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悦山人の“モノ”がたり

人間として生まれてきた限りにおいて、その目的、意味、価値、そして生死去来、これらと向かい合う悦山人の小説を紹介します

純粋ガラクタ批判-g

2024-12-31 | 日記

 

 

純粋ガラクタ批判-g

 

 

「初恋」

年老いてきて老後の余白と余韻の中で夢になって現れるものに初恋の面影があってその面影から微かに漏れてくる後ろ姿は氷のように冷えたままで動かなかった。動かないというよりもあのときの胸の高鳴りにとてつもなく熱い気持ちが重なって恋らしきものに気づいた瞬間のどうしようもない顔立ちは止まった状態になる。それは時間の流れが過ぎ去っても空間の趣きが変わり去っても一枚の絵ハガキのごとくアルバムの奥で眠っているのだった。依って初恋というものは説明すればするほど言い訳めいた虚像になるから沈黙に限る。

 

「愛する意味」

すでに愛というものはどのような言語表現でも行動表現でも成り立たず畢竟こちら側の己をなくしてあちら側の対象にのめり込むことが起きて触れて感じて導出するものである。あるいは当来の己の代わりに遺伝子の仕組まれた働きによって愛という現象を起こして男(Y染色体)と女(X染色体)が融合したがるような子孫形成の罠にうまく乗せられてしまった。だからその場合にもし遺伝子の不具合が起きてしまったならば愛の方向性もそれぞれ異なり一定の方程式もなくなってつねに愛はアナーキズムの彼方に向かって走り続ける。

 

(利己的な遺伝子:リチャード・ドーキンス著)

 

 

「失恋」

要するに<利己的な遺伝子>の企みと報いは失恋という憂いの満つる出来事にも影響を与えて見失っていた自我に目覚めるのでる。失恋は人生の失敗でも失速でも失敬でもなくて新しい自己概念を取り戻すチャンスであってそこに本来無一物の境地が宿ってくる。もともと無のところに有(恋)が生まれて有(恋)は消えても無になるだけの話で無の中の無を道連れに歩くことだった。恋愛に関するストーリーは山ほど存在するもののその結果でドラマチックな悲劇のほうに心が傾くとすれば哀しい感涙によって自我を洗い直すのである。

 

追記:以前、自我とその流れに関するものを掲載した。参考にしてください。

キャンチレバーの想い - 悦山人の“モノ”がたり

 

 


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