唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (44)九難義 (24) 唯識所因 (22) 理証

2016-07-03 12:17:26 | 『成唯識論』に学ぶ


 巻頭は良寛さんの詩ですが、覚りの境地を見事に表されています。
 この詩の意味ををうけて、唯識、真宗のダイナミズムが語られるのですね。
  救済 =  廻向 = 「重き咎をしらせんとなり」・謗法五逆罪の自覚。 = 同時因果
  他力回向=種子(本有種子・新熏種子)=生現行(唯識の自覚)=現行熏種子=横超断四流
 このような了解には批判があると思います。お聞かせいただければと思います。

 前回の『述記』(原漢文)を読んでみたいと思います。
 「述して曰く、弁中辺論、初巻、所説の弥勒の本頌なり。(大正31・477c)
 「虚妄分別は有り(虚妄分別有)」とは、
 即ち三界の虚妄の心あるなり。旧訳も此に同なり。
  分別とは即ち能分別なり、境を分別するが故に、よく執を起こすが故に。
 「此において二は都て無なり(於此二都無)」とは、
 謂く能取所取の二、或は我法の二は、この虚心のうえにおいてすべて無なり。旧には彼処に二有ること無しという。
 処の言は於と大義は相似せり。処・於(ウエ)・中の字はみな第七転なり。所依あるが故に。いまは於此(此の於に)という、旧には彼処という。
 凡そ此というは近き法に此するなり。
  ・・・・・・
  此(直接のもの)=事実(真如)
  彼(間接のもの)=妄想(考えられたもの)
 事実の上には二無我。事実のうえに妄想が働く、つまり七転識である。
  ・・・・・・
 上来、始めに妄有を明す。いまは既に妄心のうえに於て、二無しという。
 如何ぞ彼と言わんや。誰の此に対せんや。
 すでに近き上において有なり、ただ此というべし。
 「この中にただ空(クウ)のみあり(此中唯有空) 」とは、
 謂くこの妄心の中に、ただ真如のみ有り、真如は此れ空性なり。空によって顕さるるが故に。
 前の長行に空と識とは此れ有非無なりという。(「我法非有、空識非無、離有離無、故契中道」)
 またこれに准じて知る。梵音にはただ舜若(シュンニャ・空と意訳)というは、即ちこれ空なり。また多(抽象名詞を作る接尾語であるターの音写。性と意訳)というは是れ性の義なり。いまは舜若多という。故にこれ空性なり。空門によって顕さるるが故に、梵音には性の字あり、此の方の言に順じて、頌の中には略せるが故に、ついに性の言を除いて、頌には、唯空のみありといえり。
 唯と定と別ありとは、
 梵音に都といえり、都と云うは、唯は是れ唯のみにはあらず、亦是れ定の義なり。この都の字の上に阿縛駄刺那(アヴァッダラーナ)と云うことを加うるをば、即ち楷定の義なり。故に今は唯とは是れ定の義なりというべし。依他の中に決定して唯空のみあるを以ての故に。前にすでに二有ること無しという。
 此に唯というは、さらに何の簡ぶところあるや。すでになきを以て、更に簡ぶことを須うべからず。故に唯は是れ定の義なりという。理において勝れたりと為す。
 ・・・・・・
  楷定とは、善導大師の古今楷定で有名ですが、意味としては、解釈を正しく確定すること(定まること)になり、又間違った解釈を正すという意味も込められています。
  ・・・・・・
 「彼においても亦此有り(於彼亦有此)」とは、
 「彼」とは、かの空性の中なり。「亦此有り」とは、謂く妄分別有るなり。即ち虚妄分別はこれ俗諦なり。妄分別に空ありとは、即ち俗諦の中に真諦の空あるなり。即ち真諦の空の中にもまた妄分別有るなり。即ち真の中にもまた俗諦あり。二諦は必ず互いに有と無と成り。一無き時には亦二無きが故に。相形して有なり。旧に、此において亦彼も有なりという。ただ彼此を異と為す。義意は大同なり。下は前の義を成ずるなり。
 「故に一切不は・・・説く(故説一切法・・・)」とは
 謂く有為と無為となり。この二無きに依って、之を名けて空と為す。故に此の二に法を摂し尽くすなり。有為は即ち妄分別なり。無為は即ち空性なり。
 謂く般若経の中には一切法を説く。
 此(中辺論)の中には、ただ三界の心心所法のみ明かす。故にただ妄心のみと云えり。これは俗諦なり。不妄心(無漏心)無きに非ず。旧の此の頌の上の三句は此に同なり。
 「空にも非ず不空にも非ず(非空非不空)」とは、
 謂く空性に由るが故に、および妄分別の故に、非空という、二諦有るを以ての故に。
 非不空とは謂く所取能取の二、或は我法の二なり。二は皆無なるが故に非不空なり。
 「有と無と及び有との故に(有無及有故)」とは、
 有は謂く妄分別有るが故に。無は謂く二取、我法は無なるが故に
 及び有とは、謂く妄分別の中において真空(空性)あるが故に。真空の中においても、また妄分別有るが故に。この中に三の故の字ありと言うべし。
 謂く「有の故に(故有)」とは即ち妄分別なり。
 「無の故に(故無)」とは即ち能所取なり。
 「及び有の故に(及有故)」とは即ち俗と空と空と俗と互いに有なり。梵に薩埵(サットバー)という。これ有成る故に、また有情ともいう。義に多を含むが故に。阿薩埵は非有なるが故に。無と言うが故に。この中の文は略なり。ただ一の故の字をいう。
 「是れ則ち中道に契えり(是則契中道)」とは、
 謂く一向に空にして清弁(ショウベン・はっきりしていること)の如くに非ず。一向に有なること小乗の如くにあらざるが故に、中道に処せりと名く。謂く二諦は有なり。清弁に同じ駆らず。二取は無なり。小部に同じからず。故に中道に処せり。旧に、是を中道の義と名倶といえり。これは中道に会することを説くなり。彼の義を詮ずるというにあらず。
 以上、並びに是は中辺第一巻の長行に自ら解す。彼に云く、かくの如き理趣は妙に中道に契えり。また善く般若等の経に一切法は非空非有なりと説けるに符順すといえり。」

 以上が読みになります。なんとなく解ったような解らんようなことですが、反復していただきたいと思います。次回は注釈をつけていきたいと思います。
 

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-07-03 13:58:26
大変暑い折、昨日は津村別院(わたしも見たかったです)で感動され、怠けの私なら今日はぐたっなのに、こんなに整然と……師の頭の中はどうなっているのですか。千里の道も一歩から 私も座右におき何とかしなくては。

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