唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

自己に背くもの』 安田理深述 (9) 謗法とは

2011-10-09 17:08:05 | 『自己に背くもの』 安田理深述

                  -  謗法とは  -

 「問曰。何等の相、是正法を誹謗するや。答曰。若し佛ましまさず、佛の法无し、菩薩无く、菩薩の法无しと言はむ。是の如き等の見、若しは心に自ら解し、若しは他に從ふて其の心を受て決定するを皆誹謗正法と名く。」(『浄土論註』真聖p309)

 誹謗正法とは何か。無仏無仏法、人法二に欠けている。法もなければ法を得た人もいない。菩薩は因から見れば、仏の因位である。これらの邪見を以て自ら解かり、また他人の邪見に従って斯く決めているものを皆正法を誹謗すると名づける。なぜ謗法を問うかというに次の問題を展開せんためである。

  問曰。是の如き等の計は但是れ己が事なり。衆生に於て何の苦惱有てか五逆の重罪に踰へたるや。答曰。若し諸佛・菩薩、世間・出世間の善道を説て衆生を敎化する者无くば、豈に仁・義・禮・智・信有ることを知むや。是の如き世間の一切の善法皆斷じ、出世間の一切の賢聖皆滅しなむ。汝但五逆罪の重たることを知りて五逆罪の正法无きより生ずることを知らず。是の故に正法を謗ずる人其の罪最も重し。

 謗法は個人的思想の問題である。法を否定するという思想であって個人的主観的問題でないのか。ところが 「衆生に於て何の苦悩があってか五逆重罪を踰えるか」 ということを出したかったのである。即ち五逆罪は個人的思想的問題でなく客観的問題であり、前者がそれを踰えるとはいかなる意であるかということである。ここに五逆は世間的な罪であり、謗法は出世間的な罪である。しかし五逆という具体的な罪は謗法を前提としている。故にこの問ではむしろ五逆罪は末であり、謗法罪こそ本であることをいわんとしているのである。例えば政治にしても現在の国難はどうかと、現在行われているマルクスの問題を仏法は何と答えるかと強烈に訴えて来ている。しかし直接に強烈に訴えてくるもの必ずしも深くはない。現実的に生に訴えてくるものは根源的なものではない。根源的なものは却って微かなものである。

 善導大師は抑止門において、もし謗法罪を犯したならば却ってまた摂取して生を得しむるが、、たとえ浄土に生まれても三種の障りありと。抑止は謗法を抑止するのみならず、多劫の障を抑止っすると、こういうことが続けていわれている。多劫の生とは化土の往生である。三種の障とは、仏を見ず、正法を聞き得ず、僧を供養することができぬ。大経のいう如く三宝見聞の益を失うと。又、如入三禅障ということがある。仏法に遇うことができぬという以外に真実の苦というものはない。またそれ以上の苦しみというものはない。三禅は一つの楽しみである。それは地獄で受ける苦よりも楽のようであるが、しかし真実には地獄の猛火に遇うということよりも三禅の楽しみこそ恐ろしいのである。そこではもう仏法に遇えない。三禅の楽しみということは自己陶酔に陥っていることである。独我論に入って何の苦もない。苦があれば何とかもがく。もがくところに救いとの機縁が動く。五逆罪を犯したものの倫理的矛盾に耐えられぬ。それが大道に導かれる機縁である。満足してしまったらもう仏法に遇えない。苦が無くなってしまえば浄土に眠ってしまう。そこに入ったら無有出離之縁である。浄土に閉じこもってしまうところには苦がないという罰がある。苦がないから眼を覚ます機縁がない。それを自性唯心という。

 これから押すと誹謗正法の問題が、更に一歩を徹底すれば仏智疑惑ということになると思う。化土の往生の罪は仏智疑惑の罪である。ご承知かと思うが、化土の往生は真実報土の外にあるのでなく、内に在ることで深刻である。浄土は本願の荘厳する世界であり、仏法の世界である。広大異門というか、その本願のなかに在って本願をみない。自分で妨げ制限して本願に逆っている。

 自性唯心は浄土の真証を貶すといわれている。本願のうちにありながら本願を否定している。広大無辺の世界のうちに小さく自己満足している。そういう仏法を私している罪を仏智疑惑という。誹謗正法というと積極的のようであり、疑惑というと消極的のようであるが謗法を抑止するのみならず、多劫の障りを抑止っする。ここに二十願というものが出てくる。そこに始めて善導大師の解釈を通して考えてみると、誹謗の根底には仏智疑惑ということがあるのではないかと思う。無明といわれているものがそこにあるのではないかと思う。五逆とはその反対を仁義礼智信とあるように倫理的罪悪であり、俗諦的罪悪である。

 疑惑というと真諦門的罪ということになる。こういう問題が考えられなくてはならぬ。疑惑と言うようなものは表面に出ているようなものではない。信じていると思っているところに疑惑がある。信じているということ自身が疑惑している。人がなぜといっても自分は斯く信ずるというのは疑惑である。体験主義の信仰というようなものは一つの疑惑である。無根の信というようなものは信ずる意識の信心でない。それは有根の信心である。迴向の信心とはそういう信ずる意識ではない。だから念仏疑惑の罪は表面に直接的に無媒体に裸の姿で出るものではない。これは天親の唯識教学でいえば末那識にあたると思う。信ずるということを、なお包むような疑惑である。あおういうものは真諦の世界に入って、仏法の世界に入って始めてしられる罪と思う。それまでは五逆の罪が出る。五逆というようなものはむしろ仏法の機縁となる。五逆の裏には疑惑の罪というものがあるのであるが、そういうものは表に出てこない。謗法とは仏法を信じたことによって出てくるようなものと思う。直接的な世間意識では真諦的第一義に対する疑惑というものは覆われている。却って念仏に遇うことによって出てくる罪というものと思う。つまり念仏の信心というものにおける矛盾である。念仏を信じているうちにあらわれる大きな矛盾である。いわゆる教行信証でいえば機法の矛盾である。自力は疑惑である。信ずると頑張ることが疑っている。念仏を力にすること自身が告白しているような罪である。五逆罪を犯したという犯罪のような意識でなく、念仏を信ずるというような形で暴露されているような罪である。これから押してゆくと、誹謗正法は仏智疑惑というようなことになると、自分の考えとしていっているが、多劫の障りということをみて間違いないことと思う。苦しみならまだよい。楽しみというところに救うべからざるものがある。謗法を五逆と比較してあるが、それは話にならないと思う。まあふつう五逆については懺悔、謗法については迴心、善導大師はそれに結んで謗法闡提迴心皆往といっておられる。五逆に対しては懺悔、迴心は第一義諦に対する懺悔と思う。宗教的懺悔とは何か悪いことをしたというような、何かやったことに対する懺悔ではない。自己の存在の懺悔である。自己の存在が懺悔される。過失に対する懺悔ではない。自己の存在自体が第一義に反逆的にある。自己の存在の根底に対する懺悔、それを宗教的懺悔という。第一義的懺悔とはそういうものである。懺悔は罪の帳消しではない。永遠に帳消し不可能である。改めのできるものではない。永遠に罪の帳消しが不可能であるというのが懺悔である。不可能と投げ出すより外にない。そういう性質のものである。善導大師と曇鸞大師とはいかにもその解釈が違うようであるが結局善導が摂取の悲心を抑止されたお気持ちは唯除というは 「重き罪を知らせんとなり」 であった。罪の重きを知らせんため唯除が設けられたということである。罪を救わんというのではない。つまり宗教においては五逆は恐るるに足らぬ。唯本願を疑うのが恐ろしいのである。その裏に善も頼むに足りぬが、悪も恐るるに足りぬ。恐るるは疑惑であり、本願に対する根源的罪である。疑惑が第一義の罪だ、とくいうことに帰着する。

                          次回は 「唯除の自覚」 をお送りします。


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