仕切り直し投稿… 時系列的には
1/21の日付で UPするつもりだったもの、
狐につままれたような私的アクシデントに見舞われ、せっかくの原稿が消失!
そのリベンジ原稿です…
(2021/1/17訪問)
大和街道・上柘植宿、
街道を歩いていて、このまま真っ直ぐ行けるのか?
と思いきや鉤の手に曲がる…
軍事上の事か、景観上のことかワタシには知る由もありませんが、
これは、町並みを考える方々の意見に任せるといたします。
「倭姫命」の時代から思いを馳せると、(神仏一体でいいのかどうかは別にして)
歴史の大きな流れに組み込まれていたのが「柘植」という地域なのかもしれない…
「元伊勢」巡りの関連で『敢都美恵宮(都美恵神社)』・『史蹟・雨龍神社跡』を訪問し、
改めて今度は
『家康公』絡みで柘植地区をお邪魔することにしました。
前日のgoogle map予習では、このお寺から「不動明王」(裏山伝いで)→「秋葉社」→
大和街道を戻る計画です。
(山中を歩く=家康公に迫れるか!という実体験をしたかった(笑))
事前にちょっとおさらいをしました。
徳永寺駐車場から
ええもん探し隊見聞録より(2005/12/1読売記事)
≪天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れた直後、
泉州堺に滞在していた家康は、伊賀者の案内でわずかな供侍と三河に難を逃れるが、
その道筋でこの寺に立ち寄りもてなしを受けたと(1泊したとか休憩であったとか、諸説いろいろ)。
この時の「おもてなし」を大層喜んだ家康は、そのお礼に領地を与え、
「葵の紋」の使用を許したといわれています。
藤堂藩下となって後、一旦家康から与えられた領地を返上したが、
改めて代々の藩主から永代寄進するとの書状は、幕末まで続いたとされており、
初代高虎から十一代高猷までの(八代を除く)各藩主の寄進状10枚が現存しています。≫とのこと。
大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ大詰め、
「本能寺の変」はもうすぐ、その後の家康のことはこのドラマでは表現されないけど、
「神君伊賀越え」ルートが諸説あることは知っています。
「伊賀コース」であれば、まさにこのお寺の裏山辺りなのかしら…と好奇心が芽生ます。
前段が長くなってしまいました、
徳永寺の駐車場は山門の左右にあります。
【
平庸山 無量寿院 徳永寺】(へいようざん むりょうじゅいん とくえいじ)
(
「忍びの里」案内板があるので、伊賀忍者回廊巡りのカテゴリーに入れました。)
「忍びの里」案内板、クイズもあります
山門、白壁にご紋…
(憧れの?)「葵紋」
徳川家とのご縁を感じますね、本堂の軒「三つ葉葵」。
本堂の脇にはデッカイ鬼瓦
「立ち葵」
立派な「梵鐘・鐘楼」、横には「ロウバイ」とても綺麗です。今が見頃かな…
(「ロウバイ」は再掲になります)
これが「石造宝篋印塔」(ホウキョウイントウ)
南北朝時代後期の作とか、霊山を望むように立っています。
憧れの霊山
(一度登りましたが、山を見ているともう一度挑戦してもいいかなぁって…
多分、頂上からの見方が変わるかもしれない。)
一巡りさせていただき、できることなら「ご朱印」をいただけないかと、
寺務所に当たる玄関へ、先ず目に入ったのが
「この寒い冬に牡丹って咲くんですね」と、いきなり「花」の話題から。
「そう、『寒牡丹』です」…
ここで応対していただいた方・・・
「どこかでお目にかかってますか? 表札のお名前はずっと変わらず?」
「ひょっとして、高校で一緒だった? 同級生!?」ってな話になっちゃって、
いっぺんにくだけちゃいました、こうなったら高校生の頃の会話になっちゃいます(笑)。
卒業以来の出会いにお互いびっくりしながらも、
ちゃんと「御朱印」はいただき、ついでに
「この近くに『不動明王』があって、大きな椎の木があると聞いてるけど…どう行けばいい?」
「お墓をずっと進んだら階段があるから、そこから登れるよ」とのことで、お互い完全タメ口ですね(笑)。
家康公が霞んでいく
では、イレギュラー道ではありますが「柘植成田山の不動明王」へ~~
山歩き決行!