純粋カラッポ批判-04
「子宮」
包まれて生まれてくることの不思議さに胎児は気づかず運に任せているけれどもその包み込んでいる子宮の神秘は今もって説明しがたい謎に包まれている。依ってカラッポの子宮の組織体に必然の命が宿り生命の細胞が宿り一個の胎児が宿りやがて包まれた状態で優しく見守られて旅立つことの過程において誕生の驚きを隠せなかった。こうした包まれた領域は安住の場となって日夜連綿と語りつがれて胎児が乳幼児になり育っていく姿に感謝したのである。だから子宮のことを<子袋>とか<子壺>とかといって大切にするのだった。
「家屋」
包まれたところで生まれ育っていく道程において無視できないものが雨露をしのぐ屋根の存在であり昔から破れ畳に欠け茶碗を加えて竹の柱に藁の屋根はどうしても必要条件になっていた。安心して暮らせる空間が住まいの礼儀になってそのための大工仕事は重宝されて火事場の期待の星になる。そもそも日本の生活空間はカラッポの風習であって必要に応じて座敷や調度や間仕切などをあつらって造作してそれを<室礼(しつらい)>という間合いの文化にしたのである。代々続くような古民家には当時の趣きの風情が垣間見られる。
(民家は生きてきた:伊藤ていじ著)

「骨壺」
包まれて生きて死すときに残すものといえば一握りの灰になった遺骨とそれを入れるための骨壺のほかに形見になるような残像はなかった。近ごろは墓を無くして骨壺すらも無くしてまるで身も蓋もないコトガラが起きて世の末の不安におののくものの核家族の顛末では当たり前になりつつある。つまりは骨壺を納骨する場所が無くなった場合のことに傾注すれば所詮カラッポのところから生まれてカラッポのまま死んでいくには<墓なし(儚なし)>も理屈が通る。あの世に逝ってまで粉骨砕身になって頑張る必要はないのである。
(シ宮の図)

(骨ツボの図)

追記:以前、間合いの文化について掲載した。参考にしてください。







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