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【正々堂々の王道】

2007-10-15 | ・nTinDEEP


この前のプロボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ。
内藤と亀田の試合。めちゃおもしろかった。
おもしろいよーに、あのような亀田一家ののエントロピーが増大すると、
その存在の前に、ちゃんと内藤という選手が登場してくれる。
今や、亀田ブランドは、嫌われ者のチャンピオンだけど、
私はちゃんとに王座を防衛したあんな感じの内藤も亀田一家も好きだ。
世の中をおもしろくしてくれるから。
だから、ボクシング協会もボクシングを愛す人たちも、チンケな考え、狭い了見で、
その中に秘めた重要なヒントたちを殺してほしくない。

あの試合での亀田の弟の反則行為や亀田の親父の言動などの問題は、
別に厳罰処分ほどのもんじゃーないだろーに。
挑戦者亀田のガキは、だから、負けたわけなんだから。

亀田のガキ反則行為だ!セコンド親父の発言に厳罰だライセンスはく奪だ!
とかなんだかんだとウザク何ほざいてんだろ。とにかく、
負けた。
んだから、それがすべてだろ。

それ以上にうじうじくどく敗者亀田をヒステリックに責めたて批判する必要なんてないべ。
それは、なにしろ亀田の弟も親父も、まだまだガキで未熟だったんだから。
だったら、
「次はさらに大きく強くなってまた出直して来いや!」
つーだけでいーんじゃん。つーだけの話じゃん。

そーでなくちゃ(俺の憧れの)スポーツの世界じゃないべ。

もーホント相撲界もボクシング界も、その協会?その上そのトップにいる人たちは、
2チャンネル的な世間の小物的な声の波に飲み込まれずに、
その上に立つ立場として現象・物事の状況をもっと俯瞰的に見て、
大事な才能を軽卒冷酷に抹殺する事なく、その過ちをニュートラル冷静に見抜き動き、
王道のところで、しっかりとその才能たちを生かし育て励まし、
自分たちの愛する「運動場」を、元気に明るく面白く発展させていって欲しいもんだわ。

内藤も、あの存在感すごく良かったけど、
タイトル防衛成功し、勝った、なにしろ、チャンピオンなんだから、
負かした挑戦者亀田の反則行為に対して、試合終ってから、
世間の小物な意見に対して小物に反応しちゃって、
子供みたいになんだかんだぐじゅぐじゅいってないで、チャンピオンとして、これも、
「次はさらに大きく強くなってまた出直して来いや!」
つーだけでいーんじゃん。つーだけの話じゃん。

チャンピオン。つまり、「王道」の世界なんだけど、今や、スポーツ界だけではなく、
あらゆる世界、社会において、それは重要なキーワードになってると感じてんだ。

たとえば。

「大関や横綱を目指すような人は、不意打ちや小手先のワザを使ってはいけない。」
と言う。

相撲は、1場所で15回の取組があるから、8勝すれば、勝ち越しになり、
それでひと安心で、だから、勝ち越しがかかった勝負になると、
よく不意打ちで勝とうとするようなことがよくある。

そういう時に、元横綱などの解説者は、
ああゆー勝ち方していちゃーダメですね、あとがよくないっすね。はい。
ま、それはですね、まこのー、
勝てばいいというものではなくですね、勝ち方というのがあるのだ。
もーおめーら正面からまっすぐ力で当たっていきなさいっ!
と厳しく言ったりなんかしてんの。

大関や横綱になったら、
相手に自分の胸をかすつもりで戦って、勝たなければいけないんだね。
相手が、自分より小さいことも多いから、奇襲をかけてくることがあるけど、
だからて、「相手が奇襲ならこっちも奇襲で行こう」
なぁーんつーよーなことをしていては、本当には強くなれないんだ。
つまり、ふだんから、大関や横綱になったら、
相手の何倍も強くなければいけないということなんですね。

まっすぐにぶつかっていって、もし相手が不意打ちをかけてきても、
それに動揺しないで、勝てるだけの実力が必要なんだ。
それが、王道ってものなの。

以前、元小結の舞の海という力士がいたね。
舞の海関のような体の小さな人が、いろいろな手を使って勝てば、みんな拍手かっさいをする。
それは、体が小さくて、もともと大相撲に入れるような体格ではなかったからだね。

私はそんな舞の海もだーいすきだったんだけどね、
あの部屋入り試験みたいなの受かるために、その身体検査かなんかで、なんでも、
合格ラインをパスするために背の低い自分の頭ぼこんぼこんに殴りまくって、
そのために痛々しくも膨らみ腫れ上がった後頭部の高さで試験に合格出来た。
とかな話あるね。なんとも美しー男のロマンな話しだー。

そーいったぼこんぼこんになるくらいの努力した舞の海は、例外でもあんだけど、
大関や横綱を目指そうという人が、そういう勝ち方をしたら、
やっぱりまわりから厳しく言われる。

これは人生の真実でもあるのな。

それは子どもの場合でも同じだ。

たとえば、「自分は小学生だから、かまわないだろう」
という言い方をする子がいるね。
学校のテストの時、「今回は、サッカーの練習が忙しくて、勉強できなかったから、
少しぐらいカンニングをしてもいいじゃないか。それも助け合いだ。」
とか、「どうせ教科書を見れば、載っていることなんだから、
チラッと見たっていいじゃないか。先生が後ろを向いていたのが悪いんだ」とか、
まそのよーうに思う、勉強キライな子もいるかもしれない。それは俺だ(笑)昔の。
だけど、そーゆー段階からカンニングなどをしているようでは、
将来、真実「デキルヤツ」には、まずならない。それは、俺だじゃない。
本当は、学歴なんかに、人生の目的ってのは、ないわけだから。

でも、だから、そゆー「パターン」が蔓延して、それでいーんだ。とか思ってると、
「デキルヤツ」には、なれないんだね。

それから、友だちに勉強させないように、わざと自分が遊んでいるような話をしてみたり、
友だちにニセの情報を流して、混乱させたりするような子もいたりして。
「あのマンガ番組、面白かったね。」なぁ~んて言って、友だちを混乱させる。

ほんとうは自分も見ていないんだけど、
いつも余裕でマンガ番組を見ているようなふりをする。
あるいは、塾の休み時間に、余裕しゃくしゃくで、
ポケモンのゲームをして見せたりする子もいる。

成績のいい子がそんなことをしていると、成績がそこまでいかない子たちは、
ますます焦って真っ青になってしまう。

で、だから、余裕しゃくしゃく、
「あいつ、勉強がよくできるのに、塾に来てまでポケモンのゲームをやってる。
自分も家に帰ったら、ポケモンのゲームをやらなければいけないのかな。」
なぁ~んて思って、
その真似をしてたりなんかして、ますます成績が悪くなるね。

だから、成績のいい子は、自分よりできない子の前で、
余裕しゃくしゃくで遊んでいるところを見せてはいけないんだ。
それはあまりいいことではないんだ。

自分が勝つために、
人を動揺させるようなことをしてはいけないんだ。
それは、勝った、とは言えないから。

とにかく、

正々堂々。それが、王道。

その道を示し導く心が、
今、破綻してるみたいだ。



子どもである時は、将来、立派な人になっていこうと思う人は、
邪道を歩んではいけない。
なにごとも正々堂々と勝負することは、大事なんだ。

たとえば、一時間勉強したと言っても、勉強しているふりをして、
実はさぼっていたとか、お母さんが見ていないスキに、
答えをサッとうつして、できたような顔をしているとか、
そんなことをしていると、必ずあとでしっぺ返しが来る。よーになってんの。

だから、子どもは大人のよーに、人をだましたり、ごまかしたりしてはいけない。
世の「子育てする」おかーさんおとーさん方がたは、
それを大事なことだと、感じといて欲しいなーと思う。

安易な方法で勝とうとしたり、成功しようとしたりすると、
目先の結果にだまされて、一時的にはごまかせるけど、
あとで、必ず全部自分に降りかかって来るんだ。

王道を歩まないで、「勝ちたい。成功したい。」と思うのが、欲なの。

こういう欲は慎まなければいけない。
そうした欲を持っていると、大人になってからも、それが間違いのもとになるから。

自分の努力の範囲内で成功していこうと思わなければいけないし、
こうした中においてこその王道を歩まなければ正々堂々な場所にはいけない。

だから、欲を慎んで、足ることを知らなければいけない。
そして、自分ができないことを、人のせいにしない。

とくに、勉強ができないことを、
「お父さんやお母さんが、勉強を見てくれないからだ。」とか、
「学校の先生が、えこひいきするからだ。」とか、人のせいにしてはいけない。

「友たちがよく勉強できるのは、あの子のお母さんやお父さんが、よく勉強ができるからだ。」
とか、そういうことを言ってもきりがない。

実際にそういうこともあるかもしれないけれども、言ってもしかたのないことは言わせない。
子供の時から女々しー人間に仕込むことは、親の罪だ。

だからもしもそんなこと自分の子供から言われちゃったら、
俺は平気で自分の子供をぶんなぐる。

あ、そんな資格ないや、だって、俺は昔、まだ息子が7歳ぐらいの時に、
タバコ買うんで持ち金なくて、その自分の7歳の息子の祖父祖母からもらった金をたかって
タバコ買って、ぷぅーとか煙を吐きながら、その息子に向かって、
あー今日もイップクタバコがうまい!
なぁ~んてぬかしやがった自分が今ここでこんなこと書いてる。

とにかく、そういう言ってもしかたのないこと、は言わずに、
自分のできる範囲内で努力しなくてはいけないんだ。
子どもにとっての悟りの一番目は、
「奪う愛ではなく、与える愛のほうを選ぼう。」ということだ。
そーゆーフレーズはクサイなー子どもはそーゆーセリフ....とかいーんだいーんだうるせー。
今、「クサイことをマジメに考える」こと、ってゆーのは、
いっちゃんナウくていっちゃんダサクないんだ。って言い方ダサイけど。

まず、これをしっかりと親はガキのそのまだ未熟な若い意識のひだに、
しっかりとタネ蒔きをしといて、
将来その花を見事に咲かせてあげるための用意、基盤を築いといてあげないといけない。
とにかく、「過ぎた欲は持たずに、足ることを知ろう。」
ということだ。

あまりごちそうぱかりを食べすぎると、おなかをこわすね。
それと同じで、「自分としては、これで満足だ。」という、
自分にちょうどいい分量というのがあるんだ。

そして、努力というものがある。
自分にふさわしい生き方、努力の仕方を考えていくことだ。
他人の人生を、自分のかわりに生きるわけにはいかない。
「人は人、自分は自分。」なんだ。

自分なりの努力をして、その努力の延長線上で認められるようにしていこうぜべいびー。