唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論』は何を教えているのか。(2) 五遍行

2014-01-02 16:51:33 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

 深層意識の根底で動いている識、根本識ですが、これを第八阿頼耶識というわけです。この第八阿頼耶識が動いている時、生きている、生命が働いている時にですね、必ず第八阿頼耶識と共に働いている心所がある。それを遍行といいますが、五つあると云われています。触・作意・受・想・思の五つです。心王は阿頼耶識・心所は五遍行。心王が動いている時には恒に心王とともに働いている具体的な働きです。阿頼耶識といってもわかりませんが、触乃至思の心所が深層の所で働いている。どんな状況におかれても必ず働いている心所です。

 今日は、遍行の説明をするつもりではないのです。五番目の「思」の心所について考えてみたいのです。でも簡単に五遍行を説明します。

 「触」は触境ですね。「境に触れ令むるを以て性と為し。受と想と思等の所依たるを以て業と為す。」 境は外界であり、対象ですが、その対象に触れること、認識を可能としている心所が触の心所なのですね、この触が受・想・思の所依となるということです。触がなかったなら、受も想も思も起こってこないのです。

 ですから、花を見る、雲を見る、或は音を聞くということが可能なのは、「触」の心所が深層で働いているからなのです。鼻を見るという眼識、音を聞くという耳識、匂いを嗅ぐという鼻識、味わうという舌識、暑い、寒いと感じる身識、意思表示を行う意識もですね、「触」の心所が基盤となっているということなのです。どうでしょうか、当たり前と思っていることがですね、命の働きとして与えられているということなのですね。

 作意は「触」とともに、同時ですね。心を動かしていく働きです。僕はFBで、朝の挨拶のつもりで空の様子を投稿していますが、空に触れたと同時にですね、スマホのシャッターをおすという作意が働いているんですね。自分が起こしてように思うんですが、そうではないんですね。作意が働いて押すという行為が生れてくのです。

 この行為が生れてくる背景にですね、いろんな条件が重なってきます。若い時は視力は1,5位でよく見えていましたが、最近は老眼が進んで老眼鏡を手放せません。何もかも霞んで見えなくなっています。見るという一つの事をとっても、私が見る対象は日に日に変化しているわけです。難しい言葉では、根・境・識の三和合といいます。この三和合が変異に分別して境に触れ令む、ということなのです。だから日に日に同じ道を通って仕事場に向かっているわけですが、同じだと思っているだけなんです、実は違うんですね。絶対化という問題が潜んでいます。

 そして「触」が所依となる受・想・思えす。受は受け入れる、領納することです。「順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し」といわれています。対象に触れたことを領納する。すべてですね、取捨分別は行わないで、すべてのものを受け入れる、これが受の性です。「愛を起こすを以て業と為す」といわれています。業は何かと云いますと、執着です。同時にです。ここでもですね、三法展転因果同時ということですね。このことは明日考究したいと思いますが、受は執着を起こすわけです。三受相応とか、五受相応といいますが、苦・楽・捨・憂・喜・捨という、触れることにおいて受け入れるということが起こってくる、その時に五受という具体相が表面化してくんですね。

 次に「想」ですが、順次に起こってくるということで説明されますが、説明です。実際は同時なんです。言葉によって言葉を離れた世界を表現しているわけです。

 受までは、はっきりとしてた具体相はないわけですが、「想」に至って、認識の具体相が出てきます。僕はパソコンの前に座っているわけですが、パソコンである、椅子である、キーボードである、参考書である等々ですね。これを「境に於て像を取ると以て性と為し」といわれています。業は何かといいますと、名言です。言葉を以て認識するということですね。「種々の名言を施設するを以て業と為す」ということです。

 五番目が「思」の心所です。行動を起こすとか、意思決定ですね。私たちは意思決定も、意識で行っていると思うんですが、そうではないということを教えています。一言でいえば条件内存在です。意思決定があっても条件が整わなければ行動を起こすことは出来ません。「心をして造作せ令むるを以て性と為し」と。意思決定は、善・悪・無記のいずれかに決定する作用ですね。そして具体的な行動に移していくわけです。

 そしてこれらの五遍行が第八阿頼耶識と倶に働いているということです。意思決定をし、具体的な行動として動くのは阿頼耶識の具体相なのです。何をいっているのかといいますと、私たちは阿頼耶識を所依、依りところとして現実生活を送っているということなのです。本来は、我執を超え、法執を超えて命は与えられているということなのでしょう。

阿頼耶識と共に生まれ、阿頼耶識と共に生かされているということになりましょうか。善導大師はその著『観経疏』序文義に「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と、内因と外縁の因縁和合に深い恩をいただいておられます。自分は自分の生まれたいという意思決定により、父母の力を借りて生み出されてきたのであって、それは「自の業識」であるところの阿頼耶識の働きであるといえないでしょうか。

 では何故苦悩が起こってくるのかですね。第七末那識と第八阿頼耶識の関係が大きく左右してくるのですが、次回に述べて見ます。


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