SS企画「一枚絵で書いてみm@ster」参加作品
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・前編からの続きです。未読の方は、先に前編をお読みください。
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夢を見ている。
いつもの廃墟。
もう飽きるくらいに訪れた、朽ち果てた世界。
だが、いつもとは少し様子が違った。
これまではずっと昼間だった世界が、今回は日暮れ時か夜明け前のような薄闇に覆われていた。
こんなことは、これまでに一度もなかった。
訝しくは思うけれど、それが何を意味するのかもわからず、どうすればいいのか見当も付かなかった。
とりあえず、いつも通りに港湾跡を目指して歩き出す。
荒れ果てた港では、古びた船の残骸が、いつもと変わらずにそこにあった。
こうして下から見上げると、竜骨も、そこから突き出た肋材も、桁外れの巨大さであることがよくわかる。もしもこれが完全な形であったなら、相当に大きな船であったのだろう。
いつもの場所へ上がりたいと思ったが、空を飛ぶ気にはなれなかった。
風をつかまえれば飛べると思うのだけれど、月も星も出ていないような薄暗い空を舞いたいという気持ちになれなかった。
思い切って海中に足を踏み入れると、水深は思った以上に浅かった。くるぶしのあたりまでしか水がない。なるほど、これでは廃船が沈むことなく、その荒れ果てた姿を晒しているのも当然だと納得する。
パジャマの裾をまくり上げ、私はざばざばと浅瀬を歩いて、かつて船だったものへ歩み寄ってゆく。あちこちにある凹みに足をかけ、私は自力で肋材をよじ登っていく。
いつもの倍以上の時間を掛けて、いつもの場所に辿り着く。
腰を下ろして、息を吐く。
歌を歌うべきなのだろうか……。
いつも、そうしてきたように。
だが、声が出なかった。何を歌えばよいのか、わからなかった。
夢の中で歌うこともできないのか、私は。
忸怩たる気持ちごと膝を抱え込む。
「今日は、歌わないんですか?」
よく通る声に、振り返る。
いつ崩れてもおかしくない状態の桟橋に、昨日の少女が立っていた。
「高槻さん……」
思わず零れた言葉に、少女は柔らかく微笑む。
「やっぱり、如月さんでした」
そうね。夢で会うなんて、奇遇ね――などと気の利いたことが言えるわけもなくて、私は、ただ黙り込む。
私の無言を肯定と受け取ったのか、高槻さんは得心がいったように頷いてから、再び口を開いた。
「如月さん!」
「な、なにかしら?」
「私、如月さんの歌が聴きたいかなーって」
「……私の、歌……?」
「はいっ!」
私の歌、か……。
そう言えば、なぜ私は歌っているのだろう? 歌っていたのだろう?
歌が好きだから?
本当に、そうだろうか?
私は歌が好きなのですと、そう言って胸を張れるだろうか?
誰に対して?
プロデューサーに?
両親に?
それとも、高槻さんに?
この廃墟を夢に見るようになってから、私はずっと恐れていた。
私は、ただ歌に逃げているだけではないのかと。
歌うことで、現実の、立ち向かうべき問題から目を逸らしているだけではないのかと。
夢の中でそれを自分に問いかけ、その問いから逃れるように目を覚ます。
現実から逃げ、夢からも逃げる。そんな循環。
とんだお笑い種ではないか……。
「高槻さん……」
「なんですか?」
「私は、ちゃんと歌えていたのかしら……」
「素敵でしたよ、とっても!」
本当にそうだったのなら、嬉しいと思う。
その気持ちだけで、もう一度歌を歌えるだろうか。
「……拙い歌だけど、聴いてくれるかしら? 高槻さん」
「はいっ!」
何の躊躇いもなく元気のよい返事をしてくれた高槻さんを視界の隅で捉えつつ、私は深呼吸をする。
気持ちを落ち着かせ、何を歌おうか、と考える。
今までは、特に深い考えもなく好きな歌を好きなように歌っていた。どうせ自分一人しかいないのだからと、ただ気を紛らわせるために歌っていた。
だけど、今日は歌を聴いてくれる人がいる。ならば、精一杯の気持ちを込めて歌おう。
私が、大切にしていた歌を……!
ヒット曲ではないけれど、まだ私がもっと歌が下手くそだった頃に弟が好きだった歌。よく歌ってくれとせがまれていた歌を、歌おう。
ただ、弟を喜ばせたい一心で歌っていたときの気持ちを思いだして――
力一杯歌いきって、ふっと息を吐く。
パチパチと拍手が響く。
見ると、高槻さんがまっすぐこちらを見ていた。
「やっぱり、如月さんは素敵です」
そう言って、彼女は笑った。
昨日は眩しすぎて直視できなかった笑顔だけど、今なら受け止められると思った。
だが、今日の夢はそれで終わらなかった。
ふと違和感を覚えて顔を上げた私は、世界が変化しつつあることに気がついた。
「夜明け……?」
薄暗かったはずの空が明るさを取り戻しつつあった。
水平線から光が迸り、世界を白く染めていく。
光が満ちる。
けれど、これは慈愛の光などではない。破壊の光なのだ!と、直感する。
高槻さんに目を向けると、やはり彼女はどうしていいのかわからない様子で、呆然と立ち尽くしていた。
「高槻さんっ!」
思わず伸ばした手は、十数メートルの距離を超えて、高槻さんの手を掴んでいた。
次の瞬間、電流のような衝撃が私を貫いた。
一瞬のうちに頭の中へ流れ込んできた膨大な情報。それは、数え切れない量のイメージと感情だった。私には、それが高槻さんの記憶なのだとわかった。
痺れるような感覚が、足をふらつかせる。
おそらく、逆のことも起きただろう。つまり、高槻さんへ私の記憶が流れ込んだに違いない。驚きに目を瞠っているのであろう高槻さんの表情からだけでは、それがどんな影響を及ぼすのかまではわからなかった。
そして、そのほんの僅かな遅滞の間にも光は世界を侵食し続けていた。輝ける奔流が瞬く間に私たちを包み込み、そして隔ててゆく。
「如月さんっ! どこですかっ?!」
高槻さんの呼ぶ声が微かに聞こえた。ような気がした。
だが、もう視界は真っ白で何も見えず、声を上げようと口を開いても音にはならなかった。
ああ、これで終わりなのか、と思った。
私の中で何かが永遠に失われた、という漠然とした感覚だけが胸の奥で燻っていた。
何を失くしてしまったのかはわからなかったけれど、それが二度と取り戻すことはできないのだということだけは確信していた。
何かを手に入れるということは、同時に何かを失うことでもある。
だとするならば、夢の中の廃墟を失って、私は何かを手に入れたのだろうか? 手に入れられるのだろうか?
目を開く。
視線の先にある天井は、いつもの私の部屋の天井で、そして何故だかぼんやりと滲んで見えた。
手の甲で目尻を拭って、カーテンの隙間から窓の外を窺う。
あまりにも朝陽が眩しくて、私は目を細めた。
「おはようございます」
と挨拶したが、返答がない。
おかしいな、と思って首を巡らせると、事務員の音無さんが申し訳なさそうに手を合わせるのが見えた。
「ごめんね、千早ちゃん。プロデューサーさん、まだ出先から帰ってないのよ。もうじき戻ってくると思うから、ちょっと待っててくれる?」
「わかりました」
仕事であれば仕方ない。
私は空いている応接スペースで待たせてもらうことにした。
俯き加減で歩いていたから、パーティション代わりの観葉植物の陰から出てきた人とぶつかりそうになる。
「ごめんなさ――」
反射的に返して、相手の顔を見て、私は息を呑んだ。
「――高槻さん……」
どんな顔をすればよいのかわからなかった。
夢の中で高槻さんに触れたときに、私の中へ流れ込んできたイメージが真実なのか。
それを本人に問い質すことができるほど、私も神経の太い人間ではなかった。
しかし、口籠もる私の顔を見て、高槻さんは敏感にこちらの心情を察したらしかった。
「たぶん、如月さんの考えている通りです」
そう言って、高槻さんは屈託なく笑ってみせた。
「うちは、貧乏なんです。お父さんはよく失業するし、きょうだいは多いし。だから、節約することだけは、私、得意なんですよ」
と、高槻さんは胸を張る。
そんな境遇で、どうして笑っていられるのかわからない、と思った。
そのことを訊ねると、高槻さんは事も無げに言ってのけた。
「だって、笑う門には福来たるって言うじゃないですか! 辛いこともいっぱいありますけど、でも、なるべく私は笑ってなくちゃって思うんです。私が辛そうにしていたら、弟や妹たちは余計に辛くなっちゃいます。それじゃダメだって思うんです」
なるほど、そうなのかもしれない。
「そうね……。くよくよしてちゃいけないのかもしれないわね……」
「はい。その……、如月さんも、いろいろ大変みたいですけど……」
そこで初めて、私は高槻さんが「きさらぎ」と発音するのが不得手なのだと気がついた。
「苗字が呼びにくければ、千早で良いわ」
「あ、えへへ……。千早さんも大変みたいですけど、でもでも、くじけないでがんばっていれば、きっと良いことがあるって思いますっ!」
高槻さんにそう言われると、本当にそうなんじゃないかと思えてくるから不思議だ。
「ありがとう、高槻さん」
「えへへ、どういたしましてっ」
と、ちょうどそこへプロデューサーが慌ただしく帰ってきた。
「ただいま戻りましたっ。――小鳥さん! もう、千早は来てますか?!」
と、音無さんに確認するプロデューサーに、高槻さんがよく通る声で呼びかける。
「こっちですよ、プロデューサー!」
「え?」
「お疲れ様です、プロデューサー」
「あ、ああ……」
「どうしたんですか?」
「いや、千早にねぎらいの言葉をかけてもらえるとは思ってなかったから……。こりゃ、明日は雹でも降るかな?」
「……どういう意味ですか?」
失礼なことを口走るプロデューサーを睨みつけると、彼は慌てて顔の前で手を振ってごまかした。
「いや、何でもないんだ……」
何でもないわけはないが、今この場で深く追求することはやめておくことにする。
「それより、やよいとすっかり仲良くなってるみたいじゃないか。昨日は折り合い悪そうだったのに」
「女の子には、いろいろと秘密があるんです」
「はあ……。そんなものなのか?」
「そんなものです。……ね? 高槻さん」
「はいっ。千早さんの言うとおりだと思います!」
「はあ……」
しばらくプロデューサーは狐につままれたような顔をしていたが、やがて気を取り直すかのようにかぶりを振った。
「……まあ、いいか。レッスン、行くぞ。準備はできているか?」
「勿論です」
と即答して、私は高槻さんの方へ振り返る。
「それでは、またね」
「いってらっしゃい、千早さん」
短く視線を交わして、私たちは別れる。
もう夢で会うことはないだろう。
けれど、これからは同じ765プロダクションの仲間として切磋琢磨する関係になれるのではないだろうか。そんな予感を胸に、私はレッスンスタジオへと向かった。
私は歌う。
逃げるためではなく。
私は歌う。
未来を掴むために。
私は歌う。
それが、私の生きる道だと信じるがゆえに。
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・前編からの続きです。未読の方は、先に前編をお読みください。
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夢を見ている。
いつもの廃墟。
もう飽きるくらいに訪れた、朽ち果てた世界。
だが、いつもとは少し様子が違った。
これまではずっと昼間だった世界が、今回は日暮れ時か夜明け前のような薄闇に覆われていた。
こんなことは、これまでに一度もなかった。
訝しくは思うけれど、それが何を意味するのかもわからず、どうすればいいのか見当も付かなかった。
とりあえず、いつも通りに港湾跡を目指して歩き出す。
荒れ果てた港では、古びた船の残骸が、いつもと変わらずにそこにあった。
こうして下から見上げると、竜骨も、そこから突き出た肋材も、桁外れの巨大さであることがよくわかる。もしもこれが完全な形であったなら、相当に大きな船であったのだろう。
いつもの場所へ上がりたいと思ったが、空を飛ぶ気にはなれなかった。
風をつかまえれば飛べると思うのだけれど、月も星も出ていないような薄暗い空を舞いたいという気持ちになれなかった。
思い切って海中に足を踏み入れると、水深は思った以上に浅かった。くるぶしのあたりまでしか水がない。なるほど、これでは廃船が沈むことなく、その荒れ果てた姿を晒しているのも当然だと納得する。
パジャマの裾をまくり上げ、私はざばざばと浅瀬を歩いて、かつて船だったものへ歩み寄ってゆく。あちこちにある凹みに足をかけ、私は自力で肋材をよじ登っていく。
いつもの倍以上の時間を掛けて、いつもの場所に辿り着く。
腰を下ろして、息を吐く。
歌を歌うべきなのだろうか……。
いつも、そうしてきたように。
だが、声が出なかった。何を歌えばよいのか、わからなかった。
夢の中で歌うこともできないのか、私は。
忸怩たる気持ちごと膝を抱え込む。
「今日は、歌わないんですか?」
よく通る声に、振り返る。
いつ崩れてもおかしくない状態の桟橋に、昨日の少女が立っていた。
「高槻さん……」
思わず零れた言葉に、少女は柔らかく微笑む。
「やっぱり、如月さんでした」
そうね。夢で会うなんて、奇遇ね――などと気の利いたことが言えるわけもなくて、私は、ただ黙り込む。
私の無言を肯定と受け取ったのか、高槻さんは得心がいったように頷いてから、再び口を開いた。
「如月さん!」
「な、なにかしら?」
「私、如月さんの歌が聴きたいかなーって」
「……私の、歌……?」
「はいっ!」
私の歌、か……。
そう言えば、なぜ私は歌っているのだろう? 歌っていたのだろう?
歌が好きだから?
本当に、そうだろうか?
私は歌が好きなのですと、そう言って胸を張れるだろうか?
誰に対して?
プロデューサーに?
両親に?
それとも、高槻さんに?
この廃墟を夢に見るようになってから、私はずっと恐れていた。
私は、ただ歌に逃げているだけではないのかと。
歌うことで、現実の、立ち向かうべき問題から目を逸らしているだけではないのかと。
夢の中でそれを自分に問いかけ、その問いから逃れるように目を覚ます。
現実から逃げ、夢からも逃げる。そんな循環。
とんだお笑い種ではないか……。
「高槻さん……」
「なんですか?」
「私は、ちゃんと歌えていたのかしら……」
「素敵でしたよ、とっても!」
本当にそうだったのなら、嬉しいと思う。
その気持ちだけで、もう一度歌を歌えるだろうか。
「……拙い歌だけど、聴いてくれるかしら? 高槻さん」
「はいっ!」
何の躊躇いもなく元気のよい返事をしてくれた高槻さんを視界の隅で捉えつつ、私は深呼吸をする。
気持ちを落ち着かせ、何を歌おうか、と考える。
今までは、特に深い考えもなく好きな歌を好きなように歌っていた。どうせ自分一人しかいないのだからと、ただ気を紛らわせるために歌っていた。
だけど、今日は歌を聴いてくれる人がいる。ならば、精一杯の気持ちを込めて歌おう。
私が、大切にしていた歌を……!
ヒット曲ではないけれど、まだ私がもっと歌が下手くそだった頃に弟が好きだった歌。よく歌ってくれとせがまれていた歌を、歌おう。
ただ、弟を喜ばせたい一心で歌っていたときの気持ちを思いだして――
力一杯歌いきって、ふっと息を吐く。
パチパチと拍手が響く。
見ると、高槻さんがまっすぐこちらを見ていた。
「やっぱり、如月さんは素敵です」
そう言って、彼女は笑った。
昨日は眩しすぎて直視できなかった笑顔だけど、今なら受け止められると思った。
だが、今日の夢はそれで終わらなかった。
ふと違和感を覚えて顔を上げた私は、世界が変化しつつあることに気がついた。
「夜明け……?」
薄暗かったはずの空が明るさを取り戻しつつあった。
水平線から光が迸り、世界を白く染めていく。
光が満ちる。
けれど、これは慈愛の光などではない。破壊の光なのだ!と、直感する。
高槻さんに目を向けると、やはり彼女はどうしていいのかわからない様子で、呆然と立ち尽くしていた。
「高槻さんっ!」
思わず伸ばした手は、十数メートルの距離を超えて、高槻さんの手を掴んでいた。
次の瞬間、電流のような衝撃が私を貫いた。
一瞬のうちに頭の中へ流れ込んできた膨大な情報。それは、数え切れない量のイメージと感情だった。私には、それが高槻さんの記憶なのだとわかった。
痺れるような感覚が、足をふらつかせる。
おそらく、逆のことも起きただろう。つまり、高槻さんへ私の記憶が流れ込んだに違いない。驚きに目を瞠っているのであろう高槻さんの表情からだけでは、それがどんな影響を及ぼすのかまではわからなかった。
そして、そのほんの僅かな遅滞の間にも光は世界を侵食し続けていた。輝ける奔流が瞬く間に私たちを包み込み、そして隔ててゆく。
「如月さんっ! どこですかっ?!」
高槻さんの呼ぶ声が微かに聞こえた。ような気がした。
だが、もう視界は真っ白で何も見えず、声を上げようと口を開いても音にはならなかった。
ああ、これで終わりなのか、と思った。
私の中で何かが永遠に失われた、という漠然とした感覚だけが胸の奥で燻っていた。
何を失くしてしまったのかはわからなかったけれど、それが二度と取り戻すことはできないのだということだけは確信していた。
何かを手に入れるということは、同時に何かを失うことでもある。
だとするならば、夢の中の廃墟を失って、私は何かを手に入れたのだろうか? 手に入れられるのだろうか?
目を開く。
視線の先にある天井は、いつもの私の部屋の天井で、そして何故だかぼんやりと滲んで見えた。
手の甲で目尻を拭って、カーテンの隙間から窓の外を窺う。
あまりにも朝陽が眩しくて、私は目を細めた。
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「おはようございます」
と挨拶したが、返答がない。
おかしいな、と思って首を巡らせると、事務員の音無さんが申し訳なさそうに手を合わせるのが見えた。
「ごめんね、千早ちゃん。プロデューサーさん、まだ出先から帰ってないのよ。もうじき戻ってくると思うから、ちょっと待っててくれる?」
「わかりました」
仕事であれば仕方ない。
私は空いている応接スペースで待たせてもらうことにした。
俯き加減で歩いていたから、パーティション代わりの観葉植物の陰から出てきた人とぶつかりそうになる。
「ごめんなさ――」
反射的に返して、相手の顔を見て、私は息を呑んだ。
「――高槻さん……」
どんな顔をすればよいのかわからなかった。
夢の中で高槻さんに触れたときに、私の中へ流れ込んできたイメージが真実なのか。
それを本人に問い質すことができるほど、私も神経の太い人間ではなかった。
しかし、口籠もる私の顔を見て、高槻さんは敏感にこちらの心情を察したらしかった。
「たぶん、如月さんの考えている通りです」
そう言って、高槻さんは屈託なく笑ってみせた。
「うちは、貧乏なんです。お父さんはよく失業するし、きょうだいは多いし。だから、節約することだけは、私、得意なんですよ」
と、高槻さんは胸を張る。
そんな境遇で、どうして笑っていられるのかわからない、と思った。
そのことを訊ねると、高槻さんは事も無げに言ってのけた。
「だって、笑う門には福来たるって言うじゃないですか! 辛いこともいっぱいありますけど、でも、なるべく私は笑ってなくちゃって思うんです。私が辛そうにしていたら、弟や妹たちは余計に辛くなっちゃいます。それじゃダメだって思うんです」
なるほど、そうなのかもしれない。
「そうね……。くよくよしてちゃいけないのかもしれないわね……」
「はい。その……、如月さんも、いろいろ大変みたいですけど……」
そこで初めて、私は高槻さんが「きさらぎ」と発音するのが不得手なのだと気がついた。
「苗字が呼びにくければ、千早で良いわ」
「あ、えへへ……。千早さんも大変みたいですけど、でもでも、くじけないでがんばっていれば、きっと良いことがあるって思いますっ!」
高槻さんにそう言われると、本当にそうなんじゃないかと思えてくるから不思議だ。
「ありがとう、高槻さん」
「えへへ、どういたしましてっ」
と、ちょうどそこへプロデューサーが慌ただしく帰ってきた。
「ただいま戻りましたっ。――小鳥さん! もう、千早は来てますか?!」
と、音無さんに確認するプロデューサーに、高槻さんがよく通る声で呼びかける。
「こっちですよ、プロデューサー!」
「え?」
「お疲れ様です、プロデューサー」
「あ、ああ……」
「どうしたんですか?」
「いや、千早にねぎらいの言葉をかけてもらえるとは思ってなかったから……。こりゃ、明日は雹でも降るかな?」
「……どういう意味ですか?」
失礼なことを口走るプロデューサーを睨みつけると、彼は慌てて顔の前で手を振ってごまかした。
「いや、何でもないんだ……」
何でもないわけはないが、今この場で深く追求することはやめておくことにする。
「それより、やよいとすっかり仲良くなってるみたいじゃないか。昨日は折り合い悪そうだったのに」
「女の子には、いろいろと秘密があるんです」
「はあ……。そんなものなのか?」
「そんなものです。……ね? 高槻さん」
「はいっ。千早さんの言うとおりだと思います!」
「はあ……」
しばらくプロデューサーは狐につままれたような顔をしていたが、やがて気を取り直すかのようにかぶりを振った。
「……まあ、いいか。レッスン、行くぞ。準備はできているか?」
「勿論です」
と即答して、私は高槻さんの方へ振り返る。
「それでは、またね」
「いってらっしゃい、千早さん」
短く視線を交わして、私たちは別れる。
もう夢で会うことはないだろう。
けれど、これからは同じ765プロダクションの仲間として切磋琢磨する関係になれるのではないだろうか。そんな予感を胸に、私はレッスンスタジオへと向かった。
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私は歌う。
逃げるためではなく。
私は歌う。
未来を掴むために。
私は歌う。
それが、私の生きる道だと信じるがゆえに。
(了)