保育士になりたい人のイマドキ事情
90年代、心理学ブームが到来したとき、多くの若者が心理学を学びたいと思い、各地の心理学科に学生が集まった。けれど、「出口」、つまり就職の面での問題があり、若者たちの関心から外れていった。この頃、心理学を学びたいと思った若者たちは、人の心を理解したいから心理学を学ぼうと思ったのではなく、自分の気持ちが分かってもらいたくて心理学を学ぼうとしていた。各地の心理学科には、精神的にもろく弱い若者がたくさん集まっていた(と、僕は思っている。その渦中にいた学生として)。
現在、保育学が人気である。保育士は、心理士に比べて、出口問題がなく、就職に強いということで、薬剤師と並んで、若い女性の憧れの職業となっており、その資格を得るために、大学・短大で保育学を学びたいと思う学生は多い。だが、上の心理学と同じ状況にあるようにも思う。つまり、子どものケアをし、子どものことを理解したいと思うよりはむしろ、かつて自分を育ててくれた保育者を想起し、その想起された保育者にケアされたことや、理解されたことを思い出し、自分がケアされたい、自分が理解されたい、自分が保育されたい、(ないしは、保育されていた記憶を辿りながら、大切にされていた自分を思い描きながら)大切にされたい、という気持ちから、保育者を目指しているようにみえる(その渦中にいる人間として)。
心理学にしても、保育学にしても、相手を理解したいという気持ちではなく、自分を理解してもらいたいという気持ちでは、学ぶことはできない。どちらも、「他者を理解する」ということが、その前提となっているからだ。保育者を目指す前に、一度自問してほしい。「はたして私は、他者を理解したいのか。それとも、自分を理解してもらいたいのか」、と。それで、他者を理解したいと思えば、保育者になるべきだろう。だが、自分を理解してもらいたいなら、この道に来るべきではないだろう。子どもは、理解されたがっているのだ。子どもに理解してもらおうと思ってはならない(分かってくれる子どももたくさんいるけど、それを期待する保育者は、甘ったれ以外の何ものでもない)
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