Science avec patience

L'automne deja!(Rimbaud)

文七と赦し

2018-10-18 21:39:50 | 文芸

文七元結という落語が好きなのだが、長兵衛から受け取った金のことをはじめ正直に言わなかった文七があっさり許されて 「真面目な人間」として暖簾分けを許される結末になるのかがちょっと疑問だった。 疑問にいる人は他にもいるらしくサンキュータツオさんの考察なんか結構面白い。



これと最近自分の頭の中でゆる〜く繋がったのが、新約聖書に出てくる譬え話「罪を赦さない召使い」であった(マタイ18章21−35)
というかこの箇所を読んで考えていた次の朝、とある友人からメールが入っていて、僕が昔文七元結の疑問について語ったことを話題にしていた、という偶然。

いつの間にか一生かかっても返せないほどの借金を主人に対して負ってしまった召使いが、ひれ伏して猶予を願う。
それに対して「哀れみに心を動かされた」主人が、借金を棒引きにする。
安心して外に出た召使いは、自分に対して(4ヶ月ほどの賃金に当たるらしい)借金を負う同僚に会う。
相手はこれまたひれ伏して哀願するのだが、彼は主人のように許すことはせず牢屋に入れてしまう。
これを見た他の召使いたちの訴えを聞いて主人は怒り、この召使いを今度は牢屋に入れ、先ほどの借金を返すまで、と、’拷問を加える。

話の後半は勧善懲悪的というか、まあ、地獄落ちということでいかにも恐ろしいのだが、前半、主人が「哀れみに心を動かされて」召使いを赦す、というのが面白い。
というか、「赦す」という行為が、過ちを犯した人間と苦しみを共にすることを伴うわけである。
「わたしの天の父上も、もしあなた達ひとりびとりが心から兄弟を赦さないならば、同じようにあなた達になさるであろう。」とあるけれども、
「心から」というのがそういう意味であるなら、まさに神様でもなければ究極的に不可能な行為であるように思った。

それでも文七元結の主人や長兵衛の行為には、やり損なった人間と苦しみを共にするようなところがあるようにふと思った。
まあ、長兵衛は自分がやりそこなってしまった人間であるし、長兵衛が与えたのは赦しではなくお金そのものであり、
主人に至ってはなんで許したのかは結局のところ分からない。長兵衛の行為に感銘を受けて、
倫理的な判断というより「江戸っ子の美学」的に面白いから全てを許した、というところなのだろう。
しかし、長兵衛と文七、二人のやり損なった人間が悔い、恥じる姿に、普段の世間一般の常識を超えた解決が提示される、というところに、
人間が救いを必要とする場面に何か普遍性があるのではないか、ということをふと思った。
こうやって書いてみると、やはりちょっと強引だけど(笑)

談志師匠は落語を「人間の業の肯定」と言ったそうですが、自分は弱い人間に寄り添うあり方が一番好きなところかな。

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