最近、痛烈に思うことは、
「親が親である」ことの自明性が失われている、ということだ。
子どもは親の所有物ではない。
親だけが子の責任を負うものでもない。
子どもにとっても、親だけが無条件の愛の対象でもない。
だが、どうも、日本人はそこから抜け出せないでいるように思う。
たびたび繰り返される「基本的な教育は家庭で」という発言も、
家族や家庭を聖域とみなす古来の思想に基づいていると思う。
でも、現代社会においては、もはや家族は解体寸前だ。
家族だけが「家庭のメンバー」と捉えることに限界がきているように思う。
親の育児ノイローゼや子育て不安をみても、そういえるだろう。
親だけが親ではない、ということは、
親でない者が親でないということでもない、ということだ。
定式化すれば、「Not 親 is not not 親」ということになろうか。
「親でないことが、親でないということではない」と訳したい。
これまで虐待の言説をみていると、
「どんなに虐待をうけていても、子どもは親を求めている」、
というものが多かった。
でも、そうなんだろうか?
もちろんそういう子どももいる。
けれど、もはや親を親と思っていない子どももいる。
それも事実だ。
今、放送されている「MOTHER」も、そういう話だったと思う。
20世紀は、「親は親。親でないものは親でない」という思想をもっていた。
けれど、21世紀は、「親が親ではなく、親でないものが親でないこともない」
という思想をもちつつあるように思う。
究極的には、精子と卵子は実親から作られたものであるが、
それが世の中に現れたときから、すでに親とは別の存在なのではないか。
当然、産んだ責任は親にあるので、
親が責任をもって育てなければならないが、
すべての責任を親に任せるのは、酷であろう。
これからの時代にとって、子どもは誰のものなのか、
誰の手で育てられるべきなのか、
その「誰か」は、誰かによって規定されるようなものなのか。
「親」が誰なのか。遂にそこまで揺らぎ出しているようにも思う。