医者から詳しく聞かされない医療情報:セカンドオピニオン

誤解と批判を恐れない斜め後ろから見た医療情報

「割りばし事件」に対する報道はペンの暴力

2009年07月10日 | 雑感
以前、割り箸事件に関する記事を書きました。
あの事件について、非常に貴重な意見なので引用させていただきました。

(以下引用)
私が杏林大耳鼻咽喉科教授だった時の教え子が刑事責任を問われた裁判で、2008年11月、東京高等裁判所は教え子の過失を認めず無罪判決を出しました。民事裁判においても過失なしとの判決を下しました。刑事および民事の両裁判で、東京高裁が正しい判断を示したことに対して、関係者一同、心から感謝しています。

この事件は、お子さんが割りばしを口にくわえて転び、その割りばしが脳に達して亡くなった不幸な事故です。医療事故ではなく、ましてや医療ミスでもありません。そのことが法的に立証されました。私どもの力が及ばず、お子さんを救えなかったことについて重く受け止めており、心からご冥福をお祈りしてきました。

しかし、この事件は医学的には極めて難しいケースであるにもかかわらず、夜間の救急外来において診断できなかったことの刑事責任を問われたために、私どもは大きな違和感を持ち、法廷において法律的に対応してきました。わが国は法治国家であり、刑事責任を追及された以上は、この件は法廷でのみ決着させるという信念に基づき、これまで公の場での発言を一切控えてきました。

法的な決着がついた今、改めて報道機関の現在までの対応に対して意見を述べたいと思います。

まず問題としたい点は、刑事裁判の地裁、高裁において無罪、また民事裁判の地裁、高裁において過失なしと判断された後でも、一部の報道では自分たちの主張が認められなかったことへの不満からか、紙面や番組の構成で、あたかも医師に過失があったかのような印象を与える情報操作を行っています。

今回の事件の事実関係はすべて明らかにされているにもかかわらず、一部の新聞やテレビ番組では、隠された事実があり、それが公開されていないがために、無罪判決になったように報道されていました。専門家以外の方が感情的にコメントするテレビでは、仕方がない面もあるかもしれませんが、客観性をうたい、社会の良識を代表すると自認する大新聞までもがそれでよいのでしょうか。


裁判所の判断も尊重しない報道機関

この明らかにされている事実関係について、被告側、検察側の医学、法律の専門家が医学的、法律的に過失があったかどうかを議論し、裁判所は最終的に医師側の見解が正しいと判断したのです。刑事、民事の高裁の判断は社会において尊重されるべきであり、それが法治国家のルールです。報道機関には社会正義を守るために、報道の自由と、報道のための編集の自由が社会から与えられています。裁判所の判断を尊重しないこのような報道機関の姿勢は、まさに法治国家の理念を否定するものです。


亡くなったお子さんの担当医だった私の教え子は、不当なペンの暴力により医師としての人生を大きく狂わされました。報道機関は自分たちこそが正義であるという視点に立ち、世論を誘導して著しい人権侵害を引き起こしてきました。限られた時間での記事執筆が求められている以上、ときには間違った報道をしてしまうこともあるかもしれません。しかしながら、報道の誤りが明確になった時点では、報道機関は誤った報道について真摯(しんし)に反省し、自分たちの判断のどこに誤りがあったのかを検証して、それを報道すべきでしょう。

報道と編集権の自由とは、報道機関が自分の都合のよい情報だけを提供することではないはずです。今回の事件は、社会が報道機関に与えている、報道と編集権の自由について、報道機関自らが改めて考えるよい機会であり、報道機関には今後も社会の木鐸(ぼくたく)としての重要な役割を担ってほしいと願います。

(日経メディカルより引用)



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コメント (2)
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