世川行介放浪日記

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転載  母の教え

2018年01月30日 19時10分51秒 | 自選 父と子


     母の教え



 前にも一度書いたことがあるが、

 こんなならず者の僕にも、
 僕をこの世に産み落としてくれた母親が一人だけいて、
 20年間ほど会わせてもらうことなく、一昨年に死んだ。


 認知症が進んで、もう誰が誰だかの判別もできないくらいの重症で死期を迎えた時、
「死ぬ前に一度くらいなら会わせてやる。」
 などと、
 人の世の人情や愛情や常識も持たない血族から通知が二度ほどあって、
 僕は、こういう人非人は大嫌いだから、
 通知には沈黙だけを返して、
 次姉と二人、母の死を遠くから見送った。


 僕は、父母とは、20年前に、この世での別れは済ませたので、
 それでいいと思っている。


 父母の僕への願いは、
「解体した一族の最後の跡取りとして、
 誇らしい終わり方をして見せてくれ。」
 というものであったから、
 その父母の期待に添うように生きて来た。 

「放浪者が誇れる生き方かよ。」と嗤う声が聞こえないでもないが、
 そんな嗤い声は、僕にはどうでもいいことだ。
 あれから23年間、
 誰に何と言われようとも、
 田舎の大家族の一族最後の跡取りにふさわしく、
 <精神の貴族>を誇って生きて来た。


 僕の死んだ母親は、教員上がりの女で、
 島根県の浜田市にあった女子師範学校(現在の島根大学教育学部)を出て教員になっていたのを、
 共稼ぎを嫌う父親の要請で、結婚と同時に職を辞し、家庭に入った。


 母親は、僕のことを大好きだった。
 僕も母親が大好きだった。
 母親のためだけに、田舎の特定郵便局要職に就くことを承諾した。
 父母が喧嘩をすると、父親が、
「お前の亭主は誰だ。息子か!」
 と怒鳴り、
 僕と別れた細君が喧嘩をすると、
「あなたの奥さんは、私なの?お母さんなの?!」

 母と二人でよく笑ったものだ。


 僕は、死んだ父親から、実に多くのことを教わり、
 ある時期まで、それを純粋培養的に吸収して生きてきたが、
 母親からもいくつか教わった。


 昨夜、
 酔った「大邱」の妹ママのあれこれの言葉を聞いていて、
 妹ママの口から、盛んに、「感謝」という言葉が出てくるのを耳にして、
 死んだ母親の教えを思い出した。


 子供の頃から、そして特定郵便局長に就任して家に帰ってからも、
 母親は僕に言い続けた。


「人さまに感謝して、へりくだって生きなさいよ。
 人さまに感謝しないようになったら、人間はお仕舞いだからね。
 よく、
 「何かお手伝いしましょうか。」って言う人がいるでしょう?
 そう言っている人たちは、自分ではへりくだって言っているつもりだけど、
 あれは嘘だからね。
 私は、必ず、
「済みませんけど、
 私にも、何かお手伝いできることがあったら、お手伝いさせていただけませんか?」
 そう言うんだよ。
 お前も、
 腰を低くして、へりくだって生きていくんだよ。」


 昨夜、
 「大邱」の妹ママの口から、さかんに、「感謝」という言葉が出てくるのを聴いていて、
 死んだ母親の言葉を実践している人間がそこにいるような気がして、
「この子は誠実でいい子だな。」
 感心しながら酒を酌み交わした。


 10年ほど前に、
 『本能寺奇伝』を書こうと思い立った時、
 明智光秀と織田信長の海外交易の拠点港を、
 どうしても、島根の浜田港にしてやりたかった。
 それが、浜田の女子師範学校を出た母親に対する恩返しになる、と思ったからだ。


 自分では、
 愛情籠めて書いた、と思っている。






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