慶応ボーイの植木屋修行

ランドスケープアーキテクト福川成一のエッセイとオーベルジュ・スミの庭の記録

石の風景 Ⅲ

2010-06-08 09:59:06 | エッセイ
勢いを感じる
石積みの勢いを表現するのに私は農夫が積んだようにとよく言う。農夫が畑の石をどけながら作られた石垣のように、つまり石垣が目的というより片付けるのが目的で、必要にかられて、多少うねうねと曲がったりして自然な感じがいいのだと思う。水糸を張って正確に作られた石積はともすると奇麗ごとに感じ、自然な感じを殺しているように感じるものがある。

 今日、重機の利用によって大石を次々に隙間もなく積めるようになってが、それによって石積みにかける人数も少なくなり、単一の工程で施工できることが、均質でつまらないものになっているような気がしてならない。岩城造園の岩城亘太郎が杖をつきながらぶらりと現場に来て、「京都ではもっと石が小さくてよかったな」とふっと言ったのを覚えている。
 間知石積みが合理的で均質であるがゆえにつまらないように、不完全が必然に感じられるようなものが、自然化し、美しく見えるのだと思う。
 この頃の輸入ものの乱形の石貼りなどはほぼ同じ大きさで目地広く大雑把に貼られるが、それが海外のものであることを感じさせるので、日本の技術で大小を混ぜ目地をそろえて張ってみてもかえって勢いがなくなり、面白くなくなる。不思議なものだ。
 
 目地にこそ美しさの秘密がある
 一石に惚れるなとよく云われるがむしろその石の周縁の有り様が大切である。
石はそれが施工された時の職人の汗を、その部分で感じさせる。積まれる石にはすべて目地がある。この目地にこそ美しさの秘密がある。私たちが石積みのスケッチを書く時、書くのは目地とも云える。今でも石積み、石張りのスケッチは私が書く、やはり施工の経験が、スケッチに表現されるように思っている。大きな石を画面にリズムよく配ってその間に小さい石を書いていく。端から順番に書いていくのと、全体を考えて書いていくのでは当然出来上がりが違う。一カ所にこだわるのではなく全体を見ることが大切だ。ただ図面に石の模様を書いているのではない。ここで何を職人に伝えるかを書いているのだ。

 石積みの良し悪し、石貼りの良し悪しはともかく良いものを見ておくしかない。皇居の石垣をぐるっと回って見ると、良い石積みとそうでないものがある。注意すれば誰でもわかる。この感じる能力、注意力が私達を成長させる。
 街を歩いていてミニスカートの素敵な脚を見つけることも楽しいことだが、見慣れた風景の中からふと見つけた魅力あるものは長く自分の記憶に残る。


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