付けなくて」
「初の長期単独潜入任務が控えてるんだ。無理もないさ」
「私なんかでよかったのかな、とか、色々考えちゃって……」
「大丈夫だよ、自信持ちなって」
「うん……」
「まぁ、こんな時、世間では景気よくお祝いをしたり、派手な見送りをするらしいんだけど、ボクらは……」
「目立つことは、できないものね」
「だけど――いや、だから、せめて自分らだけでも春香を励ましてやろうと思ってさ」
「ありがとう……」
「しっかりやれよ、春香」

 と、真は春香の背中を勢いよく叩いた。

「なにせ、あの隆盛著しい蕃那牟教からの依頼とあれば、任務の成否が里の未来を左右しかねないからね」
「ちょっと、真! そんな脅かさないでよぉ」
「はは、ごめんごめん……。でも、それだけ大事な任務を春香が任されたこと、ボクは誇らしく思うよ」
「自分もさ。しっかりな、春香」
「……うん。がんばるよ」

 そう応えて、春香は再び夜空を見上げた。月は、変わらずに、その場にあった。
 程なく三人は別れ、各々にあてがわれた部屋へと戻っていく。様々な思いを飲み込んで、夜はただ静かに更けていくのであった。





 翌朝、春香は何事もなかったかのように起床した。
 しかし、皆が集まっているであろう食堂には向かわず、自室で簡素な食事を取り、出立の用意をした。とはいえ、前日のうちに荷物はまとめ終えており、やるべきことは殆ど残っていなかった。

「さて、と――」

 一息ついて、春香は改めて自分に与えられた任務を確かめる。
 任務の内容を一言で言えば、町に出て如月家に仕えること、である。如月家というのは、この辺り一帯を治める豪族・水瀬家の家臣団の中でも、特に「三月」と称される譜代家臣の家であった。
 少し回り道をして説明すると、三月とは、如月家、秋月家、高月家の三家を総称する時の呼び名で、水瀬の城下に住む者なら誰でも知っていて当然の常識である。軍事・治安維持を統括する秋月家、財務・通商政策を担当する高月家、そして宗教儀礼を司る如月家。この三家の力なくして、現在の水瀬家の隆盛を語ることはできない。中でも、春香が仕えることになっている如月家は、家臣団内においても独特の立ち位置を持っていた。元々、神々を祀る神官の一族であった如月家は、宗教儀礼・祭祀の一切を取り仕切ることによって、水瀬家による統治体制の確立を陰から支えてきた。それにより、家臣団の中でも代替のない独特な立場を保持してきたのが如月家であった。
 ところが、その如月家の立場も盤石とは言えなくなってきつつある、というのだ。
 原因は、南方から急速に勢力を拡大しつつある新興教団――蕃那牟教である。彼らは新たな神へ祈りを捧げることを提唱し、土着の神々への信仰を否定してきた。現行体制に不満を持つ大衆の鬱屈した心理をくすぐり、急速に信者数を増大させてきた蕃那牟教の有り様は、各地の支配層たる豪族にとってみれば脅威に他ならない。
 だが、彼らとて蕃那牟教を恐れてばかりではいない。逆に蕃那牟教を利用することを考える豪族も少なからず存在した。つまり、蕃那牟教へ鞍替えすることで大衆心理を手懐けようというのだ。いまや宗教儀礼を蕃那牟教式に改めた豪族を数えるには片手では足りない。
 水瀬家においても、家臣団内の意見は割れていた。これまで通りで行くのか、それとも蕃那牟教を取り入れるのか。今のところ、三月は現行路線の踏襲でまとまっているが、それがいつまで続くかはわからない。三月の意見で全てが決するわけではないのだから。
 そこに、付け入る隙ができる。
 三月と対立し、あわよくば実権を掌握したい水瀬家の非主流派家臣。水瀬家の支配する広大な領地と領民に魅力を感じる蕃那牟教。両者の利害が一致した――いや、してしまった、と言うべきかもしれない。
 つまり、水瀬家の非主流派(の一部)が蕃那牟教と内通し、ある謀略が仕掛けられようとしており、それを具体化するための手段として春香は如月家に仕えることを命じられたのである。
 最終的な目標は、如月家の姫君を暗殺すること。今年の秋には神官になることが内定している姫を暗殺すれば、如月家の政治的影響力低下は避けられない。如月家以外から神官を出すとしても、人選からやり直さねばならず、祭祀の日程に穴が空く。その混乱に乗じて蕃那牟教への鞍替えを強行しようというのが、非主流派と蕃那牟教の思惑であった。
 話を聞かされた春香は、そんなに上手く行くかしら、と思ったが、決して口には出さなかった。表情にも出なかったはずだ。状況を説明してくれた里長には、ただ「承知しました」とだけ告げて、その場を辞した。
 そこまで思い出して、春香は溜息をついた。
 人を殺すのは初めてではないが、同年代の少女を手に掛けるというのは、やはり少し気が咎める。それが任務で、そのためにこそ自分は生かされているのだ――というのは、勿論わかっている。わかっているけれど、そんな理屈で割り切れるほど、春香は若さを失っていなかった。忍びという世の中の裏ばかり歩くような稼業をしていても、どこかに純粋さを残しているのが春香という人物であった。

「だから、なんだろうな……」

 と、春香は独りごちた。
 壁を乗り越えてみせよ、という里長からの試練なのだろう。そのように、春香は受け止めた。であるならば、期待には応えたい。
 用意された旅装束に袖を通し、春香は手早く身支度をととのえた。如何にも田舎から出てきた小娘風に見えるように、敢えて化粧はしない。必要最低限の身の回りの品だけを一まとめにして背負う。これで、どこからどう見ても田舎娘だろう。まさか、特殊訓練を受けた暗殺者とは思うまい。そう考えると、思わず笑みがこぼれてくる。

 全ての準備を終えて、春香は立ち上がった。
 しばらく空けることになる部屋に別れを告げて、里を出る。
 見送る者のいない、一人きりの旅立ち。
 その先に待ち受ける運命が如何なるものであるかを、春香はまだ知らずにいた。




(つづく)

中二病的アイマスSS

2009年10月03日 | SS
※このSSは、島原薫さんの中二病SSと世界観と設定を共有しています。
――


 戦闘開始から、間もなく五分が経過しようとしていた。
 S級アイドルユニット「覇王エンジェル」がエントリーする試合とあって、観客のボルテージは戦闘前から高かった。だが、多くの予想に反して、現に戦場を支配しているのは、前線で派手に立ち回る双海姉妹であった。
 姉の真美と妹の亜美。二人はまだ十二歳の少女だが、既に戦士――アイドルとして十分な実力を備えていた。
 あどけなさの残る容貌とは裏腹に、それぞれ二挺のマイクロUZIを両手に携え、戦場として設定された仮設の廃墟の中を縦横無尽に駆け巡る。その振る舞いたるや、まさに神出鬼没。糸で繋がれているのではないかと疑うばかりの滑らかで鮮やかな連携により、対する覇王エンジェルの前衛二人を完全に翻弄していた。
 もっとも、覇王エンジェルのトレードマークとも言える漆黒のフェイスガードに覆い隠された表情を窺い知ることはできない。しかし、彼女達が構えるイングラムから吐き出される弾丸が一度も目標を捉えられず、ただ空しくマズルフラッシュを明滅させるばかりであるのを見れば、誰の目にもどちらが優勢なのかは明らかだった。
 年少の双海姉妹が、なぜ覇王エンジェルと互角に戦えるのか。それは、彼女達の持つ特殊能力に負うところが大であった。

 ――感覚同調

 それは、他者の五感が捉まえた知覚情報を自己のものとして取り扱うことができる能力のことである。端的に言ってしまえば、目が四つ、耳が四つあるようなものだ。つまり、彼女達は二人でありながら一人であり、一人でありながら二人なのである。
 ゆえに、相互に死角をカバーするように動いて、裏を掻こうとする敵の意図を先回りして封じていくことができる。
 そして、手にした武器の感覚すら共有している彼女達だから、計四挺のマイクロUZIのポテンシャルを限界まで引き出すことも可能となる。亜美も真美も、互いの手の中にある銃のトリガーを引く感覚が自分のものとしてわかるから、あたかも自分が四本の腕を持ち、四挺の銃を携えているかのように振る舞うことができる。
 間断の無い射撃を目標に浴びせてゆくことなど朝飯前だし、複数の弾丸を同時に一点に集中させることすらやってのける。そんな非常識な射撃を現実のものとするのが、感覚同調という特殊能力なのである。
 交戦規定によりフルオート射撃機能の使用が禁止されているため、扱いようによっては、これは多大なアドバンテージたり得る。単位時間あたりに叩き込む弾丸の数が多いほど打撃力は増すのは自明であり、フルオート射撃ができないのなら、同時に多数の銃を撃てばよい。つまり、四挺のSMGをセミオートで連続発射すれば、フルオート射撃同様の威力を発揮するということであり、瞬間的とはいえ、敵の火力を圧倒可能であることを意味する。
 控えめに言っても、敵に回すにはいささか厄介な相手と言えよう。

「あぁ、もうっ、ちょこまかと……」

 覇王エンジェルの一人――仮に、エンジェルAと呼ぼう――が、そんな亜美と真美に毒づいた瞬間の出来事だった。
 エンジェルAは頭部に激しい衝撃を感じて、その意識を失った。
 巨人に張り倒されたかのように地面に崩れ落ちるエンジェルAの様子に、行動を共にしていたもう一人の前衛――こちらを、エンジェルBと呼ぶ――の足が止まる。
 次の瞬間には、エンジェルBも昏倒して戦闘不能を宣告されていた。
 ほんの数秒のうちに覇王エンジェルは二名を失い、後衛一名のみが残される形となってしまった。が、覇王エンジェルの前衛を仕留めたのは、双海姉妹ではなかった。亜美と真美の撃った銃弾は確かにエンジェルAとBを捉えていたのだが、ボディアーマーと強化された肉体に阻まれて、彼女らに致命傷を与えるには至っていなかった。しかし、それでよかった。二人の役割は元より、ただ攪乱し、誘導することであったのだから。
 覇王エンジェルの前衛二名を相次いで襲った攻撃は、亜美と真美から離れること数百メートルの位置に潜む一人の狙撃手によるものだった。
 彼女の名を、三浦あずさという。彼女もまた能力者であった。

 ――ホーク・アイ

 俗にそう呼ばれる超感覚視力の持ち主であるあずさは、遠距離にある動目標を静止目標と同じように捕捉することができた。それを、高度な未来予測である、と結論づける者もいるが、あずさ自身にも本当のところはわからない。ただ、そう見える、というだけのことなのだ。
 止まって見える。だから狙いを付けて撃つ。そうすると目標に命中する。
 そんなあずさの説明を聞かされた人間は、誰しも狐に摘まれたような顔をする。おっとりしていて、凄腕の狙撃手という感じがまるでしないし、言っていることも感覚的で掴み所がない。
 けれど、いざ戦場に立つと、あずさの表情は一変する。ステルスシートを被って狙撃位置に着くと、もう普段の彼女とは別人である。目標を仕留めるまで何時間でも同じ姿勢を保ち続けることを厭わず、一度訪れたチャンスを逃すことは決してなかった。
 敵ユニットの人数分しか弾を消費しない。それが、アイドルとして戦場に立つ彼女の矜恃でもあった。

「ターゲット変更だね、真美」
「そうだね、亜美」

 あずさの狙撃成功を受けて、亜美と真美は狙いを覇王エンジェルの後衛――彼女は、エンジェルCと呼ぶ――にスイッチする。ほぼ空になった弾倉をイジェクトし、予備弾倉に手早く交換。ボルトを引いて初弾を装填すると、弾かれたように走り出す。その動きには迷いも躊躇いもなく、顔に浮かぶ表情は新しい玩具を見つけた子供のそれであった。

「ターゲット、インサイト」

 そう囁いたのは、亜美か、真美か。

「……っ!」

 そこでようやく双海姉妹の接近に気づいたエンジェルCが舌打ちと共に立ち上がり、アサルトライフルを構え直したが、もはや手遅れであった。

 ――!!

 側頭部に激烈な衝撃が走り、意識が刈り取られる。
 手を伸ばして掴もうとする意識が指の隙間を擦り抜けてゆく刹那、視界に入った双子の眩しい笑顔がやけに印象的だった。
 やがてドーム中に響き渡る戦闘終了の合図を、エンジェルCが聞くことはなかった。


 パシン、と互いの掌を打ち合わせ、亜美と真美は勝利を祝福する。
 ステルスシートを払って、あずさがゆっくりと立ち上がる。
 彼女達の戦いは、まだ始まったばかり。その行く末に何があるのか知らぬまま、三人は一歩を踏み出したのだった。