幾重にも重なる山並み、これぞ伊賀盆地。(西蓮寺から)

2023-08-12 13:18:38 | つれづれ思うまま
前日までの強風に湿気が飛ばされたか、と思うほどの快晴
若干のわた雲は、まさにザ・夏。
まぁ、クッキリすっきり見えた8/11の空と伊賀の東方面山並み。
  ここは「西蓮寺」

滅多に行かない「墓地道」を左へ行くと、なんとそこには「池」。
 
右端に見える堤は山へと続く道にも見えましたが、
実際には行ってないので「未確認情報」です、あしからず…

話は戻って、
ここ長田の西蓮寺を訪れるたび必ず見る「ザ・伊賀盆地」の風景で、
その背後の山が「第二次天正伊賀の乱/比自山の決戦」のあった場所。
≪天正の乱で伊賀衆が最も果敢に戦ったところ≫です。
 「ふるさと芭蕉の森公園」の『忍者の里看板』

帰宅して(昔、家人が買ったと思われる)「伊賀市史通史/古代・中世」など開けてみました。
全巻あるわけでなく、たまたま家にあるのが興味のある「中世だっただけ…
 

そういえば、子どものころ「お墓参り」といえば「山登り!」だった記憶が蘇ります。
今ほど暑くないとはいえ、水筒や鎌・蚊取り線香持参、
急峻な狭い山道やら石段を登っての「墓参り」。
怠け者のワタシは心の中で「墓参り=辛い行事」と思っていたような。

今になって思えば「つわものどもが 夢の跡」のようなその山道こそ、
「比自山城跡」への道だったかも!と思えるようになりました、
高齢になってからの勉強のおかげか(笑)。

幼いワタシを連れて行った両親は亀山から来た人なので、
きっとそんな(信長による)「伊賀のツライ黒歴史」は知る由もなかったと思われますが、
焦土と化しても、見事復活させるのが伊賀の底力!
といえばそれは「伊賀人の誇り」にもなるかと。(個人の見解です)



墓参り後、今度はハハの所用で長田三軒家へブドウのお買い物、
(杖をついて歩く超高齢のハハを墓参りには連れて行かなかった💦いたし方のない判断です)
そして帰り道「西山の棚田」へ。

ではまた
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「神君伊賀越え」関連弐題、★NHK名古屋から ★お城ニュースから

2023-07-22 10:16:40 | 伊賀忍者回廊巡り
NHK名古屋のHPで見つけました。(知人に教えられですが)

その1★「どうする家康 お宝から見る!伊賀越え」★です。

「神君伊賀越え」に関する超貴重な資料が保管されている「伊賀流忍者博物館」※の取材など、
なかなか興味のわく内容です、ぜひ
  

ちなみに、※館内の甲冑の写真や「伊賀越え」や「天正伊賀の乱」の解説もあります。
今年の1月に訪れた時の館内の写真からピックアップ
前段として「天正伊賀の乱」とは?


翌年の「本能寺の変」後の家康の動き…


伊賀越え時の甲冑
 

「伊賀忍者が生まれたそのわけ?」
 

「三国地誌」に残る「伊賀の薬の数々」(※今の地図とは逆に見てください)


じっくり見ているととても勉強になる気がしました、
今更ですが、「伊賀ってやっぱり『忍びの国』なんだ」って思ってしまった…

・・・・・・・・・・

その2「お城ニュース」から
御城印3枚並べると『神君伊賀越えの地図になる
『7月24日(月)から11月30日(木)までの間、
山田牧場伊賀流忍者店山星商会において
「神君伊賀越えキャンペーン」と題して小川城・比自山城・和田城の
新作御城印が発売されます。
この期間限定御城印を3枚並べると
「神君伊賀越え」で諸説あるうちの4ルートが載った地図が完成します。』



この話に、思わず飛びついてしまいました!
「和田城」は、私的にお先に(2020年10月)行っておりますがその折には「御城印」はなかった💦
当時の「和田城攻略blog」です。
冒険気分で楽しかった「山城探し」だったこと、思い出しました(笑)。

詳細はリンク先を


そうそう、今日家人は朝から「鬼面及びその衣装の虫干し」です。
虫干し日和です…
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大野木の「中世城館」で歴史を感じる…②木津氏館、直居氏館

2022-07-13 23:28:08 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
6/4に現地研修に行ってから随分日も経ち、このままでは危ういままの記憶になりそう…
なので、自らを叱咤激励しつつ、気力を奮い立たせて、
(そんなオーバーな表現をしなくても…と思われそうですが、
 それくらい今の蒸し暑さに気力がついていけないのです

現地訪問し、「土塁」等の撮影もさせていただきました。
が、実際にはご子孫の方がお住まいなので、前もってきちんとお話をし、
立ち会っていただいての見学となっています。

いかんせん想像力が豊かでないので、自分なりの整理のために、各種参考文献を探し、
余湖くんのお城のページ」を見つけたので、当日の説明資料とともに
掲載させて頂きつつ、復習しようかと思った次第です。
 参考:『竹島氏館・木津館・直居館

「大野木の中世城館①」で訪れた『竹島氏館と『木津氏館』の真ん中から両館を望みます。
 『竹島氏館』

中間地点から『木津氏館』
  

畦道を進み…「土塀」、「堀跡と石垣」。
  

分かりづらいですが、ここは「薬研堀(ヤゲンボリ)」だったのではないかとのこと。
 

木津氏館
 ≪大野木地区の木津川西岸段丘に築かれている。
 東出地区の水田の中に屋敷林で囲まれた旧家が木津氏館。
 周囲を土塁と堀が廻らされた単郭方形の典型的な豪族居館
 敷地の西側を除く三方に土塁が残り、特に東側の土塁が旧状を良く留めている。
 また、現在は水田となっている堀は、発掘調査の結果、幅6m・深さ1.5mの薬師堀※であったとか。 
 木津氏館は、築城年代は定かでないが木津氏によって築かれた。
 木津氏は、伝承に拠れば山城国木津より移住したとされている。≫
薬研(ヤゲン)とは…
 Wikipediaより
 ≪堀の形状の一つで、薬研(=漢方で薬を細かくし煎じて飲むために、
 鉄製の細長い舟形で中が断面V字形)のごとく断面がV字形になっているもの≫

館をお暇するときに見上げた「」、近くからでは全体が撮れないほどデカい。
屋敷から出るときに「石橋」があり、その傍に立っており、
大野木の歴史を見ていた「大木」かもしれない、と思う。
  両手を広げてる風に見える…
」って、
 ≪「」の右側は「(キョ)」という漢字です。「手を挙げる」の「挙」の旧字で、
 「両手を揃えて頭上に持ち上げる」という意味があります。
 「きへん」+「擧」で、両手をいっぱいに広く突き上げたような形に枝が伸びる木をあらわし、
 欅の木の姿を見事に表現した漢字となっています。≫とのこと、なるほどね…
 「木津氏館」西側。

参考文献→「藤堂藩伊賀者と新発見木津家文書」要旨

次に、同じく木津川西岸の自然段丘に築かれている、
直居氏館
 ≪大野木清水地区の中心部にある直居氏宅を取り囲むように土塁※①堀の一部※②が残っている。
 土塁の西端は隣家と接しているが、高さ約3m程のある分厚い土塁※③がある。
 直居氏館は、築城年代は定かでないが直居氏によって築かれた。
 直居氏は、天正9年の伊賀天正の乱では他の豪族と共に比自山城に籠城した。≫

  ※①土塁(屋敷周り)

 ※②「堀跡」?

  
※③「土塁」
土塁の上から西側を見ると「比自山」は、すぐそこ!
 
「天正伊賀の乱」激戦の地、、、

ではまた

2022/9/1 追記
下記ブログをリンクいたします。
伊賀へいらっしゃい/伊賀市大野木地区
NHK大河「鎌倉殿・・・」に、いよいよ「伊賀の方(のえ)」登場です。(2022/9/4~)
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大野木の「中世城館」で歴史を感じる…①「竹島氏館」

2022-06-11 17:47:07 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
菅原大邊神社」から「大邊神社遺跡へ、知らないことだらけですが、
まだまだ「大野木の歴史」を知るうえで大切なものが残っています。
西の山の方を見れば、昔もこんな風景だったかも、と思いますが、
木津川沿いの集落や田園はずいぶん姿が変わってしまったんだろうと想像はつきます。
  (再掲)
その「大野木地区」のワタシが理解できる範囲での歴史を少々。
≪江戸期~明治22年の村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。大乃木とも書いた(元禄郷帳:伊賀国郷帳)。
はじめ伊賀上野藩、慶長13年(1608)からは津藩領
(中略)
寛延年間(1748~1751)頃の家数163・人数811、馬30(宗国史)。
木津川の沃野(ヨクヤ)で米が主産の農村地域
鎮守は菅原道真を祀る菅原大辺神社、寺院は天台真盛宗蓮生山宝光院西福寺・同宗橋本寺のほか、
明治期に廃寺となった大願寺・梅生寺・願成寺があった。
明治4年安濃津(アノツ)県
5年三重県に所属
明治4年(1872)の伊賀農民騒動で、当村の大庄屋直井正助宅が放火された(伊賀大騒動記)。
同8年小字神ノ木の木津川に橋が架設された。
同9年大野木学校が西福寺を借りて開設された。
同21年の戸数154・人口703、田87町1反余・畑20町9反余(町村制実施取調上申書)。
同22年花之木村の大字となる。≫ 
①詳細並びに出典はこちら「角川日本地名大辞典(旧地名編)
天保国絵図:伊賀国もご参考に。

余談ですが、
馬の数も調べていたとは…恐るべし!
そして、「慶長13年」は『藤堂高虎』さまが伊賀へ入府された年ですね。
上野城の高石垣はこの頃造られています。

田園の真ん中辺りに「竹島氏館跡」。
ここで、

すでに住む人はおりませんが、立派な「城館」が残っています。
そこの石碑の下の方に「史跡竹島氏館跡環濠」と見えますが…

「環濠」といえば、以前「山の辺の道」の一部を散策したときに見ました。
『奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが、非常に多い
 大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、
 自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していた※ものと思われる。
 そうした環濠も現在では、戦乱の防御から潅漑用に転用されたものが姿を留めている』とか。
※下線部に「竹之内環濠の写真」をリンクしました。

伊賀の話に戻り、
大野木地区も昭和の後期か平成の初めころに「ほ場整備」されているので、
いわゆる「中世城館」と呼ばれる『館(宅とも呼ばれるか?)』は少なくなりました。
(昔のさまを残すことも大変かと思われますが)
ここで、いわゆる「中世」って一体いつ頃?
これから伺う「館」の説明版にありますのでそれをご参考に…

では、「中世城館、伊賀の場合」、
城は土から成っており、土を掘りその土を内側に盛り上げて作られており、
伊賀の山城は掻揚形式 、切込形式、掻揚切込形式 または削平形式で造られているとか。

当日資料によりますと、
平地は掻揚型式台地は切込で堀切を造る
 掻揚型式氏館とは、平地に壕を掘って土を掻き揚げ土塁を造る
三国地志」には伊賀地方の城館について城、塁、宅を明確に区別して
は大規模な土塁、堀などの施設を備えたもの
はそれに準じる
土豪クラスの単郭式の方形城館とし、藤堂元甫もこれを意識していた。』とのこと。

 
市指定文化財 史跡 竹島氏館跡】(伊賀市大野木字神ノ木)
≪伊賀地域には、室町後期頃に造られた小領主の城や館である中世城館がよく残 っています。
 竹島氏館跡は、平地に造られた中世城館の一つです。
 規模は、主郭(シュカク)は郭内で東西約27m(十五間)、
 南北約36m (二十間)の広さをもち、四方を高さ 2~4mの土塁に囲まれていて、
 主郭の南側で土塁の中央部が開き、長屋門(ナガヤモン)が設けられています。
 堀は土塁を取り囲むように設けられ、西側は水田としてその地割が認められます。
 南側には水田の地割りは見られませんが、堀の存在する可能性は高いと思われます。
 主郭の北側から外郭土塁が東西に延びて、さらに南へ折れているので
 もとはかなり大きな郭であったものと考えられます。
   写真提供: 県埋蔵文化財センター ≫

また「伊賀市の文化財」の冊子では、


この日(6/4訪問)は、関係者の方に門を開けていただけ見学可能となりました。
いつもながら感謝、感謝です。
水田の向こうからみました、「長屋門」が見え、
周りの水田は昔は「環濠」だったと思われます。
 
 『竹島氏館は、屋敷林に囲まれ古風な長屋門がある旧家だ。
 圃場整備で改変されているが、屋敷林の外側にある水田は堀跡であろうと思われる。
 特に西側の水田は面影がある。
 伊賀には単郭方形の居館が多いが、竹島氏館は方形の曲輪を二つ並べた縄張りで、
 伊賀では珍しい複郭式(フクカクシキ)の居館である。
 現在は、土塁が居館の周囲に残り空堀が北側と東側に残っている
 竹島氏館は、室町時代に竹島氏によって築かれた。』とのこと。
 
  

  
「土塁」が残っているので上らせていただいたら「祠と石仏」さま、ご鎮座。
「土塁」の上は少し歩けますが、現在は見通せません。
多分「館」を隠すことの方が大事だったのではと思われますが…
  
「臼」と思われる石が敷石として使われていました。
また、『天正9年の「天正伊賀の乱」では竹島与左衛門は他の豪族と共に比自山城へ籠もり、
 織田勢と一戦交えている。』との記録があるそうです。
そう、その比自山の様子はよく見えていたと思います。

この「館」から南へ真っ直ぐ、
 
「木津氏館」へ。

ではつづきます。
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ふるさと芭蕉の森de青もみじ、そして常住寺へ

2021-06-11 00:36:29 | 花や風景など
 久しぶりの「比自山城跡」の案内版、
ここが「ふるさと芭蕉の森公園」の駐車場でもある、


さぁ、少しの距離ですが急坂を上ります、道をジグザクに歩くと登り易い、
距離はちょっと長くなるけど、膝の負担は少なくて済む(気がする)(笑)。
上りきると、東屋付近でいつもの景色を撮る!(ワタシの定番)
  
お天気は良いのだけれど、やはりちょっと霞んでます…
(今年は、何故かスッキリしないことが多い なんでかなぁ?)

  定番「青もみじ」

同じ道を降りずに、【常住寺】の裏山道を下る(ココもかなり急坂)、
  閻魔堂(県有形文化財)に着きます

 癒しのサツキ、蕾もいっぱい、

 境内から石段を下りて、東の山々を撮る
これもルーティーンみたいなものかな(笑)、ただお寺に鳥居?がよくわからないけど…
撮らずにはいられない風景、絵にかいたような山々が見えるので、つい。

「常住寺」に直接伺う場合はココからお入りくださいね。
小坊主さんが「どうぞ」と言ってますので…

(ワタシはいつも裏口入門みたいなものなので

比自山の中腹辺りにあるのでしょうか、
ここからの景色に伊賀の歴史が見える…のも確かです。
(2021/6/9 訪問)

さて、島ケ原「行者堂」目指します~~
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忍者回廊巡り 真っ最中! 番外編 「福地城跡」と「萬寿寺」(柘植地区)

2020-07-28 11:00:14 | 伊賀忍者回廊巡り
訪問日:2020年7月19日(日)、伊賀では33.8度の今夏(といっても梅雨もまだ明けていないのに…)最高気温
こんな日に外へ出て行ってはいけません、午後3時以降の散策がよかろうと、、、一人合点してみる。

今まで『百地砦』・『千賀地城跡』・『比自山城跡』・『柏原城跡』など忍者の痕跡が残る場所を訪ねてきて、
いろいろ資料を読んでいるちに「信長を手引きした者がいる※」ということを知りました、、、
(今頃気付いたん??とは言わないでくださいね(笑)、
過去、伊賀のNINJAを如何に盛り上げるか!ということばかりに気がいってたもんで、、、)

そこで、この城跡の名前が出てきたわけです
福地城跡(芭蕉公園)】 

「天正伊賀の乱ざっとあらすじ」
天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は
丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。
天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、
伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱

これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて
伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。
伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。
伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、
忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)≫(伊賀流忍者博物館HPより

伏線として、
※≪天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所を訪れ、
伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。≫(Wikipediaより)という話が出てきました。

≪菊岡如幻著・伊賀国『伊乱記』では、9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。≫
 (映画「天正伊賀の乱」より

さて、名阪国道上柘植ICを降り、163号線へ、国道を東へ数分走ると(普段は点滅信号)この案内


右折して少し走ると   すぐです

『萬寿寺』というお寺を通り過ぎて行くようですが、はて?この光景、いつか見た、いやいつか来たことある…
そんな微かな記憶を呼び戻す場所でした(過去、お仕事で🚌何度か来ていた(笑))。その当時は何も知らなかったということです
(やっぱりね、ワタシってなにも知らずに伊賀人してたんだぁ…)

 
左の道は「萬寿寺」駐車場へ、ここに車を止めさせていただく
右の道が「福地城跡」へ行く道

「萬寿寺」の前を通り抜けて(お寺は帰りに寄せていただくとする)、田園地帯の中の緩やかな坂道を進むと 
  
福地城跡の立派な石碑と芭蕉句碑とその解説
「蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな」 
≪元禄7年9月、松尾芭蕉が51歳の時に、伊勢から芭蕉を訪ねて来た弟子を迎え、
新蕎麦でもてなしたいところだったが、伊賀はまだ蕎麦の花の季節だった為、
この白くて美しい花を堪能下さいという句で、当時の伊賀には広い蕎麦畑が広がっていた≫とのことです。

恒例の案内板とクイズ
  

答:

石段を登ります
  
3mほどの立派な石垣(石塁)が残っています。
その先に行くとすり鉢状のような広場で、周りは土塁とうっそうとした樹木に囲まれています。

その場所が「芭蕉公園」。
芭蕉生誕360周年事業(2004年)の折に整備されたのでしょうか? ちょっと古びてきましたがそれもまた風情かな…
生い茂った苔が絨毯のようにふかふかと足元にやさしかったです。
   芭蕉翁生誕の碑

  

話はまた少し「伊賀乱」に戻りますが、この戦乱によって伊賀國は壊滅状態となりましたが、
1年後の「本能寺の変」で信長が倒れると、福地一族は再結集した伊賀の国人衆によって追放されることとなったそうです。

土塁に登って見渡すと
 柘植の里
反対側は
 名阪国道です(真ん中の道路は側道)

柘植地区の皆様のお世話のお陰で芭蕉さんが大切にされているということです。
と、ここで福地城と芭蕉の関係は??
そうそう、確か≪城主は福地宗隆で福地家は平宗清を祖先に持ち松尾芭蕉の松尾家は分家でした。≫と、、、
柘植の方々の思いが詰まった公園になったわけです。(福地城跡=芭蕉公園なので ちと説明がややこしいのです

戻って「曹洞宗萬寿寺」の境内へ
  芭蕉さんの墓碑になります

    
≪「観音堂」は、長福寺(萬壽寺の前身)と共に鎌倉時代に建造され、伊賀管内では最古の建物≫とのことです。

「忍者回廊巡り 真っ最中!」(ご朱印いただけるところ)として残るは2か所。
寺田・「大光寺」と滝之原・「赤岩尾神社」は、天候次第、暑さ次第…秋になるかもというところ。
番外として「伊賀上野城」・「伊賀流忍術博物館」、ここはいつでも行けるところ(笑)。

ではまた

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忍者回廊巡り 真っ最中! その13-1 「比自山城跡」

2020-07-23 00:34:52 | 伊賀忍者回廊巡り
今回は、過去と現在が織りなす記録です(笑)。

2020年5月15日の午前中、長田地区にある「ふるさと芭蕉の森公園」に行きました。
小高い山に登った時、東方面の遠くに見える「三連の山」を眺めていました、、、


その時は「忍者回廊巡り(ご朱印集め)」のことはまだ脳裏になく、何となく健康のためと伊賀のことを知りたくて…
という単純な動機で伊賀巡りをしていたのです(笑)。

「ふるさと芭蕉の森公園」のことはまたいずれご紹介しますが、5月の新緑の様子をどうぞ
   まるで、青もみじのトンネル

ほん隣には「常住寺」があります、ここもいずれご紹介したいと思っています。
  「常住寺」石段の上から見渡す伊賀盆地
むかし、伊賀の盆地が焦土と化していくさまを、長田の山から見ていたのでしょうか、、、


比自山城跡(砦)
≪天正伊賀乱の主戦場となったところで、蒲生氏郷や筒井順慶らの軍勢と激しい攻防戦を繰り広げた≫ところです。
が、意外と詳しいことは知らされていないというのが事実、知る人ぞ知る場所だったのかもしれません。
その情報を初めて知ったのが、「ふるさと芭蕉の森公園駐車場」だった、、、

案内板とクイズ
  

答:

実際には単独ではなかなか行けそうなところではなさそうなので、史実として残っている…ということでご勘弁を。

初めに「三連の山」と書きましたが色々調べてみると、
多分こんな山が見えていたのだと、、、 
長田の山から対面に見えるところに「上野公園の丘陵地」、次に「南宮山(なんぐうさん)」があり、3つ目は「霊山」。
その中の真ん中の山の前には「一之宮敢國神社」があります

行かなければ、、、と思い立ち、昼食後出かけたのです。
では、Go~~

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忍者回廊巡り 真っ最中! その11-2 千賀地氏城跡(伊賀市予野)へ

2020-07-13 09:27:28 | 伊賀忍者回廊巡り
念願かなって行きました。(訪問日:2020/7/11 16:00~)
これも「忍者回廊巡り」をしているおかげかな
ネット散策資料によりますと
≪千賀地氏城(ちがちしじょう)は、東西に丘陵が迫る千賀地谷(近地谷)の中にある予野地区、
地区の西側の丘陵には土豪の城が三城 〔木原氏城・浅井氏城・千賀地氏城〕あり、
千賀地氏城が地区の公園として整備されていて一番遺構が見やすい城≫とのこと。

ワタシの長女は爺様に連れられて行ったことがあるのに…ワタシは初見参!という場所です  

一人で行くにはなんとも心もとないので、親せきの叔父さん(長女からみて(笑))に案内を乞う。(無理言ってすみませんでした)
国道368号線山出の信号から県道687号線を5分ほど走ると右側に小さな石碑 
車で走っていたら見落としてしまう、というか多分見えない
ワタシは車を親せきの家に止めて、歩いて行ったので見落とすことなく行けましたが…
上出小場(かみでこば・予野地区の中のこの在所の名前)の住民たちが作ってくれた道案内の道標、2代目だそうです。

順に案内があります
   
一株の紫陽花にホッとします、まだこの先階段があるので…
  
小場の人たちが“出合い”(奉仕作業などをする機会)で作り直してくれた階段を上ったら、1代目の道標見っけ

ここでも、自治協議会の説明版があります、そして見渡すと(野外ですけど)お部屋のようにもみえる…
整備されているということですね、年に2回は草刈りなどしてくれているそうなので
 

さて、恒例の案内板とクイズ
  

答:

クイズを解いて、振り返ってそのまま行くと
 
「服部半蔵 藤堂采女誕生の碑」
その奥に、藪(ひょっとして土塁?)を背にして


    
「天正伊賀乱横死者慰霊塔」(左)
    「藤堂采女供養塔」(真ん中)
    「服部半蔵故郷塔」(右)

資料によると、
≪南を除く三方に土塁が築かれ、更に北側の丘陵を堀切で切り離した縄張りとなっている。≫と書かれています。
ここは「砦」ではなく、やっぱり「お城」。
この時代、地方の土豪は、みな小さいながらも「城」(=一国一城の主だったわけです)を構えていたようです。
伊賀地方ではこの時代の城のことを「中世城館」とよび、研究書も出ています。
(あのブラタモリにも出演され「柏原城址」の説明をされていた福井健二氏が著者になります)
参考に「花垣地区の城」。


ちょっと長くなりますが、
【伊賀流忍者の里】とはなんぞや? 興味のある方はどうぞ
≪大和国と接する伊賀国は、古代より東大寺を中心とする南都の有力寺院の荘園が多く、中世に入ってからも、
有力な守護や地頭に支配されることがなく、また他地域のように強大な武家が勢力を伸長することもなかった。
このため、多数の土豪や地侍の群雄割拠状態にあった。
その頃彼らは、敵から自らを守るため独自の諜報術やゲリラ的な武闘術を編み出し、
それが伊賀流忍術、忍者の始まりと考えられる。

そして伊賀国には千賀地(旧姓・服部)宗家百地家藤林家上忍三家を中心とした、
伊賀惣国一揆と呼ばれる自治共同体が形成されていった。
ところが戦国時代になると、そんな伊賀惣国一揆も時代の波に洗われていく。
元々耕作地が狭いうえに忍家の組織の肥大化により財政的に逼迫したことで、
宗家の保長が室町幕府十二代将軍・足利義晴に出仕し伊賀を離れた(なお、この保長が初代服部半蔵で、
後に徳川家康の祖父・松平清康に仕え、その家督を継いだ次男・正成が家康の神君伊賀越え※で功をなし、
徳川家の隠密頭まで務めた二代目服部半蔵である
)。
そして伊賀惣国一揆を壊滅に追いやったのが、織田信長による二度にわたる伊賀攻め(天正伊賀の乱)であった。
(※伊賀越えのルートには諸説あり)
やがて時代が徳川の世へと移ると、生き延びた伊賀者は、神君伊賀越えの功績から伊賀組同心として
幕府に召し抱えられることとなる。
ちなみに、家康の命で伊賀に入った藤堂高虎は、
伊賀に残った忍家・忍者の勢力を巧みに温存する政策をとっている。
その一つが無足人制度(農兵)といわれるもので、彼らは俸禄を受けないが、帯刀が許される無足人として
武士と農民の間に位置づけた

そしてもう一つが、
伊賀国の執政を司る城代家老に、初代服部半蔵・保長の孫と伝えられる保田采女(改姓後は藤堂采女)を起用したことである。
築城技術ばかりが賞賛される高虎であるが、政治家としても超一流だったのである。≫(M-NETWORKより

また、こんな簡単な説明もあります~~
≪城跡には、服部半蔵の故郷塔がある。
服部半蔵正成は、本能寺の変の折、堺から三河へ逃げ戻る家康の「伊賀越」を助け、
江戸城(現在の皇居)にある半蔵門の名前の由来ともなった。
また、藤子不二雄Aの「忍者ハットリくん」の主人公、ハットリカンゾウは、
この服部半蔵の子孫という設定でもある。≫



案内板などができたおかげで、いろんな人たちが訪れてくれるようになった…のですが、
「訪問者の中には、マナーがね、、、」と思わずにはいられないような状況もあるそうです。 
この城址の周りはのどかな田園風景です。今は、紫陽花に目が喜んでいます。
   

あぁ、ワタシも気を付けないといけません、「来てやってる!」んじゃないですからね、
お邪魔させていただきます、失礼します、そして感謝の気持ちは忘れてはいけませんよね。

最後に、「比自山城」で伊賀の盆地が焼き尽くされたのを見て、忍者たちが逃げた先は「赤目柏原」辺りとか、、、
 千賀地城址の山道


現代の地図ですが確かにほぼ一直線で峠に沿って「予野・千賀地城」から「名張・柏原城」まで行けます・・・凄っ!!

さぁ、まだ行くよ・・・運命の出会い、なるか!

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忍者回廊巡り 真っ最中! その7 西蓮寺・岡八幡宮

2020-07-01 09:49:52 | 伊賀忍者回廊巡り
「忍者回廊巡り」も中断してしまいました、あまりにもいいものばっかり見せていただいていたので
「式部塚」の怖い話は終わりまして、6/22の続き午後の部、スタート!(まだ、半日しか経っていなかったのね
ワタシの住居から西に向かって歩いて行けなくもない、程よい所にあります。(小学校低・中学年の遠足で行くかもしれない距離感です)
歴史的には由緒あるお寺になります。

~西の高台から見えた戦い~

西蓮寺
≪天台真盛宗寺院。真盛上人遷化の寺院。天正伊賀の乱で亡くなった豪族を鎮魂する記念碑がある。城代家老藤堂采女の墓所≫
 桜の季節(2020/4/1)の西蓮寺

「天台真盛宗別格本山・西蓮寺」は、歴史的遺産がいっぱいなので是非直接行かれることを
※総本山・大津坂本「西教寺」そのものはあまりにも有名だし、今は「光秀大博覧会」も開催中だし、これも気になるところ(笑)。

 
本堂と真盛上人本廟

 
上野城城代家老藤堂采女家代々の墓所

回廊巡りでいただいたパンフレット
  

山の斜面にお寺が建てられており、上に向かって墓地があり、その一番上からは田園と上野の街並みが一望できます。
季節は違いますが、こんな風に…  

西蓮寺の近く(同じ山を共有している感じ)に「ふるさと芭蕉の森」という公園があります。
ここにある案内板から読み解くに、この西蓮寺辺りの高台(=比自山城跡)が「天正伊賀の乱」では激戦地であったという厳しい歴史が垣間見えます。
  

ここで、クイズ
 
答:

※昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて、「ふるさと創生事業」という摩訶不思議な計画が実行されていました。
「お国」から1億円いただき、特色を生かした地域づくりを行うという政府御墨付でできた公園です…

さて、ここから車で10分ほどのところに次なる目的地があります。
~伊賀で源頼朝公の直命の神社?~

白樫地区にある【岡八幡宮】です。
  

鶴岡八幡宮末社。徳川家康が伊賀越えの際、伊賀忍者に助けられたお礼に寄進した三河岡崎石の狛犬がある。
宝蔵院流槍術祖高田又兵衛修行の地。≫

≪源頼朝公の直命で鎌倉の鶴が岡八幡宮の末社を全国に配置する計画の第一号として、白樫に完成されたもので、
当時の伊賀のワクを越えた、日本的発想によって建設されたものなのです。
費用も全額、鎌倉殿(頼朝公)の負担でした。≫

≪伊賀の観光名所の大穴場として、ぜひ、皆さんに一見と拝礼をお勧めしたい神社です。≫と、歴史作家・奥瀬平七郎(元上野市長・故人)氏が申されております。僭越ながらワタシも同感です…

  
大杉の根元にも小さな鳥居

 「御神馬」

 「御神鶏」

  「山の神」あれば

 「水神」も…

   「一位樫」(いちいがし)

 
槍術の名人高田又兵衛石碑

他にも見どころはいっぱいありますが、ここで紹介してもなんなんで(笑)、地図を参考にしていただいて是非、、、


最後はやっぱりこの季節の花で締めくくりますね~~ 広い駐車場の周り(山裾)に咲いてます。
   
花を見ると安心します

辨天池には「蓮」、もうすぐ楽しめますよ。


では、



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