世川行介放浪日記

日々の雑感。
昔話。
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漫談。
たまに女篇。
2年に1度は愛欲篇

太宰治『桜桃』

2018年05月05日 13時28分17秒 | 太宰治雑感


    太宰治『桜桃』




 たて続けで恐縮だが、
 また、太宰治について書く。


 手元に本を持っていないので正確なことは書けない、
 と思っていたけれど
 「青空文庫」というやつの存在に気づいた。
「あそこになら、『桜桃』が収録されているかもしれないぞ。」
 ということで、探したら、
 あった。


    子供より親が大事、と思いたい。


 太宰治の遺作『桜桃』は、そういう一行から始まる。


 この一行は、或る時期の僕を支えた。


 旧郵政省の小役人たちの「世川を郵政業界から追放しろ。」に真っ向から立ち向かっている最中、
 或る講演企画について、吉本隆明から怒鳴られた時、
 僕は、自分の人生が終わったかと絶望した。


 その人の書だけを読み続けたその相手から、
「お前は、何を大きな事を考えているんだ。
 お前のやってることは、小沢一郎と一緒じゃないか。
 人は、小さなことを積み重ねていくんだ。
 小さなことをコツコツと積み上げて、それでやっと大きな事が出来るんだ。
 もう一度出直して来い!」
 そう怒鳴られた。


「もう、俺は、知に拠って立つ人間としては生きていけないな。」
 そう思った。


 その時、僕のとるべき道は二つあった。
 それまでの文学への夢を全部棄てて、家庭人として、黙して、市井に生きていくか、
 もう一度ゼロからの再生の道を探すか。
「どちらを選択しようか…、」
 迷った。


 その時に、
 太宰の、
「子供より親が大事、と思いたい。」
 の一行がよみがえって来た。


「子供たちも、いつかは僕と同じ歳になる、
 その歳になったら、今の僕の気持ちもわかるかもしれない。
 これから後を、死にながら生きることは、僕には耐えがたい。
 子供よりも自分を取ろう。」
 そう決めて、
 僕は、家庭を棄てた。

 
   桜桃が出た。
   私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。
   子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。
   食べさせたら、よろこぶだろう。
   父が持って帰ったら、よろこぶだろう。
   蔓(つる)を糸でつないで、首にかけると、
   桜桃は、珊瑚(さんご)の首飾りのように見えるだろう。
   しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、
   極めてまずそうに食べては種を吐(は)き、
   食べては種を吐き、食べては種を吐き、
   そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、
   子供よりも親が大事。


 吉本隆明の<知の想像力>も届かない、<この世で一番卑小な場所>に行こう。
 そこで、
 僕は、もう、43歳ではあるが、
 そこから、もう一度、自分の<知>を構築し直そう。

 熱い気持ちでそう念じながら、
 僕は、新宿歌舞伎町の韓国エリアで、
 文学どころか、日本語さえろくすっぽできない出稼ぎ韓国女たちと、
 毎夜、大酒を呑み、女たちの嘘半分の話に耳を傾け、
 明け方が来ると、ヨロヨロの酔っぱらいをやりながら、
「<知を跳ね返す岩盤>の本質は何なのだろう?
 そこで、<知>はどうあるべきなのか?」
 それを考え続けて、6年を過ごした。


 そうした日々に、僕を支えてくれたのが、
 太宰のあの一行であったことだけは間違いがない。
 あの一行が無かったら、
 僕は、とうの昔に、文学への夢を捨てて、
 どこかの女との生活に甘んじていただろう。


 日暮れて途遠し。


 僕は、いま、65歳で、
 それまで縁もゆかりもなかった彦根という小都市に仮の住居を置いて、
 相変わらずぐうたらで放埓な日々を送っているのだが、
 考えてみたら、
 この20余年間、
 迂遠な道ばかりを歩いて来たな。





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太宰治『父』雑感  

2018年05月05日 11時32分20秒 | 太宰治雑感


    太宰治『父』雑感




 太宰治の『父』という掌編には、 こんな数行がある。


    炉辺の幸福。
    どうして私には、それが出来ないのだろう。
    とても、いたたまらない気がするのである。
    炉辺が、こわくてならぬのである。


 同じ「いたたまれない気がする」でも、
 所帯持ちの太宰治は、
 その理由を、「こわい」からだ、と書くが、
 <悲しくない孤独>を自分のものにしてしまった僕の場合は、
 「こわい」のではなく、
 炉辺は、煩わしい。
 そういう場所に自分が座っていること自体が、自分に一番似つかわしくない、
 と思う心が強い。


    二日も三日も帰らない事がある。
    父はどこかで、義のために遊んでいる。
    地獄の思いで遊んでいる。
    いのちを賭(か)けて遊んでいる

       (中略)

    ついさっき私は、「義のために」遊ぶ、と書いた。
    義? たわけた事を言ってはいけない。
    お前は、生きている資格も無い放埓病の重患者に
    過ぎないではないか。
    それをまあ、義、だなんて。
    ぬすびとたけだけしいとは、この事だ。
    それは、たしかに、盗人の三分の理にも似ているが、
    しかし、私の胸の奥の白絹に、
    何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。
    その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない


 こう書く時の太宰治を、僕は、好きだ。
 自虐と誇りとの間で、
 照れながら宣言する太宰の控えめな<熱>が、好きだ。


 太宰治の文学については、奥野健男と吉本隆明が、
 それ以上のものは不要なほどに、丁寧な太宰論を書いているので、
 阿呆な僕などがつけ加えることは何もない。
 二人の太宰論を読んだら、太宰治の大方はわかる。
 僕たちは、それを心の底に敷きながら、
 太宰の作品群を、ただ素直に味わいさえすればいいのだ。


 この20余年間の僕は、太宰のように立派な「義」や苦悩を朋(とも)にした放埓を生きては来なかったので、
 この歳になって、
 「義」を意識し過ぎる太宰治を読み返すと、
 少し痛々しさを感じる。


   たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上って、
   そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、
   何やらこまかく、ほそく、
   墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、
   そんな工合いの、幽(かす)かな、くすぐったい文字。
   その文字が、全部判読できたならば、
   私の立場の「義」の意味も、
   明白に皆に説明できるような気がするのだけれども、
   それがなかなか、ややこしく、
   むずかしいのである。


 最後の、「それがなかなか、ややこしく、むずかしいのである。」の一行は、
 いかにも名文家太宰治らしくて、
 僕などには、心に沁みる。


 優れた文学者がいつもそうであるように、
 太宰治もまた、
 若い日から自殺するまで、
 戦時中のある一時期を除いて、
 いつも、<何か>と格闘し続けた作家だった。
 そして、
 その戦いは、
 僕の眼には、
 いつも「敗け戦さ」を宿命づけられ格闘であったように、見える。
 太宰文学のある種の痛々しさは、
 その「敗け戦さ」を、敗けることを承知で挑んだ人間のかもし出す痛々しさのような気がする。


 それでいいのだ。


 この歳になって、やっとわかって来たが、
 山本周五郎の言葉を借りるなら、
 人は、何をしたか、ではなく、
 何をしようとして、戦い生き抜いて来たか、が大切で、
 太宰治は、
 彼にとっては「得体のしれない生き物の巣窟である人間社会」において、
 女に裏切られ、薬におぼれ、酒におぼれ、
 苦悩におぼれて、
 それでも知的格闘をやめることをせず、
 その功績によって、
 本当は、彼には一番似つかわしくないが、
 しかし、或る意味、最大の勲章である、
 「無頼派」
 という称号を与えられて、
 玉川に身を投じた。


 平成も30年が過ぎたが、
 苦悩に七転八倒している作家を、
 とうとう、見ることなく終わった。


 「苦悩のいらない文学」の時代になったのだろう。






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太宰治『家庭の幸福』

2018年05月04日 15時29分03秒 | 太宰治雑感


    太宰治『家庭の幸福』




 太宰治の最晩年の作品に、
 『家庭の幸福』、『桜桃』、『父』という掌編があって、
 僕は結構好きだった。


 『家庭の幸福』という作品には、


     家庭の幸福は諸悪の本。


 という一行が書かれていて、
 それなりに「良き家庭人」をやっていた時期にも、
「これ、わかるなあ。」
 と思った。


 当時、吉本隆明が、何かの文章の中で、
「家庭は確かに<桎梏(しっこく)>ではあるが、
 そこには本質的な課題が存在しているわけだから、
 そこを潜り抜けるべきだ。
 自分は、妻を持ち、子を持ち、家庭を続ける生活を選んだ。」
 といった趣旨のことを書いていて、
 それは、たしかに、まっとうな意見だったから、
 「まっとうさ」に劣等感を抱いていた若い僕は、
 それに足を掬われていて、
 太宰のように、「言い切る」ことが出来なかった。
 それがあって、
 かなり心の無理をしながら、
 「良き(?)家庭人」を、15年間ほど、やった。


 人という生き物は、
 最後には、願った場所に行きたがるわがままな存在なのだろう。
 元々、しち面倒くさい「生活の形式尊重」が嫌いだったし、
 文学のことだけを考えて生きたかったし、
 一人の女に羽交い絞めされるのが嫌だったし、
 だから、
 一番厄介な女ヘンの狂いをきっかけに、
 とうとう、
「家庭の幸福よ。さようなら。」
 太宰が苦悩していた場所から飛び出してしまった。


 だが、
 願って行った場所なので、後悔は、まったくない。
 「諸悪の本」が断ち切られたわけだしね。


 このところ、
 「大邱(てぐ)」の妹ママが一週間ほど韓国に帰ったこともあって、
 彦根の街に、「大邱」以外に行く店を持たない僕は、
 他の店に食事に出かけるのが面倒なので、
 今日で、四日続けて、
 一日一回の食事は、
 冷凍庫に投げ込んでおいたご飯を解凍して、
 それに生卵をぶっかけ、
 過日大阪の次姉にもらった「伊豆の焼き海苔」をまぶすだけの、
 実に貧しい食事をしているが、
 侘しいとも、悲しいとも、思わない。
「この生活、いいなあ。」
 と思う。


 人さまが、よく、
「独り暮らしは味気ないでしょう。
 彼女でもつくって、所帯を持って暮らしたら?」
 と言うが、
「勘弁してくれ。
 女と一つ部屋にいるのは、一日だけでいいよ。
 三日も一緒にいると、
 気が散ってパソコンは打てないし、
 マージャンには行けなくなるし、
 好きな時間に好きなDVDを観れないし、
 窮屈さに息が詰まる。」
 本気の本気でそう答えている。


 独り暮らしは孤独で良くない。というのは、
 <自由の美味>から拒まれている家庭所有者たちが、
 太宰治の言うところの「諸悪」を、
「こいつにも共用させよう。」
 と考えて押しつけるたわ言に過ぎない。


 皆さんも、
 一度、家庭とやらを棄ててごらんなさい。
 <孤独な自由>っては、実にいいもんですよ。





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あの者たちの神

2018年05月04日 05時01分02秒 | 太宰治雑感


    あの者たちの神




 若い日から僕が永く愛読して来た書の中に、
 太宰治の『如是我聞』というのがあって、
 その短い書は、
 当時の文壇の大御所志賀直哉に、年下の太宰治が食ってかかり、
 激しい志賀直哉攻撃を書き続けた小文集だ。

 未完なのか、あれが最期のつもりだったのかは、知らないが、
 現存する最後の一文を書き終えた直後に、太宰治は、女と、玉川で入水自殺をする。


 その書の出だしに、仏文学者ヴァレリーの言葉が引用されていて、


    攻撃すべきは、あの者たちの神だ。
    敵の神をこそ撃つべきだ。
    でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。
    ひとは、自分の真の神をよく隠す。


 この言葉は、若い日、愚昧だった僕の心に、何かを教え、
 その後、
 太宰治を愛した吉本隆明の文章類を耽読するようになってから、
 吉本隆明が、太宰治の、この、「敵の神をこそ撃つべきだ。」という姿勢を生き貫いていることを知って、
 「姿勢の継承」という意味合いにおいて、
 自分もかくあらねば!と、戒め続けて来た。


 若い日、
 社会変革を希求していた僕たちの真の敵は、
 日本共産党という政党だった。
 この政党は、「自分たちの神」を隠そうと必死だったが、
 僕たちは、この政党の神が、実はソ連共産党であり、彼らがソ連の言いなりに動いていたことを知っていたし、
 彼らが、批判者や敵対者を殺そうとするとき、
 息のかかった文化人やマスコミを総動員して、悪質なデマゴギーを巻き散らかす手法を常套手段にしていることも知っていた。


 しかし、
 その真の姿は非政治的大衆には透視することが困難で、
 多くの非政治的大衆が彼らの口車に乗って、
 ソ連のための「反核運動」に熱狂したりした。


 僕が、日本共産党という政党を一番侮蔑したのは、
 それまではソ連の100%言いなりで動いていたくせに、
 東欧社会主義国家群が崩壊した途端、
 各地の街角で、
「日本共産党は、東欧の共産党は異なります。」
 と演説し始めたのを見た時だ。
「汚らしい。」と思った。


 その時、
 この政党の<神>は、ソ連共産党だと思っていたが、
 実は、
 この彼らは、
 ソ連共産党などよりももっと汚れた神を、自分たちの神に持っていたのだな、
 と知った。


 それから20数年が経ち、
 安倍政権になって、野党の力が萎えて来たら、
 日本共産党は、
 自分たちの票の価値を最大限活用させようと、
 意気消沈している小沢一郎などに接近し、
 小沢一郎も馬鹿だから、
 かつて、一大キャンペーンを張って、自民党幹事長時代の自分に極悪人のレッテルを張りつけ、そのイメージを定着させた政党と、
 嬉々として手を結び、
 「ニュートラルな保守層」の旗手であった自分の立場をあっさり捨てた。


 そして、数年前から、
 この日本共産党の指導によって、
 国会議事堂前での団塊ジジババたちの理念の盆踊りが開始され、
 シールズというおっちょこちょいの共産党チルドレンが馬鹿騒ぎをやり出し、
 それを共産党の息のかかったマスコミや文化人が絶賛し出し、評判になると、
 澤地久枝や、阿呆ババアの落合恵子、
 果ては、棺桶一歩手前の瀬戸内寂聴まで出てくる始末となった。


 僕は、この光景には、徹底して、批判を続けた。


 それから今日までの数年間、
 反自民陣営では、
 共産党の固定票の欲しい「数合わせ論者小沢一郎」を筆頭に、
 「大同団結」だとか、「野党結集」だとかといった言葉が大流行りしているが、
 しかし、 
 これは、
 太平洋戦争前後の、軍国主義国家奨励の「大政翼賛会」の野党版にすぎない。
 馬鹿と卑怯者が数の多くを占めている団塊ジジババとPTAママたちが、それに乗っかり、
 自分たちを煽っている連中の真の神を知らずに、
 体制の不正を糾弾する自分たちの主張は正義だ、という酔いの中で、
 阿呆なデモや抗議運動に向かっているにすぎない。


 そして、
 現在、「打倒!安倍政権!」に向かっているこの非政治的大衆の姿は、
 かつて、日露戦争の時に、
 旅順で多くの兵士を無駄死にさせた乃木希典を罵っておきながら、 
 旅順が陥落すると、掌を返したように、乃木神社までつくって乃木希典を神にまで昇格させた大衆心理と、
 根っこでは一緒であり、
 僕たちは、ここに、
 日本大衆とは何であるのか、
 日本大衆の<意識の神>とは何なのか、
 それらを深く考察しなくてはならないのだが、
 そういう知的努力をする人間が、なかなか出てこなくなった。
 それは
 そういう考察努力を萎えさせるほどに、今の日本が<溶解>の進度を速めている事実の裏返しでもある。


 ここに僕たちのアポリアがある。





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太宰治『人間失格』2018

2018年02月11日 19時58分42秒 | 太宰治雑感


    太宰治『人間失格』2018




 午後から比較的ゆったりとして過ごせたので、
 新潮文庫の太宰治の『人間失格』をとばし読みした。


 この文庫本は、
 何かを失い続けた放浪の20余年間、
 僕のバッグに入り続けたたった一冊の本で、
 もう、カバーの一か所は破れて切れているし、
 どのページも黄ばんで、読みづらくなっているが、
 僕には、
 僕の20余年間の放浪の実態を知っているたった一人の長年の友だ。
 という思いがあって、
 自分の過去に会いたくなった時には、
 たまに、それをめくる。


 その本を買ったのは、昭和47年で、
 おそらく、浪人の時か、大学一年生の時だと思うが、
 少年だった僕が、その頃の癖で、
 気に入ったところに朱色の傍線を施していて、
 それは、今も消えずに残っていて、
 その朱線を見ながら、
「あれから、僕は、どこまで歩いて来たのか。」
 それを確認する意味でも、
 たまに読みたくなる。


 今日読んでいたら、
 当然ながら、そうした朱線の箇所があって、
 それを見た。


    日陰者、という言葉があります。
    人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を
    指差していう言葉のようですが、
    自分は、
    自分を生まれた時からの日陰者のような気がしていて、
    世間から、あれは日陰者だと指差されている程のひとと逢うと、
    自分は、必ず、優しい心になるのです。
    そうして、その自分の「優しい心」は、
    自分でもうっとりするくらい優しい心でした。


「19歳か20歳の頃の僕は、
 太宰治のこんな個所を好きだったのだな。」
 懐かしさの中で、少し微笑んだ。

 人という生き物は、
 若い日から、あまり心の位置を変えずに生き続けるものらしい。


 この文庫本を手にするといつも、
 僕が、20余年間、手放すことなく持ち歩いた本が、
 『人間失格』というタイトルの本である事実、
 それに苦笑し、 
 やがて納得する。


 「人間」というものを、「建設的な社会生活を営もうとしている人」と定義するなら、
 確かに、
 僕は「人間失格」だ。


 異議なし!





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あの者たちの神  太宰治『如是我聞』

2017年12月21日 12時36分38秒 | 太宰治雑感
 

    あの者たちの神 太宰治『如是我聞』




     攻撃すべきはあの者たちの神だ。
     敵の神こそ撃つべきだ。
     でも、撃つには先ず、
     敵の神を発見しなければならない。
     ひとは、自分の真の神をよく隠す。


 太宰治の『如是我聞』という小文集の出だしにある、
 ヴァレリイの言葉だ。


 この『如是我聞』は、
 最晩年の太宰治が、当時文壇の権威であった志賀直哉と大戦さをやり、
 その時に書いた志賀直哉攻撃の文章で、
 これを書き終わったか、書いている途中かで、
 太宰治は、女と心中して果てる。

 志賀直哉に、
「自分が殺したみたいで後味が悪い。」
 と言わしめた文章だ。


     あの者たちの神――


 僕は、この『如是我聞』が大好きで、
 65歳の今日まで、
 オーバーではなく、何百回も読み返してきた。
 そして、ヴァレリイのこの言葉を自分の戒めとして、
 事象を見た時は、
 事象の表層ではなく、
 その後ろに存在する「あの者たちの神」を見つけよう、と努力して来た。


 それは結構大変な自己研鑽努力を必要としたが、
「それをなさずに、得々と何かを語ってはいけない。」
 自分にそう言い聞かせて、
 その人たちの神を見つける作業をしてきた。

 お陰で、
 政治現象、社会事件、株式市場、
 そうしたことについて、
 少しは人よりも「事の本質」の見える男になったような気がしている。


 ちなみに、


 無頼派と呼ばれながら、苦悩の果てに、太宰治がたどり着いた場所は、

 
      諸悪の根源は家庭の幸福


 というもので、
 この結論を、
 僕は、かなり好いて、
 今日まで生きて来た。







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転載  太宰治『如是我聞』の一節。

2017年12月05日 07時59分53秒 | 太宰治雑感
 

    太宰治『如是我聞』の一節。




 まだ40代半ばの頃。
 新宿歌舞伎町の韓国エリアに身を置きながら、
 オーバーステイの韓国女たちの真情を描いてやりたいという一心で、
 韓国女たちの海を泳ぎ回って過ごしていた。


 いろいろな女がいた。
 その女たちの話をたくさん聞いた。
 聞くと、この胸が痛んだ。
「何の理由で、
 この女たちは、こんなに苦しい生を生きなくてはならないのだろう。」
 そう思った。


 ここになんか書けない様々なことを体験しながら、
 3年半、僕はその海を必死で泳ぎ続けたが、
 その間中、お守りのように抱きしめていた言葉があった。
 太宰治の『如是我聞』の一節だ。


    私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、
    「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という
    難題一つにかかっていると言ってもいいのである。
    一言で言おう、おまえたちには、
    苦悩の能力が無いのと同じ程度に、
    愛する能力に於いても、全く欠如している。
    おまえたちは愛撫するかも知れぬが、愛さない。


 僕は、
「おまえたちは愛撫するかも知れぬが、愛さない。」と書く太宰治の人を見る角度が、大好きだった。
 自分も、太宰のこの精神を順守して、
 あの韓国女たちの悲しみや無念を、
「愛撫」するのではなく、「愛して」書きたい。
 毎日のように、強くそう思って、生きていた。


 あれから、もう、20年の歳月が流れ過ぎて、
 書く相手もいなくなったが、
 この一節に眼をやると、
 あの頃の自分を思い出す。



           (「~備忘録」から転載)




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ひをふきしやまのあと

2017年12月03日 10時27分09秒 | 太宰治雑感


    ひをふきしやまのあと




 また太宰治のことを書くと、

 若い頃、
 吉本隆明の文章に、
 学生時代に太宰治を訪ねた時に、
 自分だか学友だかが、
 太宰に、
「自分は何をやってもダメですから、」
 みたいなことを言ったら、
 太宰治に、
「君は、まだ何もやっていないじゃないか!」
 そう叱られた話が書かれていて、
 その時に引き合いに出されていたのが、


     ひややかにみづをたたへて
     かくあればひとはしらじな
     ひをふきしやまのあととも


 生田長江のうただった。
 簡単に訳すと、


     冷ややかに水をたたえて
     こんな現在の姿であるから、人は知らないだろう
     これが昔激しい火を噴いた山の跡だとは


 まあ、こんな意味だ。

 その文章を読んだ時には、僕はまだ若く、
 それほどの感慨は持たなかったが、
 60歳を超えて、
 あの暴風雨のような放浪生活が、自分の現在から無限に遠ざかっていくのを感じるようになってから、
 このうたに親しみを覚えるようになった。


 彦根に来て知り合いになった人たちは、
 誰一人、
 あの日々の僕を想像することもできない。
 この街では、僕はなかなかの紳士扱いだ。


 しかし、
 それは本来の僕ではなく、
 本来の僕は、もっと違う場所にいるのだが…、


 てなことを言っても、
 こっちも何の説明もしないのだから、
 理解しろと言う方が無理か。






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太宰治『もの思う葦』2017冬

2017年12月03日 03時00分05秒 | 太宰治雑感
 

    太宰治『もの思う葦』2017冬




 新潮社文庫の太宰治『もの思う葦』は、
 「如是我聞」や「碧眼托鉢」なども収められていて、
 僕が、暇の時に流し読みをし続けてきた愛読書だった。


 今日も、ページを開いてみたら、


         ふと思う

    なんだ、みんな同じことを言っていやがる。


 その一行が眼に入った。


 最近のネットニュースを思い出して、
 思わず笑った僕であった。


 時代が変わっても、日本人ってあんまり変わっていないんだな。








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太宰治『人間失格』  転載11

2016年05月28日 11時45分22秒 | 太宰治雑感


      太宰治『人間失格』 転載11

 

 40代半ばからの放浪生活の始まりに、
 僕は、多くのものを捨て、
 捨てがたいいくつかを、大きくはないバッグに投げ込んだ。
 しかし、
 ジェットコースターみたいな流転生活をしているうちに、
 あるものは新宿歌舞伎町に、
 またあるものは各地のネットカフェにと、
 そのほとんどを置き去りにしてしまい、
 僕の「過去」というものの証拠品は、今はこの世からそのほとんどが消えている。


 ただ、
 不思議なことに、
 たった一冊、
 太宰治の『人間失格』の文庫本だけが、
 十数年間の荒い放浪の暴風に引き離されることなく、手元に残り、
 今も、僕の部屋の本箱に、他の本に比べると古色蒼然と異質な漂いを見せながら立っている。


 59年の人生を果てに、一冊だけ残ったその本が、「人間失格」というタイトルだったというのは、
 何かを暗示しているようで、
 苦笑すること度々だ。


 僕は、少年時代から、
 自分の気に入った文章には赤い傍線を引く癖があり、
 僕の蔵書は、赤い傍線だらけなのだが、
 浪人時代に買ったその『人間失格』のどこに、18歳の若かった僕は傍線を引いたのか、
 青年期の僕は、何を思い、何に悩み、何を求めていたのか?
 そんなことを思って、さっき、ペラペラとページをめくってみた。


    侘しい。
    自分には、女の千万言の身の上噺よりも、
    その一言の呟きのほうに、共感をそそられるに
    違いないと期待していても、
    この世の中の女から、ついにいちども自分は、
    その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも
    不思議とも感じております。
    けれども、そのひとは、言葉で「侘しい」とは
    言いませんでしたが、
    無言のひどい侘しさを、からだの外郭に、
    一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、
    そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその
    気流に包まれ、
    自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と
    程よく溶け合い、
    「水底の岩に落ち着く枯葉」のように、
    わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が
    出来るのでした。


 まだ愛欲海峡などとは縁遠かった18歳の時の僕が、
 一番長い傍線を引いたのが、こういう箇所だったことに、
 今の僕は、首を傾(かし)げざるを得ないが、
 きっと、生涯僕から離れることの無い<下降志向>が引かせた傍線だったに違いない。

 僕は、太宰治の作品の全編に流れる<下降志向>が大好きだった。
 <知的上昇>と<故郷>からの乖離、という問題は、人間世界の最後の<知>の問題で、
 多くの文学者が、その課題に対して、自分なりの回答を提示してきたが、
 太宰や、小説世界の高橋和巳の下降角度は、僕には愛すべき角度だった。


 暇なので、傍線文章の全部を抜き出してみた。


    めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、
    自分の耳には、ただイヤなおどかし
    としか聞えませんでした。

    自分には、あざむき合っていながら、
    清く明るく朗らかに生きている、
    或いは生き得る自信を持っている
    みたいな人間が難解なのです。


    自分は、自分を生まれた時から日陰者
    のような気がしていて、
    世間から、あれは日陰者だと指差されて
    いる程のひとと逢うと、
    自分は、必ず、優しい心になるのです。
    そうして、その自分の「優しい心」は、
    自分でうっとりするくらい優しい心でした。
 
         
  
    ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、
    まるっきり間違ってみていながら、
    無二の親友のつもりでいて、
    一生、それに気附かず、
    相手が死ねば、泣いて弔詞なんか読んでいる
    のではないのでしょうか。


    世間というのは、君じゃないか。


    自分は、(世間とは個人じゃないか)という、
    思想めいたものを持つようになったのです。


    信頼は罪なりや。

    神に問う。信頼は罪なりや。

    果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。


    こうこは、どうこの細道じゃ?
    こうこは、どうこの細道じゃ?

    自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、
    誰にも抗議の仕様がない


 自分が赤い線を付した文章を眺めながら、
 青年期の僕は、太宰が苦悶した問いを、自分の問いとして共有しようとしていたのだな、
 と思った。


 太宰治が、他者(あるいは人間社会)との障害感に苦悶した文学者であったことは、
 吉本隆明と奥野健男のいくつかの優れた論考によって、
 今では定説になっているが、
 当時は、左翼系文学者たちによって、
 「太宰は通俗だ」という評価が喧伝されていて、
 しかも、彼の文章には、ある種の<青くささ>があったため、
「若い時に太宰治とマルクス主義にかぶれない奴は馬鹿だが、
 大人になっても太宰とマルキシズムにかぶれている奴は、もっと馬鹿だ」
 と言われていた。

 
 僕は、その、「もっと馬鹿だ」の部類に属する文学青年で、
 太宰治の言葉のいくつか、あるいは幾百かに思考を縛られて、今日まで来た。


 若い時分には、ピンとこなかったが、
 今読み返すと、
 『人間失格』のそのスタートに、


     恥の多い生涯を送ってきました。


 その最後に、


     ただ、一さいは過ぎて行きます。
      
 
 と書かずにおれなかった太宰の思いが、
 59歳の今では、理解できる。


 彼が自殺したのは、まだ39歳の時だ。
 若くきらびやかな才能を全力疾走させた彼の人生だったが、
 40歳を超えてから<文学思想的>に生きようと意志したのろまな僕には、
 生き急いだ彼の人生は、少し痛ましく思える。


 さっきまで、『人間失格』を流し読みしていて、
 若い日の僕は、傍線を引いていないが、
 今の自分なら、ここに赤い傍線を引くな。
 と思った箇所があった。


    背後の高い窓から夕焼けの空が見え、
    鴎が、
    「女」という字みたいな形で
    飛んでいました。


 太宰治にとって、<女>は自分に安堵と救済を与えてくれるべき存在であって、
 それを求め、女から裏切られ、
 作品には一切そんなことは書いていないが、
 悶死してしまいそうな<女性不信>に身を切り刻まれて過ごした。
 それは、
 つまり、
 彼にとって、<女>は、「自分のための存在」であって、
 <女>のための自分、であろうとしたことはなかった。ということだ。


 僕は、
 この数十年、
 女の肉体の意味、女の貞操の意味、バージニティの意味、
 といったことを、強く思考して生きてきたから、
 太宰治は、
 妻や愛人の不貞に身もだえしたにもかかわらず、
 また、激しい<下降志向>の持ち主であったにもかかわらず、
 実は、心の一番奥深い場所では、
 女を愛していなかったな。
 と思ってきた。
 それを考証する時間も気力もないから、僕の文章は「雑感」なのだが、
 その理解は、あまり間違っていない、と思っている。


 この種の課題は、女流作家に書かせると、
 男の懊悩を無視した阿呆な答えしか出せないから、
 文学作品としては低級なものにしかならない。
 いずれ、「恋愛の達人」みたいな有能な男性作家が書き著すのを待つしかない。


 そういう意味からは、
 中間小説の衣装を着てはいるが、
 山本周五郎の、『おさん』や『水たたき』あるいは『虚空遍歴』は、
 女性への深い愛情を持った視線で女の性に言及した作品だと、
 高く評価してきた。


 男と女の性の問題は、実に、奥が深くて難しい。 
 <女>を知るために生涯を費やす文学者は、
 上は谷崎純一郎から、下は渡辺淳一まで、
 ごまんといる。


 売れない下層作家である世川行介君は、
 最近、


    割れ鍋にとじ蓋(ぶた)。


 という言葉を愛するようになった。



       (2012年9月6日掲載文)




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太宰治のアフォリズム集 転載1

2016年05月23日 18時35分06秒 | 太宰治雑感


      太宰治のアフォリズム集



 <文学>が自分の「生きている意味」だった時期、
 あれこれ考えるのが億劫になると、
 畳に寝っ転がって、
 太宰治のアフォリズム(箴言)を流し読みに読んだものだ。


 芥川龍之介にも『侏儒の言葉』という箴言(しんげん)集があるが、 
 ちなみに、侏儒(しゅじゅ)とは、小人とか知恵の足りない人、といった意味だが、
 僕は、太宰治の箴言の方が自分の嗜好と合っていて、
 『もの思う葦』や『如是我聞』を何十度も読み返した。


   民主主義の本質は、
   それは人によっていろいろに言えるだろうが、
   私は、「人間は人間に服従しない」
   あるいは、「人間は人間を征服出来ない、
   つまり、家来にすることは出来ない」
   それが民主主義の発祥の思想だと考えている。


   芸術に於ては、親分も子分も、また友人さえ、
   無いもののように私には思われる。


   重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、
   いのちがけで事を行うは罪なりや。


   最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。


   も少し弱くなれ。文学者なら弱くなれ。柔軟に
   なれ。
   おまえの流儀以外の者を、いや、その苦しさを
   解るように努力せよ。


 こういう太宰の言葉が、僕の嗜好に合っていた。


 僕は、かなり多くの文学書を読み漁ったが、
 膨大な文学書を読んで、考えに考えた結果、
 つまるところ、
 文学とは、
 作為的にではなく、
 相手の苦悩や哀しみの傷を、「思わず優しく撫でてしまう」心に存在するのではないのか?
 と思うに至った。


 僕が、「残九郎」さんや「両国のU」さんや、「
 減量おめでとう!」の便りもくれない恨みはあるけれど、「北上の平野」さんを愛するのは、
 彼らは、
 たとえ一冊の文学書を読まないとしても、その生の根底が、僕の思い描いている文学に通じている。
 と思うからだ。
 こういう人は、そう何処にでもいるものではなく、
 よくぞ身近に3人もいたもんだ。と、感心したことがあった。


 太宰治も、山本周五郎も、吉本隆明も、江藤淳も、
 そういうことがよくわかった文学者だった。
 自意識を生きて死んだ中原中也には、それは希薄だった。


 僕の好きな山本周五郎の短編『釣忍』に、以下のような場面があって、


   「ほんとうのことは自分しかわからないって
    いうんでしょ、えらいわよ、あんたはえらい
    ことよ」
   「えらかあないさ、おれはただ傷の痛さを知っ
    ているだけだ」と定次郎は云った、「自分の
    傷が痛いから、人の傷の痛さもわかるんだ、
    それだけのこった」
     おはんは片手を畳へついて、がくっと頭を
    垂れた。


 僕には、時代小説としてかかれたこの光景が、太宰の上のアフォリズムとまったく同質同重量であるように思えた。
 片方は東大文学部卒、片方は尋常小学校卒。
 文学には学歴など何の関係もないのだな。と知らされた。


 太宰治は、それが出来なかったが、
 僕が、吉本隆明と山本周五郎と死んだ父親から徹底的に教えられたのは、
 男のやさしさは、こっそりと出すもんだ。
 ということだった。
 これは全然今風な表現姿勢ではないし、
 相手に理解されることがほとんどないけれど、
 僕は好きだった。
 蛇足として書くなら、
 ある時期の小沢一郎には、その匂いがあって、
 僕は好感を抱いた。


 この「新日記」の読者諸氏は、
 文学よりも政治に関心の強い人が多いけれど、
 文学というものも、馴染んでみるとなかなか味わい深いものだ。
 言葉一つに膨らみや陰影を感じとることは、人に向かい合う時のそれによく似ていて、
 自分の<想像力>を豊かにさせてくれる。
 ように、僕は思う。


 まあ、
 今からどうぞ。と言ってみても、
 老い先短い人がほとんどだから、
 ちょっと無理か。
 ネ。XXさん。



     心の裏側を撫でる視線



 文学も、思想文学から大衆文学まで、さまざまにあるが、
 僕は、自分自身の、
 文学とは何か?
 という問いに対して、
「心の裏側を撫でる視線のことだ。」
 と、自分に答えてきた。


 先日は、走り書きみたいな文章を書いたが、
 僕が、北上の平野さん、残九郎さん、「両国のU」さんと語らって得た感触は、
「この三人は、
 それぞれ境遇も生き方も異なるけれど、
 心の一番奥底に、
 人の心の裏側を撫でることの出来る視線、
 それを持った人たちだな。」
 というものだった。


 人は様々な生き方が許されているのだから、
 どんな生き方をしようがその人の勝手であって、
 僕のように、「人は人。彼女は彼女。僕は僕。」という考えの持ち主には、
 無関係な他人の生き方には、
「世の中、さまざまな人がいるな。」
 くらいのことで、あまり好悪も関心もないけれど、
 文学、
 というものを軸に据えた時には、
 そうではなくなる。


 僕は、若い日、
 立松和平に、
「世川さん。
 あなた、何か書きなさいよ。
 あなたみたいに文学知識の豊富な人は、栃木県にはいないよ。
 もったいない。何か書くべきです。」
 と、文筆活動への誘いを受けた時、
 僕には、父親との約束があったから、そうした生き方は断念していて、
 彼に、
「僕はね、
 一生、一行も書かない詩人になりたいんです。
 そんな生き方を生き抜きたいんですよ。」
 と答えた。


 だから、僕は、 
 「一行も書かない文学者」という存在を認めていて、
 62年の人生の間には、そういう人と少なからず出逢い、
 さまざまなことを学ばせてもらった。


 その「一行も書かない文学者」が大切にしているものが、
 あるいは、天賦の才として携えているものが、
 人の心の裏側を撫でることの出来る視線、
 それであると、
 僕は理解してきた。


 自惚れでもなんでもなく、
 僕は、心に「浅くない棘」を刺したままの女たちから、愛されて生きてきた。 
 その女たちが、何故僕を愛するのか、その理由を一番知っていたのは、当人の僕だ。 
 僕自身、心に「浅くない棘」を持たない女には、まるで興味も好意も感じなかった。
 漱石の言葉に、「行人」という言葉があるが、
 そんな、心に傷のない女は、僕にとっては、ただの行きずりの人にしかすぎなかった。
 そんな女は、僕のような男とはかかわりを持たず、
 もっと自分に似合った男と幸福になればいい。
 そう思ってきた。


 そういう姿勢で生きてきた僕なので、
 僕は、自分が関心を持った女たちの、心の裏側を眼で撫でながら、
「これが僕の文学だ。」
 そう思って、密かに誇ってきた。


 北上の平野さんや、残九郎さんや、「両国のU」さんには、
 強弱の差はあっても、その視線がいつもある、
 と僕は思った。
 だから、彼らに好意を抱いて来た。


 62年生きて来て、正直な思いを言うと、
 そんな視線を持った男は、
 処世上は、あまり楽な生は送れない。
 余計な荷物をしょい込むのに似ているから、
 その余計な重さ分、生きるのがつらくなる。
 しかし、だからと言って、それを放擲できる彼らではないので、
 これから先、ちょくちょく、「大変だ~。」が襲って来るのだろうな、と同情する面があるが、
 しかし、
 僕流に言わせてもらうと、
 それこそが、「一行も書かない文学者」の勲章であり、
 その勲章は、そう誰にでも与えられるものではない。


 昨日今日、お三方から、丁重な便りをいただいた。
 それぞれに返事を書かなくてはいけないのだが、
 このとおりの怠け者なので、
 三人まとめての一文で通させてもらう。
 ごめんなさい。


              (2015年1月14日掲載)




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太宰治『徒党について』

2015年09月29日 22時32分13秒 | 太宰治雑感


        太宰治『徒党について』



 若い時から、
 暇が出来ると、太宰治の『もの思う葦』という新潮社の文庫本を開くくせがあったが、
 この一年間ほどは、それがなかった。

 今夜、独りの部屋にいて、
 ちょっと読みたいページがあって、
 久しぶりに開いてみた。


    徒党は、政治である。
    そうして、政治は、力だそうである。
    そんなら、徒党も、
    力という目標を以て発明せられた機関かもしれ
    ない。
    しかもその力の、頼みの綱とするところは、
    やはり「多数」というところにあるらしく思われる。


    私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)
    最も苦痛なのは、
    「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも
    言えず、
    かえって賞讃を送らなければならない義務の負担
    である。


    友情。信頼。
    私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。


           (「徒党について」より)


 僕の徒党観というのは、原点がここにあって、 
 まだ「少年」から一馬身出たばかりの高校生の時分にこれを読んだばっかりに、
 若い日から、「群れる」ということが、どうも苦手になって、
 人づき合いには結構苦労させられた。


 小沢支援運動の時にも、
 「自立した人間の集合体」としての行動体を願ったが、
 近寄って来る人たちの多くは、「徒党」化へと向かいたがる人たちばかりで、
 それにはかなり閉口した。
 そういう人たちは、一人残らず別れて、今日に至っている。


 いま、
 新日記の会員諸氏と2か月に1回程度の「勉強会」をやっているのだが、
 僕の新日記は、
 新日記の掲載内容を他言しない。ということだけが読者の条件で、
 相手から自発的に語って来ない限りは、僕の方からは、読者の「過去閲覧」をしない。
 というのを原則にしていて、
 開始してから3年以上経つが、
 名前以外、住所も職業も知らない読者が、かなりの数、いる。
 先週の「勉強会」も、そんな人が2~3人出席した。


 姓名以外実生活のことはほとんど知らず、
 知っているのは彼や彼女の見識だけだ、
 というこのつき合い方には、
 僕は、結構満足していて、
 来たかったら来る「勉強会」、というスタイルを、大切にしたいと思っている。


 まあ、もっとも、
 会話する機会が重なると、自然と相手のことを知ることになるが、
 それはそれで当然の流れだから、
 何の文句もない。


 太宰治の書からは、若い時分、自分の生きる姿勢の要をいくつか教えられ、
 僕のその後の生き様に、彼の書は大いに関与している。

 もう、僕も、明後日は63歳になり、
 今さら太宰でもないだろう、と思ったりもするが、
 やっぱり、
 いつ読んでも、
 彼の文章は、僕の心に心地よく沁みこんでくる。

 好きなのだな。



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転載  太宰治『如是我聞』Ⅳ

2013年09月24日 01時46分26秒 | 太宰治雑感


 太宰治について、また書いてみたい。


 僕が愛してきた言葉の一つに、


    おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。


 太宰治の『如是我聞』の中の一行がある。

 若い日、
 この一行には、深い共感を覚えた。
 「愛撫」しかしない品性の下劣と、
 「愛する」ことの困難、
 それを比較して、
「これから出逢う人たちを愛して生きていきたい」
 熱くそう思い、 
 自分の生涯の<生活思想>の課題とした。


 特に、
 40歳過ぎの愛欲地獄の数年間や、
 その後の新宿歌舞伎町に降りた数年間の、
 足して10年ほどの期間には、
 転んだ傷の痛みと哀しみを持て余してい若い日本人女たちや、
 日本語もろくすっぽ知らぬ韓国女たち、
 を見つめながら、
 太宰の言葉を噛みしめて、明日の見えない日々をさすらって生きた。

 今、当時を振り返ると、
「いつも、結構心が痛かったなあ・・・、」
 それだけを思う。
 女たちの身の上話を聞き、
 その女たちの<哀しみ>を自分のものとして引き受けようとすると、
 心が、ズキッ、ズキッ、と痛み、
 張り裂けそうなほど、苦しくなった。 
「こんな生き方をしてきた女を、
 僕は、心底から愛することができるのだろうか?」
 自分自身に問いかけ、
 答えが出ず、
「・・・・、」
 呻吟し、
 「愛する」ことは、歓喜ではなく、苦悩であることを、
 僕は躰で覚えた。

 そういう僕のちゅうちゅや苦悶の姿を見て、
「あの人の何が気に入らないんだ。
 いい人じゃないか。
 あの人を愛せないなんて、
 あなたはプライドが高すぎる」
 と批判する人間が少なからずいた。
「馬鹿言ってんじゃないよ。
 それは、君たちが、女の外見だけを見て判断するからだ。
 「愛する」ってのは、そんなもんじゃない。
 誰でも抱けばいいってもんじゃないんだよ。
 愛そうとして苦悶し、苦悶しながら愛してしまう。
 その切なさが、男と女なんだ」
 僕は心の中だけで反論したが、
 もちろん、誰にも、そんな僕の内心の声が届いたことはない。


 だからと言って、「愛する」ことをやめるかというと、そうではなく、
 一人の女との交情ドラマが終わると、また次の女へと向かって行った。
 そして、いま、齢60歳。
 結構、痛む心を自分の両腕で抱きしめ続けてきた半生だったな。
 と、自分では思う。


 この世に60年生きてみて、
 男という動物が、
 どんなに性的には厭らしい生き物であるか、
 僕は、骨身に滲みるほど見せつけられてきた。
 女を肉体的に抱きたいだけのために、
 平気で嘘をついたり、騙したりした話を、
 女たちから聞いて来た。
 何で、そんな男たちがつけた女の傷のために、僕がこれほど苦しまなくてはならないのか、
 と憤慨したことも十数度あった。
 ただ、
 そうした苦悶を重ねながらも、
「自分だけは、女とのそんな接し方はしまい」
 と、自分に誓って生きてきた。
 自分の気持ちを言わせてもらうと、
 それは実行してきたのではないか、と思っている。


 最初の妻に手ひどく裏切らた過去を持つ太宰治は、
 強度の女性不信に心を包み込まれ、
 『苦悩の年鑑』や『人間失格』に、出口のない苦悶や喘ぎを書き散らしながらも、
 それでも、
 不可思議としての<女>に理想を見、 
 またすぐに、
 苦しみ、
 もがき、
 最後は、女と心中して、
 この世にグッドバイする。

 偉大な文学者であった、
 と、僕は思っている。

                (新日記からの転載)





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太宰治『如是我聞』Ⅲ

2013年09月09日 23時41分41秒 | 太宰治雑感


 今朝も暇つぶしに、太宰治の『如是我聞』を流し読みした。


    真の正義とは、親分もなし、子分も無し、そうして自身も弱く、
    何処かに収容せられてしまう姿に於いて認められる。
    芸術に於いては、親分も子分も、また友人さえ、無い物の
    ように私には思われる。


 「群れない。媚びない。イジケない」
 自分の<生きる原則>の根拠となった数行を、
 今朝も、噛みしめるように読んだ。


 子供の時分から、孤独しか友だちでないような生活をしてきた。
 15歳から23歳までは、
 テレビもないオンボロ下宿で独り暮らしを続けた。
 23歳から25歳で住んだアパートは、
 オンボロで、もちろん、テレビなどなかった。
 それから40歳までは、
 家庭はあっても、毎日明け方まで本を読む生活を続け、
 40数歳からは、
 日本人とはほとんど口を利かず、
 会話の通じない韓国女性とだけ言葉を交わす生活を、10年近くした。
 その後の5年ほどは、再びネットカフェを渡り歩いて生きた。
 そんな、他人との会話のない暮らしだから、
 いつも、独りの部屋で寝っ転がって考えるだけだった。
 部屋、と言っても、まともな部屋を持ったことは、あまりない。
 ネットカフェの狭い個室とか、
 サウナのネットルームとか、
 そんなところばかりだった。

 でも、
 僕はいつもニコニコしていたから、
 誰も僕が孤独を生きているなんて想像も出来ず、
「世川さんって、本当に明るい人ね。 
 どうしたら、そんなに、いつもニコニコしていられるの?」
 そんなことを訊いて来たものだ。


 太宰治と吉本隆明、そして、山本周五郎、
 この三人の文学者の著作からは、
 人として生きる基本を、沢山教えてもらった。
 その一番は、
 所詮は、人間は一人で生き抜くしかない。
 という単純な真理だった。
 僕の「徒党嫌い」は、あそこから始まったように、思う。


 初めから孤独に冷静だったわけではない。
 若い時分は、
 おそらく誰もがそうであるように、
 僕も、自分の孤独を淋しいと思ったし、
 そんな風にしか生きられない自分の性を、哀しい、と思った時期もある。
 或る年齢を過ぎてから、
 こんなのは当たり前のことだ。
 哀しむ必要なんか何もない。
 そう思えるようになった。
 要は、年齢的なものだという気がする。


 今の僕は、<いっぽんどっこ>を生きる自分を、誇らしく思う時がある。
 これこそが、僕に最もふさわしい生き方である。と。
 だから、
 現在僕が提唱している「1万人ネットワークの会」は、
 絶対に、「徒党」ではない。
 <いっぽんどっこ>を生きている自立した思考のの持ち主たちの連携によって、
 その連携の力を最大限に発揮するシステムを構築しよう、 と考えてのことだ。

 しかし、
 徒党に慣れた人間の多くなった昨今。
 僕たちの真意をわかってくれる人は、
 きっと少ないことだろう。

 でも、
 それでいいのだ。

 それだからこそ、頑張る気になれる。
 精神や知性の戦いとは、
 いつも、そうしたものだ。



 
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太宰治『徒党について』

2013年08月24日 12時43分55秒 | 太宰治雑感

 
        太宰治『徒党について』



 放浪生活を始めてからは、
 暇な時に僕が流し読みする本は、
 吉本隆明、山本周五郎、太宰治、の三人と相場が決まっていて、
 あとは、中原中也の詩か、石川啄木の短歌だ。
 今日も、太宰治の文庫本『もの思う葦』を流し読みして過ごした。
 そこに、『徒党について』という一文があり、
 これまでに何十度か読んだが、
 今日もまた読んでみた。


        私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、
        「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、
        かえって賞賛を送らねばならぬ義務の負担である。


 この一節を眼にして、
 思わず、吹き出した。
 ここ5年間ほどの小沢党の在野支援団体の面々の顔が浮かんできたからだ。
 皆、人さまからの賞賛を欲しがる人たちばっかりだった。

 よく言われたものだ。
「世川さん。
 君は、何故、あの人たちを批判したり、喧嘩をしたりするんだ。
 皆、小沢一郎を支持している点では、同じ同志じゃないか。
 もっと仲良く手をつなぐことを考えるべきだ」
 僕は笑って喧嘩を続けて来た。


        友情。信頼。私は、それを、「徒党」の中に見たことが無い。 


 僕は不思議でならなかった。
 <日本的なるもの>を打ち崩そうと、
 満身創痍で孤軍奮闘している新しい日本人・小沢一郎、
 その彼を支援する集団が、
 その内側に<日本的なるもの>を充満させて自省もしない。
 これは、いったい、何だ?


       「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、
       十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、
       まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、
       じつは、最も憎悪しているのは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。


 僕は最近、
 徹底して、平野貞夫という老いた引退政治家を批判しているが、
 それは、
 小沢一郎支援団体を「徒党化」した最大のA級戦犯が、この老人だった、
 と確信しているからだ。 
 根拠は?と問われるならば、いくらでも根拠を明示することはできるが、
 面倒なので、ここには書かない。

 この国の民にとって、
 小沢一郎という政治家の20年間の歩みは、
「東西冷戦構造崩壊後の日本政治とはどうあるべきであったか?」
 を学習するためには、不可欠な教育的素材であった。
 それを丁寧に、また冷静に説いたならば、
 そこから多くを学ぶ国民も大勢いたはずだ。
 
 それを、
 自分が無学な勉強嫌いであるために、勉強を憎悪し、
 感情と激情だけの阿呆な徒党を組み、
 素養や見識のある人物を、片っ端から排除にかかった。
 何人の良識的温厚な人たちが、この老人の徒党によって攻撃排除されたことか。
 僕なども、何度もこの老人の陰湿な裏攻撃を受けた口だが、
 <知>は、いつも<愚>に敗れてばかりいるわけではない。
 やったらやり返されることを、少しは躰で覚えてもらおう。


 可能性を秘めていた在野の小沢一郎支援運動体を、
 かくも無惨な体たらくにして、
 二つの国政選挙で小沢党を大敗させた元凶は、
 平野貞夫と、
 その脇で阿呆なアジテーションを繰り返した、
 二見伸明、伊藤章、という老人たちである。

 口を拭って、すまし顔でやり過ごそうとしているが、
 お前たちは、
 もう、消えろ。
 お前たちがそこにいること自体が、
 心ある人たちの迷惑にしかならない。
 懺悔などしなくても許してやるから、
 黙って表舞台から、引っ込め。
 大島楯臣。
 お前もだ。
 もっとも、
 こんな悲惨な段階にまでなったら、
 何をしていいやら、まったくわからなくなっていることだろうが・・・。


       新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところから
       はじまるかもしれない。


 太宰治は、
 個と集団の本質について、
 知悉(ちしつ)し抜いた文学者であった。

       
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