太宰治は子どもの頃から成績優秀であったが、
若くして文学にとりつかれ、
東大仏文科に入学するものの、
故郷で親しくなった芸者を呼んで同棲するなど、
次第に乱れた生活に。
第1回芥川賞の候補となるも、落選。
(このときは石川達三の『蒼氓』が受賞)
選考委員の川端康成に、
「作者、目下の生活に嫌な雲あり」
と評され、激怒して反論文を掲載した。
その後、どうしても賞が欲しくて、
懇願したのは有名な話である。
(そのとき太宰は実家から送金をとめられ、
金と名誉も欲しかったが、
さいごまで賞とは縁がなかった)
やがて井伏鱒二の紹介で 石原美知子と結婚。
この頃が最も安定した時期で、
『女生徒』『富嶽百景』『走れメロス』など、
数々の名作を書いている。
一方、次第に薬物中毒におちいり、
数回の自殺未遂をおこす。
うち、3回は女性を道連れにして、
女性だけ死亡。
さいごの5回目は、
愛人の山崎富栄とともに玉川上水に入水し、
太宰も死亡した。
(太宰には妻子があり、おまけに
別の愛人・太田静子にも私生児が生まれている
というのに!!)