なぜ今「貞女」なのか。答えは単純。橋本治氏の著作が読みたかったからだ。何でもよかった。私設図書館の本棚にあったのがこれだった。他にも借りたが、手はじめにこれを読んだ。氏の著作は初めて読む。
思いのほか良かった。氏は例えの出し方が上手。難しいことを難しく言うのはだれでもできる。しかし、彼はやさしく平明な文章で書き表していく。(時々まわりくどい、もって回っていると感じることもあったが。)別に「貞女」の定義はどうでもいい。なりたいともなりたくないとも思っていない。本書を「貞女」云々というより「女性」そして「男性」についての一考察と私は受け止めた。
いくつかなるほどと思ったところを引用する。
<女だって、”いい男”になればいいんです。>
<だって、貞女というものは、そういう風に包容力のある、女の中に住む”いい男”のことを言うものだからですね。”男を分かる”というのはそういうことです。>
<内と外とのバランスを保つ、自分と他人との緊張関係をしっかりと捕まえて、そのことをきちんと把握した上で”思いやり”というような気立てを発揮するーこれは、とっても男性的なことなんですよ。>
氏は、面白い見解を持っていると思った。”女”の中に”男”の部分を持てという。
<女性というものは男性の内面を見ているようで、ほとんど見ていません。>
<相手の内面を見るのではなく、自分の内面を見て、その相手が自分の思惑と合致するかどうかを見る。要するに、自分の思いこみで物事を見るんです。それが女性のものの見方です。>
なかなか鋭い。私自身振り返ってみても、男性に限らず人を「思い込み」で見ていることがあることは否めない。自分の「思い込み」を棚に上げて、「あの人ってこんな人だったの?」と裏切られた感を抱いたりする。
また、男性についてもこのように述べる。
<でも男は、そんなに複雑なものではありません。かえって逆に、あまりにも単純すぎるワガママ小僧のようなものです。そんなものを相手にして、一々相手の気のすむような応対をしていたら、している方がメチャクチャに面倒臭く複雑な人格にならざるをえないという、そんなものです。>
<人間心理が複雑であるという、そういうことさえも分からないぐらいに”男は単純”という、それだけですね。”男”というものは、昔から単純明快をよしとしたものなんですから、男の内面に”複雑”を要求したってしょうがないんです。>
ふううむ、そこまで断言してしまっていいのか。でもそれは真理だと私も賛成の意を表明したい。
また豊臣秀吉をはじめの正妻”ねね”の生き方、『シェルブールの雨傘』の中の登場人物たちの行動を通して、「女の生き方」を氏なりに考察していて面白かった。
また、「貞女の針仕事」の章の中で印象に残ったところを引用する。(この章では昔の女性を引き合いに出して、今の女性と比較している。)
<教養と芸術というものの考え方でいうと、ひょっとしたらみんなとんでもない誤解をしているんじゃないかというところが一つだけあります。それは、教養も芸術も、自分の現実生活と切り離されたところにあるもんじゃないということです。>
<教養といったら応接間に百科事典を飾ることという時代もありましたけど、そんなものを飾ってどうするんでしょう?恥ずかしいのは、百科事典を飾れないー買うお金がない、それを置く応接間がないということではなく、せっかくある百科辞典を引く必要性が認められない生活をしている、それにもかかわらず、それを欲しがるということの方ですね。>
これは要するに<実質>=<存在感・現実感・生活感>が大事ということを述べている。忘れてはいけない視点だと思った。
<苦労というものにはいろんな苦労があります。あまりの激しさに人を押しつぶしてしまうような苦労ともう一つ、その中で人に初めて夢を見ることを許す苦労。
誰だって人間、”甲斐のある苦労”というものをしたいものです。自分のつらい現実を抑えて、そして夢見ることを自分に許すもの、それが本当の人間の”知性”というものじゃないでしょうか?>
一体自分は”知性”を持っているのか?自問する場面であった。
他にもハッとさせられる箇所がいくつかあった。もっと氏の著作に触れ「男」と「女」について考えてみたいと思った。
思いのほか良かった。氏は例えの出し方が上手。難しいことを難しく言うのはだれでもできる。しかし、彼はやさしく平明な文章で書き表していく。(時々まわりくどい、もって回っていると感じることもあったが。)別に「貞女」の定義はどうでもいい。なりたいともなりたくないとも思っていない。本書を「貞女」云々というより「女性」そして「男性」についての一考察と私は受け止めた。
いくつかなるほどと思ったところを引用する。
<女だって、”いい男”になればいいんです。>
<だって、貞女というものは、そういう風に包容力のある、女の中に住む”いい男”のことを言うものだからですね。”男を分かる”というのはそういうことです。>
<内と外とのバランスを保つ、自分と他人との緊張関係をしっかりと捕まえて、そのことをきちんと把握した上で”思いやり”というような気立てを発揮するーこれは、とっても男性的なことなんですよ。>
氏は、面白い見解を持っていると思った。”女”の中に”男”の部分を持てという。
<女性というものは男性の内面を見ているようで、ほとんど見ていません。>
<相手の内面を見るのではなく、自分の内面を見て、その相手が自分の思惑と合致するかどうかを見る。要するに、自分の思いこみで物事を見るんです。それが女性のものの見方です。>
なかなか鋭い。私自身振り返ってみても、男性に限らず人を「思い込み」で見ていることがあることは否めない。自分の「思い込み」を棚に上げて、「あの人ってこんな人だったの?」と裏切られた感を抱いたりする。
また、男性についてもこのように述べる。
<でも男は、そんなに複雑なものではありません。かえって逆に、あまりにも単純すぎるワガママ小僧のようなものです。そんなものを相手にして、一々相手の気のすむような応対をしていたら、している方がメチャクチャに面倒臭く複雑な人格にならざるをえないという、そんなものです。>
<人間心理が複雑であるという、そういうことさえも分からないぐらいに”男は単純”という、それだけですね。”男”というものは、昔から単純明快をよしとしたものなんですから、男の内面に”複雑”を要求したってしょうがないんです。>
ふううむ、そこまで断言してしまっていいのか。でもそれは真理だと私も賛成の意を表明したい。
また豊臣秀吉をはじめの正妻”ねね”の生き方、『シェルブールの雨傘』の中の登場人物たちの行動を通して、「女の生き方」を氏なりに考察していて面白かった。
また、「貞女の針仕事」の章の中で印象に残ったところを引用する。(この章では昔の女性を引き合いに出して、今の女性と比較している。)
<教養と芸術というものの考え方でいうと、ひょっとしたらみんなとんでもない誤解をしているんじゃないかというところが一つだけあります。それは、教養も芸術も、自分の現実生活と切り離されたところにあるもんじゃないということです。>
<教養といったら応接間に百科事典を飾ることという時代もありましたけど、そんなものを飾ってどうするんでしょう?恥ずかしいのは、百科事典を飾れないー買うお金がない、それを置く応接間がないということではなく、せっかくある百科辞典を引く必要性が認められない生活をしている、それにもかかわらず、それを欲しがるということの方ですね。>
これは要するに<実質>=<存在感・現実感・生活感>が大事ということを述べている。忘れてはいけない視点だと思った。
<苦労というものにはいろんな苦労があります。あまりの激しさに人を押しつぶしてしまうような苦労ともう一つ、その中で人に初めて夢を見ることを許す苦労。
誰だって人間、”甲斐のある苦労”というものをしたいものです。自分のつらい現実を抑えて、そして夢見ることを自分に許すもの、それが本当の人間の”知性”というものじゃないでしょうか?>
一体自分は”知性”を持っているのか?自問する場面であった。
他にもハッとさせられる箇所がいくつかあった。もっと氏の著作に触れ「男」と「女」について考えてみたいと思った。