唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (24) 自類相応門 (10) 

2014-07-28 23:27:32 | 心の構造について

 第二は、瞋は三の見と倶起する場合と倶起しない場合があることを説く。

 「此は三の見とは、或は相応することを得。楽有る蘊の於に身と常との見を起こすときには、憎することを生ぜざるが故に、相応せずと説けり。苦有る蘊の於に身と常との見を起こすときには、憎恚することを生ずるが故に倶起することを得と説けり。」(『論』第六・十七右)

 此(瞋)は、三の見(薩迦耶見・辺執見・邪見)とは、或は相応することがある。(或は相応しない場合もある。)

 楽有る蘊という、人天の果報は楽果であると云われていますが、そこに生れた(五蘊を持った)有情が薩迦耶見と辺執見の中の常見を起こすときには、憎恚が生じないために、瞋と薩迦耶見と常見とは相応しないと説かれているのである。

 苦有る五蘊に対し薩迦耶見と常見を起こすときには、憎恚が生じるために、瞋と薩迦耶見と常見とは相応すると説かれているのである。

 本科段においては、辺執見の中の断見と常見の二つの内、常見が取り上げられて説明されています。次科段に於て断見が取り上げられます。

 人天の楽果と云われていますが、五悪趣の中の楽果ですから、身を享けたと云いましても、執着された者ということになります。法体恒有としての五蘊ですね。五蘊に執着している。ここで云われています五蘊は、常一主宰の義である誤った認識としての我を指します。本来は五蘊仮和合です。誤った認識としての五蘊が永遠不滅のものであるとする楽有る五蘊は自分の意に順ずるという意味から憎恚を生ずることはない、即ち常に楽有る環境の中に身をおくことになりますから、瞋と薩迦耶見と常見とは相応しない、ということになります。楽有る環境では、憎恚を生ずる必然性はないのですね。逆にですね、、苦有る環境ですと、未来永劫苦の世界が続くわけですから、そこに憎恚を生ずることは必然なのでしょう。従って、瞋と薩迦耶見と常見とは相応すると説かれてきます。

 固定化の問題が提起されています。善因善果・悪因悪果の方程式では、楽の世界は貪りでしょうし、苦の世界は怒りに満ち満ちた処となるんでしょうね。悪見に執着すると必ず固定化(自分が一番や)と云う問題が生ずるということを指摘しているように思われます。常一主宰の我が存在して己に順ずるような楽と倶行する場合には怒りは生じないという、当たり前と云ってしまえば当たり前なのですが、人をして傲慢にしますね。

 

 「論。此與三見至説得倶起 述曰。瞋與三見或得倶起。且身・邊見。謂縁樂倶行蘊爲我及常。見不生瞋故以順於己。對法約前二取及此。故説瞋非見倶。若於苦處縁苦倶行蘊。爲我及常見。便生憎恚。云我何用此身。生憎恚故。瑜伽二文。依此一分説得倶起。此通倶生・分別。如下無妨。」(『述記』第六末・三十五右。大正43・450c)

 

 (「述して曰く。瞋は三の見と或るときは倶起することを得。且く身辺見ならば、謂く楽と倶行する蘊を縁じて我なり及び常なりと為するときの見は瞋を生ぜざるが故に。己に順ぜるを以てなり。
 対法(巻第六)、には前の二取と及び此に約する故に、瞋は見と倶に非ずと説く。
 若し苦処に於て、苦と倶行する蘊を縁じて、我なり及び常なりと為するの見は便ち憎恚を生ず。我は何ぞこの身を用いんうやと云う。憎恚を生ずるが故に。
瑜伽(巻第五十五・五十九)の二文は、この一分に依って倶起することを得と説く。此(人天のうち苦蘊を縁ずる身辺二見)は、倶生と分別とに通ず。下の如く妨なし。」)

 

 今日はここまでにしておきます。倶生起と分別起の問題と、『演秘』の所論については明日に述べます。


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