世川行介放浪日記

日々の雑感。
昔話。
時事問題への言及。
歌謡曲篇。文学篇。
漫談。
たまに女篇。
2年に1度は愛欲篇

喜多条忠『その昔』 転載23

2016年06月05日 14時48分08秒 | 喜多条忠雑感


     喜多条忠『その昔』 転載23



 昨夜、僕は少しお酒が飲みたくなって、
 と言うよりも、少し、カラオケがうたいたくなって、
「お金はないけど、行ってもいいかい?」
 と電話したら、
「また貧乏になったの?
 いらっしゃいよ。」
 という返事が来たので、
 零時を回ってから、西浅草・菊水通りまで歩いた。


 韓国人の女性が一人でやっているそのスナックに入って、
 だけど、席についたら、急にうたう気持ちがなくなって、
 北海道や東北の話をしていた。


 壁のカラオケ画面に、吉幾三の新曲のタイトルが書いてあって、
『その昔』
 というタイトルだった。

 ちょっといいタイトルだな、と思い、
「その歌を聴かせてよ」  
 と頼んだ。
 聴いたこともない歌だから、どんなメロディなのかはよくわからないが、
 画面に歌詞が流れ、
 その作詞者は、
 喜多条忠、
 と紹介された。


 『神田川』、『赤ちょうちん』、『いつか街で会ったら』、『メランコリー』
 といった優れた歌謡詞を書いた喜多条忠は、
 数十年前に歌謡曲の世界から姿を消した。
 最近になって、たまに、彼の作詞の歌を耳にするようになったが、
 どれも、以前のあの眩いばかりの喜多条ワールドを彷彿させるには遠い駄作ばかりで、
 僕は少し失望させられていた。
 
             

    その昔 恋をしていた 
    2年暮らしてそいつを捨てた
    冷凍蜜柑と甘栗を 無理やりその手に握らせて
    田舎へ返す詫びにした
    俺のずるさをとがめるように
    発車のベルが 発車のベルが 鳴り響いていた

    その昔 妻と別れた 
    子供は残してゆけよと言った、
    二人の子供を両脇に 川の字になって眠る夜
    初めて俺は気がついた 
    俺の勝手とわがままだけが
    この子の母を この子の母を 奪い取ったと

    その昔 夢を見ていた
    たった一度の人生なんだ
    追いつけ追い越せ負けるなと 
    団塊世代の明け暮れに
    勝つことばかり夢にした
    戦さ終わって夕陽が落ちりゃ
    見交わす友の 見交わす友の 笑顔がつらい

    見交わす友の 見交わす友の 笑顔がしみる


 「2年暮らしてそいつを捨てた」、「冷凍蜜柑と甘栗」、「俺のずるさをとがめるように」、
 一番の歌詞を見るなり、
 喜多条忠は久しぶりにいい歌謡詞を書いたな。
 と思った。

 歌謡曲は、詞とメロディとの兼ね合いだから、
 これがヒットするかどうかは、僕にはわからないが、
 喜多条忠が、やっと彼固有の世界に戻ってきたな、
 そんな気がした。


 僕は、
 母親との思い出の歌である『悲しき子守唄』以外は、「家庭もの歌謡」は絶対にうたわない。
 と決めて、42歳から今日まで生きてきたが、
 この歌の、


      二人の子供を両脇に 川の字になって眠る夜
      初めて俺は気がついた 
      俺の勝手とわがままだけが
      この子の母を この子の母を 奪い取ったと


 という歌詞だけは、ちょっとうたってみたい気がした。 
 その歌詞に、
 別れた子供たちの幼い日の姿を思い出した。
 あいつら、どうしているのかなあ、と思った。
 何もしてやらなかった僕を怨んでいるだろうなあ、
 と思った。
 死ぬまでに一度くらいは会えるかなあ、
 と思った。


 この少し湿気を帯びた恋しさ――。
 自分では激しくそれを拒絶しているつもりではいるのだが、
 僕も、すでに<老い>に向かい始めているのかもしれない。


 僕は、「団塊世代」という言葉があまり好きではなく、
 それが歌謡詞になるなんて考えたこともなかったが、
 「団塊世代の明け暮れに」という表現には、違和感がなく、
 やっぱり喜多条は優れた作詞家だな、と満足した。


 ひょっとしたら、
 秋から年末にかけて、
 60代の男たちが、
 酒場のカラオケマイクを握り締めて、
 ちょうど僕がそうであろうように、
 つぶやくように、あるいはがなるように、この歌をうたい、
 過ぎた遠い日々を、
 悔いたり懐かしんだりするのかもしれない。



        (2012年6月27日掲載文)





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喜多条忠『大糸線』

2015年04月19日 16時30分54秒 | 喜多条忠雑感


         喜多条忠『大糸線』



 当然のことだが、
 諏訪湖近辺の道路を走っていると、
 松本ナンバーの車と何台も出逢った。
「松本ナンバーか・・・、」
 自分とは縁のない地名を読みながら、 
 フッと、一つの歌がよみがえった。


      松本を過ぎると空気が冷たい
      24を過ぎたお前には
      世間が冷たいだろう
      お前がむいたミカンの匂い
      列車の中にたちこめて
       大糸線は川沿いに
       深くよどんだ哀しみ流す
       糸魚川には夜に着く
       せめてそれまで肩だきあおう


 もう、40年も前の歌だ。
 『北へ帰ろう』をうたった徳久広司が、その後に出した歌で、
 喜多条忠が作詞していて、
 レコードを買った。
 全然流行らなかったが、二番目の歌詞が好きだった。


      引っ越しのたびに荷物が減るねと
      笑ったお前の横顔に
      心がなごんだものさ
      お隣にあげた朝顔の苗は
      今年の夏は咲くだろうか
       大糸線は胸の中
       細く流れる雪解け水か 
       糸魚川には夜に着く
       せめてそれまで肩だきあおう



 62年という短くない人生の間には、
 女と身を寄せ合って夜汽車に乗ったことの一度や二度はあるけれど、
 大糸線には、とうとう一度も乗らずに過ぎた。
 大町にも糸魚川にも行ったことがない。
 しかし、この歌は、放浪の道すがら、たまには口ずさんできた。
 土地を移る度に減っていく鞄の中を覘きながら、
 独り小さく口ずさんだ。


 喜多条忠は、昭和後期に青春期にあった貧しい男女の、
 身を寄せあうような恋愛光景を描かせたら、
 ピカイチの作詞家だった。


       あなたが描いた私の似顔絵
       うまく描いてねって言ったのに
       いつもちっとも似てないの
       窓の下には神田川
       三畳一間のちいさな下宿
                        (神田川)


       あなたと別れた雨の夜
       公衆電話の箱の中
       膝をかかえて泣きました
       生きてることはただそれだけで
       哀しいことだと知りました
                        (赤ちょうちん)


 こうした喜多条の歌詞を、
 星野哲郎は、「書きこみすぎだ。」(『紙の舟』)と言ったが、
 喜多条は、あの書き込みがあったからこそ喜多条忠だったように、僕は思える。
 4行詞や6行詞では、喜多条の思い描く光景はまとまらなかったろう。
 そういう意味では、喜多条忠は、フォークソングと幸運な出逢いをしたと思う。


      この街で君と出会い
      この街で君と暮らしたことも
      僕はきっと忘れるだろう
      それでもいつかどこかの街で
      会ったなら
      肩を叩いてほほえんでおくれ
                         (いつか街で会ったなら)


 喜多条作詞の『いつか街で会ったなら』を流行らせた中村雅俊は、
 途中から小椋佳路線に行き、
 ウジウジした男の歌をうたい始めた。
 『俺たちの旅』、『俺たちの祭』、『盆帰り』、『時』・・・、
 しかし、
 本当は、「僕はきっと忘れるだろう。それでもいつか会ったら、」と女に言う喜多条忠の青春の方が、彼には似合っていたような気が、僕はする。
 
 全然流行らなかったけれど、
 喜多条が作詞をし、吉田拓郎が曲をつけ、中村雅俊のうたった、
 『夜行列車』
 という歌を、
 僕は結構好きだった。


      言葉一つで傷つけて
      返す言葉で傷つけられて


 青春期の歌だね。って気になった。



 2~3年前、
 数十年ぶりに喜多条忠作詞の歌を耳にした。
 吉幾三の『その昔』という歌だった。


       その昔 恋をしていた
       2年暮らしてそいつを捨てた
       冷凍ミカンと甘栗を
       無理矢理その手に握らせて
       田舎へ帰す詫びにした
       俺のずるさをとがめるように
       発車のベルが 発車のベルが
       鳴り響いてた

 
 聴いた時、
「・・・・。」
 胸にこみ上げて来るものがあった。
 『神田川』や『赤ちょうちん』の恋愛世界を体験したあの青年たちが、
 40年近い歳月を経て、
 清濁の海を泳ぎきり、
 過ぎた遠い昔を振り返り、
 いま、放心の歌をうたっている。
「これが喜多条忠の到達した世界なんだな。」
 と思った。


      戦さ終わって夕陽が落ちりゃ
      見交わす友の 見交わす友の
      笑顔がしみる


 この『その昔』は、
 吉幾三がうたったにもかかわらず、
 全然流行らなかった。
 もう、こういう歌謡曲が流行る時代ではなくなったのだろう。

 しかし、
 僕には、
 ここ10年くらいでは最高の歌謡詞のように思えてならない。



 
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喜多条忠『燕が来る頃に』

2014年08月19日 17時29分38秒 | 喜多条忠雑感


     喜多条忠『燕が来る頃に』


 もう6年くらい前になるだろうか。
 何年間かの地方放浪を終えて、千葉を経由して東京に舞い戻った頃、
 上野のネットカフェを転々としていた。
 「ネットの売文業」をやる前の話で、
 正真正銘の極貧の放浪者だった。
 毎日、ネットカフェの料金を払うのに蒼ざめて過ごしていた。


 その頃の僕は、
 世間から悪態をつかれている小沢一郎のための本を出したいと考え、
 ネットカフェで、
 後に『泣かない小沢一郎が憎らしい』という題で出版されることになる本の原稿を書き綴っていたが、
 文献が手元にない。
 記憶だけで本を書くわけにはいかないので、
 調べたら、三ノ輪に「根岸図書館」というのがあることを知って、
 三ノ輪なんて、聞いたこともない町に足を運んだ。


 その根岸図書館で、
 江藤淳や吉本隆明の本のいくつかをコピーした。
 用事が終わり、外に出ると、
 町はもう、日暮れ前だった。
 今はもう、確かな記憶はないが、
 多分、春先のことだったように思う。

 そのまま帰るものなんか惜しくて、
 僕は、図書館の前の歩道橋に昇り、
 昭和通りを行き交う車の群れを見た。
 遠くに、落ちる前の太陽があった。

 一つの古い歌を思い出した。


     歩道橋の上に燕が巣を作ったと
     お前が言ったのは朝だった
     俺は髭を剃りながら
     春だからねと言った
     玄関のベルが鳴って小さなトラックが
     お前の荷物を運んで行った
     二年ばかりの暮らしのうちに
     白いタンスと鏡が増えた


 俳優の古谷一行のデビュー作で、
 喜多条忠が作詞し、伊勢正三が作曲した、
 『燕が来る頃に』
 という歌だった。
 古谷一行は歌がまるでへただったから、
 この歌も全然ヒットしなかったが、 
 僕は、好きだった。


     今日から一人思った途端
     赤い夕陽が 夕陽が落ちた


 最後は、そんな感じの歌詞だった。


 歩道橋の下を行き交う車を眺めながら、
 その歌を、小さく口ずさんだきりで、
 三ノ輪という街には、それ以降、ただの一回も行ったことがない。


 僕の歯を治してくれている菊地歯科医が、
 この8月から三ノ輪の医院の院長になっったので、
 僕も、若い彼を追いかけて、三ノ輪の方の医院に通うことにした。

 初めて訪れたその歯科医院を出て、
 周囲を徘徊していたら、
 「根岸図書館」と書かれた看板を眼にした。
「ああ。ここだったのか。」
 僕は少し驚き、
「ということは・・・、」
 図書館の前にある歩道橋に昇った。


 相変わらず、昭和通りは、少なくない数の車が行き交っていた。
 僕は歩道橋の上から、あの時と同じように、車の群れを眺めながら、
 あの時と同じ歌を口ずさんだ。
 どの女との思い出という種類の歌ではない歌だが、
 これを聴いたのは、まだ大学生の頃で、
 口ずさみながら、
 過ぎた大昔を、少しばかり、思った。


 あの日見知らぬ町が、
 今は、僕の生活エリアとなる。
 この世に生きるってのは、
 本当に奇妙で面白いものだ。



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喜多条忠『千住大橋』

2013年12月08日 01時51分51秒 | 喜多条忠雑感


 北海道から帰って来て間なしの頃、
 千住大橋に住もうかな、と真面目に考え、
 それを言ったら、
 「腐れ縁」からも、<小悪魔>からも、
 やめとけ。
 と言われて、断念した。

 一度も行ったことのない千住大橋に、住もうか、と思ったのには、
 理由がなかったわけではない。

 その昔、
 鎌田敏夫脚本の『俺たちの旅』というTV番組があって、
 放映当時は観ていなかったが、
 30代になって、鎌田敏夫の脚本(原作)を読み、
 彼の人間を見つめる眼の温かさに好感を持ち、
 『金曜日の妻たちへ』、『男女七人夏物語』、『思い出のセレナーデ』、
 といった彼の作品群をテレビで観続け、 
 すっかり、彼のファンになった。
 その時期に、『俺たちの旅』の、20年後、30年後と、10年おきの特別篇が出て、
 けっして美しくはない女、金沢碧の、
 報われない愛を懸命に生きる健気な姿の描き方に感動した。
 あのドラマを観て、初めて、
 小椋佳の『少しは私に愛をください』という歌を、
「いい歌だなあ。」
 と思えるようになった。

 そうしたことがあって、
 出版された鎌田敏夫の本は、
 単行本から文庫本まで、たいがいを読み漁った。
 ただ、
 ホラー小説群は、あまり好きになれなかったし、
 深作映画の原作になった鎌田版『里見八犬伝』、
 あれはつまんなかった。


 吾妻橋に流れ着いた頃、
 テレビで、『俺たちの旅』を再放送していて、
 月曜日から金曜日まで、毎朝観つづけた。
 
 『千住大橋』という歌は、
 そのTVドラマ『俺たちの旅』の中で、 
 中村雅俊扮する主人公カースケの幼馴染のチンピラ、 
 その役を石橋正次が演じていて、
 彼はやがて、ヤクザの抗争の犠牲になって殺されるのだが、
 そのチンピラ石橋正次が出る場面で、流れていた。


     安い貸間の張り紙を
     探して歩いたあの頃は
     お前とお茶を飲むたびに
     マッチの箱が増えてった
     街もにぎわう年の暮れ
     着たきり雀のジーパン穿いて
     千住大橋たたずめば
     頬にぽつんと小雪が落ちてきた
     何かやりそうな顔をして
     何もできない俺だった


 歌詞を書いたのは、
 『神田川』『赤ちょうちん』の喜多条忠で、
 彼は、このドラマの主人公を演じた中村雅俊にも、
 『いつか街で会ったら』という作品を提供して、
 大ヒットさせている。


 喜多条忠は、
 戦後昭和中期の「青春」と呼ばれるものの実相をよく理解できていた作詞家で、
 この『千住大橋』でも、

    何かやりそうな顔をして
    何もできない俺だった

 と、
 青年の焦燥と哀しみをきちんと書き上げていて、
 ヒットはしなかったけれど、
 僕はこの歌が大好きだった。


 今夜、
 マージャンを早めに切り上げ、
 いつもなら特急で帰るのだが、
「早い時間だから、急がなくてもいいか、」
 と、快速に乗ったら、
 千住大橋駅で停車した。
「・・・・、」
 石橋正次のあの歌を思い出した。


 それにしても、

    街もにぎわう年の暮れ
    着たきり雀のジーパン穿いて

 これって、今の僕の姿そのものでもある。
 ジーパンどころか、
 長袖シャツも一枚しか持っていない。
 こんな61歳って、
 いったい、何者なのだろう?

 よく、こんな生活を十何年も続けている。 
 <小悪魔>が会うのをためらうのも、よく理解できるな。


  
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喜多条忠『紅ほおずき』

2013年08月09日 21時13分49秒 | 喜多条忠雑感


 最近、やたらと、隅田川が恋しい。 

 吾妻橋の日々が懐かしくて、
 <小悪魔>に電話したり、「大東縁」に電話したりしている。  

  この二年半の間に<小悪魔>から来たメールを読み返していたら、
 11年の11月以前のものが消えている。
 僕たちが超ラブラブ状態になったのは、11年の2月だ。
「・・・?」
 少し考え込んで、
「うん。そうか」
 納得した。
 その11月に、僕は、
 あの女特攻隊長から、二度目の「魔の携帯破壊攻撃」を受けたのであった。
 最初の破壊攻撃では、なんとかデータが残ったが、
 二回目は、買ったばかりの携帯を真っ二つに割られたわけで、
 データは修復不能。
 つまり、 
 愛の言葉が満載されている時期のメール文は読むことがかなわない。

 しかし、
 別れ前の1年半のメールを読み通すだけで、
 当時のあいつの愛情が心に滲みてきて、 

「ふ~む。」

 少し考え込んだ僕であった。


 僕は、40歳から、
 どんな女とも、愛欲篇が1年半以上続いたことがなく、
 <小悪魔>とも、ぴったり1年半で終わりになったのであるが、
 別れた後の未練ジジイの日数を含めると、
 もう、2年半、
 過去最高の長さになる。
 再び、ふ~む。


 <小悪魔>を懐かしむと、
 吾妻橋と駒形橋が浮かんで来る。
 吾妻橋のマンスリーマンションから吾妻橋を渡って上野稲荷町、
 1時間あいつの猫ちゃんケアタイムを待って、
 今度は駒形橋経由の吾妻橋。
 それが1年半の日課だった。


       あの人は 行っちゃったよ
       鉄砲玉だからね
       どの辺へ飛んで行ったもんだか
       見当もつきゃしない
       あの人は 行っちゃったよ
       いい気なもんだからね
       私にも 早く嫁にいけとか
       手紙を残してさ
       紅ほおずきだよ あの人は
       紅ほおずきだよ あの恋は
       私の心を キュキュッとかんで
       吾妻橋から ポイと捨てたさ

                    (作詞:喜多条忠)


 若い頃に聴いた木の実ナナの『紅ほおずき』という歌を思い出す。
 僕の記憶の中で、「吾妻橋」が歌詞に使われている歌は、この歌しかなく、
 しかも、ほとんどの人はこの歌の存在は知らないので、
 <小悪魔>と二人で吾妻橋を渡る時、
 たまに独り口ずさんだりした。

 喜多条忠はこの時期、
 『両国橋』とか『千住大橋』といった下町を素材にした歌をいくつか書いた。
 それらについては、またの機会に書くことにして、
 今日は書かない。
 

 ほとんど流行らなかった『紅ほおずき』という歌を、
 最近、札幌にいてよく思い出す。

 ・・・・・、

 きっと僕は、いま、
 隅田川と<小悪魔>が、
 恋しくてたまらないのだろう。




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喜多条忠『男坂・女坂』

2012年02月05日 04時41分00秒 | 喜多条忠雑感


 僕が大学を終わりかけた頃から数年間、
 喜多条忠という作詞家が、傑作を書きまくった。
 彼の出世作は、今更言うまでもなく、かぐや姫の『神田川』だったが、
 『赤ちょうちん』、『妹よ』、『いつか街で会ったら』、『メランコリー』など、
 歌謡詞に関心のある人間なら、思わずハッとするような、
 水準以上の知性と哀愁を散りばめた作品を書き続けた。


 松平純子という、「ポスト藤純子」か、と言われた女優がいて、
 その女のために、喜多条忠が二つの作品を書いた。
 最初の一曲は、『両国橋』という歌で、
 作曲は、当時超売れっ子のよしだたくろうだった。
 大ヒットするのか?と思ったが、
 小ヒットで終わった。
 その後ずっと埋もれていたが、後に由紀さおりがカバーを出した。
 しかし、元々が由紀さおりおばさまのうたうような種類の歌ではなかったから、
 ほとんど売れなかった。


          銭湯帰りの両国橋で
          あなたは私のイニシャルを
          ピカピカ光った一円玉に
          書いて投げたわ 隅田川


 この二年間で、この歌の記憶から、一度だけ、両国橋を歩いた。
 変哲もない橋だったし、僕の住む吾妻橋からは少し距離があるので、
 二度と行くような酔狂はしなかったが、
 夕暮れの隅田川を歩くと、この歌を思い出したものだ。


 余談になるが、
 喜多条忠が吾妻橋を書いた作品がたった一曲だけある。
 木の実ナナという今はおばはんが若く売れっ子の頃にうたった、
 『紅ほおづき』という歌だ。


          紅ほおづきだよ 私もさ
          思い出袋をキュキュッと噛んで
          あづま橋から ポイと捨てたさ


 全然売れなかった。


 松平純子の第二弾は、
 『男坂・女坂』という作品だった。
 これも、全然売れなかったが、僕は大好きだった。


          あれから街も変わったけれど 男坂から女坂
          あなたと二人で帰った頃は 三年前の春でした
          息を切らせた私の髪に かすかにふれる指先だけが
          みんな冷たい人の世で たった一つのぬくもりでした
          若いということ ただそれだけで
          幸せなくした 女坂


 喜多条忠は、こういった20歳前後の大学生か若いOLの恋愛の哀しみを書かせると、
 燦然と光を放つ一行を書ける不思議な作詞家だった。
 この歌の、「若いということ ただそれだけで 幸せなくした女坂」という歌詞は、
 かぐや姫の『赤ちょうちん』の、


         生きてることはただそれだけで
         哀しいことだと知りました


 という歌詞に匹敵するほどの「青年の悲哀の重量」を所有している、
 と僕には思えたのだが、
 残念ながら、評価されなかったみたいだ。 

 今日、YOUTUBEを見ていたら、偶然この歌に遭遇した。
 まだ、こんな歌を知っている人もいるのだな、
 と、感心した。


 僕たちが青年期を過ごした昭和50年前後は、
 それ以前もそうであったが、青年たちは、実に貧しく、
 下宿とか、銭湯とか、三畳一間とか、
 そんなみすぼらしい光景がよく似合う時代った。
 喜多条忠の歌謡詞を聴いていると、
 当時の自分の貧弱な<青春>の光景がよみがえって来るみたいな気になって、
 胸を締めつけられる時がある。

 豊かさはありがたいことであり、
 豊かさを生きることに文句をつける気は、さらさらないが、
 あの貧しくみすぼらしい<青春>も、
 けっこうよかった。




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喜多条忠の世界

2007年09月19日 00時00分00秒 | 喜多条忠雑感


 僕はこの「放浪日記」と銘打った文章を、奇しくも同じ I というイニシャルを持つ二人の男性に向かって書き続けている。(もっとも、「日記」という元来非公開性のタイトルで文章を公開するというのは僕の趣味ではなく、管理人の助言に従ったまでのことだが……)


 一人の I 氏は、僕が『歌舞伎町ドリーム』という本を出した時に知り合った人で、世界を視る角度が僕とほぼ同一のため、余計な修飾語をつけずに、核心だけを単刀直入に語り合うことができる。
 現在の日本という国家に関する情報も豊富で、会うたびに僕の心を刺激してくれる。
 彼は、僕が心秘かに、これが自分の文体の特質だ、と思っていた文体的特徴を褒めてくれたたった一人の人間で、売れないモノ書きとしては、それがとても嬉しくて、彼に褒められるような文体を維持したいと考えてきた。


 もう一人の I 君は、僕と同い年だが、長年僕の「パトロン」とでもいうべき存在だった人物で、僕の「モノ書きになりたい」という見果てぬ夢のために、この十数年間で、彼の言葉を借りると、「家一軒建てられるくらいの金額」を無償提供してくれた。
 京都大学農学部出身で理系の彼は、僕の書いたセンチな文章など全然読む気がない。
 ただ、僕という馬鹿な男を見棄てかねて援助を続けてくれた。
 彼がいなかったら、僕はモノ書きになるどころか、間違いなく、新宿歌舞伎町の路地裏あたりで野垂れ死にしていただろう。


 僕の文章を冷徹な眼で読み続けてくれる I 氏と、僕の文章になど未来永劫眼もくれない I君。その両極にいる二人の I 氏に向かって、僕は、いま現在の存在証明のような文章を書き続けてきた。

 ところが、こんな地味なブログでも読む人間がいるらしく、最近になって、数人から感想のメールや電話をもらうようになった。中には、かつて関わりのあった特定郵便局長もいた。
「おい。
 流れ者やホームレスを止めたかと思ったら、今度はマージャン屋のボーイかよ。
 いい歳こいて、あんたも頑張ってるな」
 と笑われた。


 昨日、今日、風に<秋の匂い>を感じた。
 ふっと心が騒ぎ、思わず腰が浮く。
 ここでしばらく「生活」をしようと決心したはずなのに、秋の匂いを感じると、放浪への憧れが全身を包んでしまうのだ。

 いつの間にか、放浪は僕の属性になってしまったようだ。


 さて、メディアは相変わらず、すでに黒白のついている自民党総裁選を何とか盛り上げて視聴率を稼ごうと、あの手この手を使って奮闘している。
 馬鹿もここまでやれば見上げたもんだよ、と言いたい。
 僕の好きな歌謡詞に、「昨日勤皇明日は佐幕 その日その日の出来心」(侍ニッポン)というのがあるが、今の彼らはまさにそうだ。
 僕はその歌詞が、「どうせおいらは裏切り者よ」と続くところが好きだが、そんな自嘲を彼らは持ち合わせていない。

 僕は三十代のある時期から、
「若い子供たちが、つまんなーい、と言うものは駄目だ」
 という判断基準を持つようになった。
「青少年の無根拠の感性を信じない人間に社会を断じる資格はない」
 と思って今日まで来た。
 たとえて言えば、電車の中でメール打ちや化粧に夢中になっている女の子を認めない大人は駄目なのだ。

 そういう視点から今度の自民党総裁選を見ると、自民党の政治家の大半が「彼なら自民党は安心だ」として推す福田康夫という老政治家は、いかにも「つまんない」政治家だという気がする。
 秋葉原でミーハー姉ちゃんたちから喝采を受けてご満悦の麻生太郎の方が、見ていて楽しい。
 麻生太郎は、今回の総裁選では敗れるだろうが、保守政治家としては今後存在感を増すに違いない、と思った。


 また歌謡詞にかこつけて少し書いてみたい。


 僕は、基本的には、一貫して一つ事を生きる男が好きだが、夏の蝉か打ち上げ花火のように、瞬間煌めいて消える男にも存分の魅力を感じる。
 消える理由が、病気であろうが、自殺であろうが、才能の枯渇であろうが、そんなことはどっちだっていい。
 そんな代表的存在である、中原中也とか、石川啄木、太宰治といった文学者たちの作品に心惹かれてきた。

 ある時期一世を風靡して、あっという間に消えた作詞家に、喜多条忠という男がいた。
 今は競馬か競艇か何かの評論家をしているとかという噂を聞いたことがあるが、そんなことには興味がないから、僕にとってはどうでもいい。

 今から33年ほど昔、僕の地方大学生時代に、彼の従弟だという大阪から来た馬鹿学生がいて、従兄の名声で近隣の女子大生をずい分と引っかけて気に入らなかったが、喜多条忠の詞は掛け値なしに傑作だった。
 星野哲郎の言葉(エッセイ集『紙の船』)を借りると、「当時、クラウンレコードの作詞家印税の大半を彼が取っていった」というくらい彼の詞は流行した。

 なぜ彼の歌謡詞はあれほどに流行したか。

 それは、喜多条忠の描く舞台設定に、僕たちの(近隣にいた)世代は何の抵抗もなく引き込まれたからだ、と思う。
 彼は、少し知的で、かなり貧しい当時の大学生の生活現場を活写した。

 彼の詞によって世に出た「かぐや姫」というグループの作品を例に取ってみる。


   赤い手拭いマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋
   一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた  (神田川)

   あのころ二人のアパートは 裸電球まぶしくて
   貨物列車が通ると揺れた 二人に似合いの部屋でした (赤ちょうちん)

   親の許しもなく 夫婦者お断りの部屋で
   お前の真っ赤なサンダルを 隠す毎日    (お前のサンダル)


 同じような場所にいた人間もいれば、かくあれかしとの願望もあったかもしれないが、現在55歳前後、当時二十歳前後の聴衆は、彼の描くその生活舞台を、まるで自分が通り過ぎた(かもしれない)<懐かしい過去>であるかのように錯覚して、すんなりと引き込まれた。

 そして、彼の詞は、いつもどこかに<哀愁>を背負っていた。


   若かったあの頃 何も怖くなかった
   ただあなたの優しさが怖かった  (神田川)

   あなたと別れた雨の夜 公衆電話の箱の中 膝を抱えて泣きました 
   生きてることはただそれだけで 悲しいことだと知りました   (赤ちょうちん)

   僕は眼を閉じて ふるさとの空を想う
   今頃はもう菜の花が 咲いているだろうか    (お前のサンダル)


 この大学生(つまり、少しだけ知的な大衆)好みの<哀愁>は、<哀愁>の何たるかを知らない小・中・高校生をターゲットにした「昭和の大ヒットメーカー・阿久悠」が逆立ちしてみても絶対に書けない性質のものだった。
 どちらかと言うと、畑は違うが、星野哲郎やなかにし礼につながる系譜の抒情だった。

 昭和50年代の数年間、喜多条忠は才能の奔流にまかせて傑作を書きまくる。
 「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「メランコリー」(梓みちよ)、「欅並木」(山田パンダ)、「やさしい悪魔」(キャンディーズ)、「ハローグッバイ」(柏原よしえ)、「ターゲット」(内藤やす子)、「両国橋」(松平純子)……。彼の抒情と時代とがマッチした、彼の歌謡詞にとって最も幸福な一時期だった。


   人の言葉をしゃべれる鳥が 
   昔のひとの名前を呼んだ
   憎らしいわね       (メランコリー)


 こんなひねりの利いた歌謡詞の書ける喜多条忠は、<異才>と呼ぶにふさわしい作詞家だった。


 そして、彼は突如として書かなくなる。
 書かないのか、書けなくなったのか、それはわからない。
 とにかく、職業作詞界から消えた。

 それから30年ほど、彼の書く歌謡詞を耳にすることがなかった。

 先日、
 NHKの歌謡番組を見るともなく見ていたら、彼の詞で世に出してもらった「かぐや姫」の南こうせつが、もう一度喜多条忠と組んで作ったという『恋はるか』とかいう新曲を歌っていたが、前置きが長いわりにはいかにも駄作だった。
 抒情を内包していない歌詞から無理やり抒情を引き出そうとするメロディが耳に障って、僕はTVのスイッチを切った。

 少々淋しかった。




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