ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

橋本 治著 「貞女への道」 河出文庫

2005-12-05 | こんな本読みました
なぜ今「貞女」なのか。答えは単純。橋本治氏の著作が読みたかったからだ。何でもよかった。私設図書館の本棚にあったのがこれだった。他にも借りたが、手はじめにこれを読んだ。氏の著作は初めて読む。

思いのほか良かった。氏は例えの出し方が上手。難しいことを難しく言うのはだれでもできる。しかし、彼はやさしく平明な文章で書き表していく。(時々まわりくどい、もって回っていると感じることもあったが。)別に「貞女」の定義はどうでもいい。なりたいともなりたくないとも思っていない。本書を「貞女」云々というより「女性」そして「男性」についての一考察と私は受け止めた。

いくつかなるほどと思ったところを引用する。

<女だって、”いい男”になればいいんです。>

<だって、貞女というものは、そういう風に包容力のある、女の中に住む”いい男”のことを言うものだからですね。”男を分かる”というのはそういうことです。>

<内と外とのバランスを保つ、自分と他人との緊張関係をしっかりと捕まえて、そのことをきちんと把握した上で”思いやり”というような気立てを発揮するーこれは、とっても男性的なことなんですよ。>

氏は、面白い見解を持っていると思った。”女”の中に”男”の部分を持てという。

<女性というものは男性の内面を見ているようで、ほとんど見ていません。>

<相手の内面を見るのではなく、自分の内面を見て、その相手が自分の思惑と合致するかどうかを見る。要するに、自分の思いこみで物事を見るんです。それが女性のものの見方です。>

なかなか鋭い。私自身振り返ってみても、男性に限らず人を「思い込み」で見ていることがあることは否めない。自分の「思い込み」を棚に上げて、「あの人ってこんな人だったの?」と裏切られた感を抱いたりする。

また、男性についてもこのように述べる。

<でも男は、そんなに複雑なものではありません。かえって逆に、あまりにも単純すぎるワガママ小僧のようなものです。そんなものを相手にして、一々相手の気のすむような応対をしていたら、している方がメチャクチャに面倒臭く複雑な人格にならざるをえないという、そんなものです。>

<人間心理が複雑であるという、そういうことさえも分からないぐらいに”男は単純”という、それだけですね。”男”というものは、昔から単純明快をよしとしたものなんですから、男の内面に”複雑”を要求したってしょうがないんです。>

ふううむ、そこまで断言してしまっていいのか。でもそれは真理だと私も賛成の意を表明したい。

また豊臣秀吉をはじめの正妻”ねね”の生き方、『シェルブールの雨傘』の中の登場人物たちの行動を通して、「女の生き方」を氏なりに考察していて面白かった。

また、「貞女の針仕事」の章の中で印象に残ったところを引用する。(この章では昔の女性を引き合いに出して、今の女性と比較している。)

<教養と芸術というものの考え方でいうと、ひょっとしたらみんなとんでもない誤解をしているんじゃないかというところが一つだけあります。それは、教養も芸術も、自分の現実生活と切り離されたところにあるもんじゃないということです。>

<教養といったら応接間に百科事典を飾ることという時代もありましたけど、そんなものを飾ってどうするんでしょう?恥ずかしいのは、百科事典を飾れないー買うお金がない、それを置く応接間がないということではなく、せっかくある百科辞典を引く必要性が認められない生活をしている、それにもかかわらず、それを欲しがるということの方ですね。>

これは要するに<実質>=<存在感・現実感・生活感>が大事ということを述べている。忘れてはいけない視点だと思った。

<苦労というものにはいろんな苦労があります。あまりの激しさに人を押しつぶしてしまうような苦労ともう一つ、その中で人に初めて夢を見ることを許す苦労。
誰だって人間、”甲斐のある苦労”というものをしたいものです。自分のつらい現実を抑えて、そして夢見ることを自分に許すもの、それが本当の人間の”知性”というものじゃないでしょうか?>

一体自分は”知性”を持っているのか?自問する場面であった。

他にもハッとさせられる箇所がいくつかあった。もっと氏の著作に触れ「男」と「女」について考えてみたいと思った。



ドキドキボランティア

2005-12-05 | 学校
米国の小学校では、保護者がボランティアのため学校に赴くことが多い。私も何かせねばと思い、年度の初めに希望日時を申請した。といっても英語に自信がないので、友人と一緒の日時に希望したのだが。

しかし、後日配布されたボランティアの日程表には「ひとりづつ」組まれている!気をつかって、友人のKさんは、先生に連絡を取ってくださった。「2人で行ってもいいですか?」「今回は、コピーとりなのでお一人でいいですよ」というようなやりとりがあったのだろう。

結局私は、その日ひとりで学校へ向かうこととなった。オフィスに寄って、所定の用紙に「名前」「用件」「先生の名前」「入校した時間」を記入する。2階にある教室へと向かう。先生が一人で仕事をされていた。その足で同じ階にあるコピー室へと向かう。

本日の仕事は、予告通り宿題のコピーとりだった。先生が見本を見せてくださった。コピーの電源を入れ、先生のID番号を入力する。それから小さい原稿をまずコピーし、名前の欄をつくる。それから、もう一枚の紙と一緒に両面コピーをする。それを児童の人数分24枚ずつコピー。クリップでとめて完成。それを、1週間5セット×3週間分の計15セット。

先生は当然英語で説明される。私は必死に先生の手元を「見る」!この際「耳」は不要だ。
「ボランティアなのだ。先生のお手伝いをするために来ているのに、かえって先生の時間をとらせてはいけない!」というプレッシャーがあった。というより、わからないところを「質問」できないし、やたらに聞いても聞き取れない。というのが本音なのだが。


「わかりましたか?」「はい」とにこやかに答えた。内心ドキドキだ。「本当に理解したのか自分?」という声が聞こえる。
「You are smart.」なんて言われて、気をよくした私。もう後には引けない。先生は教室へと戻って行かれた。

わかったつもりでも、実際やってみると理解していなかったということは往々にしてある。今回も、何回かミスプリをしてしまった。恥ずかしながら両面コピーというのも初めての経験だ。コピーボタンも英語だしー!(だから当たり前だっつーの!。何度もすみません)

どうにかこの作業を、予定されていた1時間でやり終えることができた。しかも1度も先生に助けを求めることなく。私は低次元のレベルだが充足感を得た。やればできるじゃない!でも、私は内心決心した。ボランティアをするなら、「引率」に限るかも!もう少し込み入った作業のボランティアだったら・・・と思うと心臓によくない。