現代思想の中心の一つである「ケアリング」。もともとは看護や介護の世界の言葉だったが、現在は、広く人間社会全般に使われている概念になっている。「ケアの哲学」の大元は、ドイツの現象学、実存哲学にあるが、それらとアメリカのプラグマティズムが融合したのが、現在のケアリング論だと思われる。ドイツの哲学とアメリカの哲学の融合形が、ケアリングという思想だ。
ケアリングの出発点に挙げられるのが、ミルトン・メイヤロフである。彼は、ケアという概念を一躍思想の土壌にのせた当の本人だ。
メイヤロフのケア論の特徴は、表題に挙げた「・・・ケアは、ひとつの過程(prosess)であり、・・・成長するもの(development?にかけている。英文にはない。)である」、という独特な言い回しに見出すことができる(p.14)。ケアは、それ自体が運動であり、生成(emerge)であり、変化であり、時間的な概念である。
何がいいたいのか。そこには、ケアを技術化して、時間軸を排除しようとする論理への抵抗がある。「介護技術」という言葉があるが、これはケアの技術化の一つの現われといえるだろう。もちろん「介護技術」それ自体は、ケアをする人にとって、ケアする人の身体をいたわるという意味で、非常に重要なものではある。が、それがケアの本質ではない。技術化への批判は、ケアリングの一つの大きな柱であると考えたいところである。技術化の論理は、あらゆるところで働いている。あらゆる文化が技術化の道をたどる。技術化の誘惑に人間はなかなか打ち克つことができない。また、技術化を誘惑する思考そのものをも批判の対象としている。技術化は、「いつでもどこでも誰にでも」という目的をもっている。技術化によって、ケアは、「誰でもできるもの」になってしまい、人間の生の交流を奪う結果を導くことになる。
だが、ケアを「主観的価値」に置くことも、彼は許さない。ケアは、「それだけで切り離された感情」でも、「単にある人をケアしたいという事実」でもない、とメイヤロフは語る(p.14)。ケアを学ぶ時、人はとかく「精神論」で語ってしまう傾向が強い。ケアリングは、倫理学に深く根を下しているが、一つの道徳的価値をおしつけるものではない。むしろ、その固定された一つの価値を排除しようとする学問的運動なのである。ケアリングは、「思いやりの大切さ」や「他者を愛する意識」が重要だとは言わない。ケアは、そういう主観性の彼方にあるものであり、主観性によってケアをねじ曲げては
メイヤロフは、「ケアリング」という本の冒頭で、ケアの「一般的・共通のパターン」を示す、と何度も繰り返して述べている。ケアを、ケアする人やケアされる人の主観に還元するのではなく、ケアそれ自体を語ろうとする姿勢は、哲学的な態度としては、賢明である。ケアという現象において、いったいそこで何が起こり、何が生じ、何が生まれているのか。この点を論及することが、ケアリングの一つの大きな仕事である、と言っても過言ではない。