中高の頃かなりハマっていたロックバンド、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーを主人公にした伝記映画、ボヘミアン・ラプソディを先月観てきた。
アメリカでは批評家ウケがかなり悪く、フレディのクイア性について語るのを避けている、あるいは貶めている上に物語として表層的すぎ、
という評価が多いようなので心配だったのだが、個人的にはとても楽しめ、やはり最後は泣いてしまった。
まあ確かに展開は早すぎるし、視覚的には終始ソフトで無難、そして色々とフィクションが加わっているのだが、
「クイーン紹介映画」としては最適なものになっているのではないかなと思った。
フレディは自分について直接語るのをあまり好まなかった人のようである。
ゲイ(あるいはバイセクシュアルであること)についてもおおやけにカミングアウトしたことはなかったし、ザンジバルのパールシー出身としての出自についても進んで語ろうとはしなかったはず。
ファルーク・バルサラとしての名前を棄て、「フレディ・マーキュリー」を名乗ったのにもそういう理由が。
もっとも同性愛者であることはすでに公然の秘密だったし、MVや衣装を通じて当時のゲイとよく判りそうな表現をしていたし、
彼の何重ものマイノリティとしての苦悩や孤独は改めて読み返すと驚くほど私的な、でも芸術作品として昇華された歌詞に表されている。
ボヘミアン・ラプソディ自体そういう歌なんですよね。
だからこの映画をどう捉えるかは、彼の人生と作品との関係をどう捉えるか、ということでもあるのかもしれない。
フレディが私生活についてあまりおおやけにしなかったのは、
一つにはエンターテイナーとして、その作品を生み出し表現する自分こそが重要だったからだ、と考えることもできる。
その視点からすると、この映画はフレディを描くことに「成功」しているのじゃないか。
いろいろとフィクション化されたりぼやかされたりはしているが、彼の私生活での苦悩は十分垣間見られるようになっている。
だからこそ「自分」を表現しながら「普遍的」な何かに到達し、カリスマ性を帯びる彼の表現が胸をうつ。
(とはいえ主演のラミ・マレックは繊細で優しく傷つきやすい面を体現しすぎていて、カリスマ性という意味では全然足りない気がしたのだが、
しかし無理に真似しようとするよりもよかったのかもしれない)
とはいえこれはこれでマジョリティがマイノリティの苦悩を消費する能天気なやり方なのだ、と言われれば、
そうなのかもしれないな、とも思う。
(例えばこういう記事。)
今の時代、スターがセクシュアリティをカミングアウトしたり、マイノリティとしての出自について語ったりするのは、
そこにいろんな困難が伴うとしてもかなり受け入れられるし、エンターテイナーとしての「物語性」に寄与する面もある。
でもクイーンの活躍した70年代・80年代はもっともっと保守的だった時代で、マイノリティが直面した苦難はもっと深刻なものだった。
我々が物語として好むような、「逆境を乗り越え大衆に受け入れられたマイノリティのスター」という物語に回収できるものじゃない、
という意見もわかる。
フレディの命を奪ったエイズも、80年代にゲイコミュニティを襲い、パニックをもたらした、そのことを考えても。
あの時代、嫌われ、迫害され、あるいは嘲笑の対象となり、あるいはなきものにされていた存在を、
今になって一人のスターだけを取り出し、「彼はマイノリティとしてのアイデンティティを超えた存在だから」とうまく浄化した上で、
自分たちの好む物語の主人公として祭り上げるのが許しがたいことだ、ということなんじゃないかと。
アメリカでは批評家ウケがかなり悪く、フレディのクイア性について語るのを避けている、あるいは貶めている上に物語として表層的すぎ、
という評価が多いようなので心配だったのだが、個人的にはとても楽しめ、やはり最後は泣いてしまった。
まあ確かに展開は早すぎるし、視覚的には終始ソフトで無難、そして色々とフィクションが加わっているのだが、
「クイーン紹介映画」としては最適なものになっているのではないかなと思った。
フレディは自分について直接語るのをあまり好まなかった人のようである。
ゲイ(あるいはバイセクシュアルであること)についてもおおやけにカミングアウトしたことはなかったし、ザンジバルのパールシー出身としての出自についても進んで語ろうとはしなかったはず。
ファルーク・バルサラとしての名前を棄て、「フレディ・マーキュリー」を名乗ったのにもそういう理由が。
もっとも同性愛者であることはすでに公然の秘密だったし、MVや衣装を通じて当時のゲイとよく判りそうな表現をしていたし、
彼の何重ものマイノリティとしての苦悩や孤独は改めて読み返すと驚くほど私的な、でも芸術作品として昇華された歌詞に表されている。
ボヘミアン・ラプソディ自体そういう歌なんですよね。
だからこの映画をどう捉えるかは、彼の人生と作品との関係をどう捉えるか、ということでもあるのかもしれない。
フレディが私生活についてあまりおおやけにしなかったのは、
一つにはエンターテイナーとして、その作品を生み出し表現する自分こそが重要だったからだ、と考えることもできる。
その視点からすると、この映画はフレディを描くことに「成功」しているのじゃないか。
いろいろとフィクション化されたりぼやかされたりはしているが、彼の私生活での苦悩は十分垣間見られるようになっている。
だからこそ「自分」を表現しながら「普遍的」な何かに到達し、カリスマ性を帯びる彼の表現が胸をうつ。
(とはいえ主演のラミ・マレックは繊細で優しく傷つきやすい面を体現しすぎていて、カリスマ性という意味では全然足りない気がしたのだが、
しかし無理に真似しようとするよりもよかったのかもしれない)
とはいえこれはこれでマジョリティがマイノリティの苦悩を消費する能天気なやり方なのだ、と言われれば、
そうなのかもしれないな、とも思う。
(例えばこういう記事。)
今の時代、スターがセクシュアリティをカミングアウトしたり、マイノリティとしての出自について語ったりするのは、
そこにいろんな困難が伴うとしてもかなり受け入れられるし、エンターテイナーとしての「物語性」に寄与する面もある。
でもクイーンの活躍した70年代・80年代はもっともっと保守的だった時代で、マイノリティが直面した苦難はもっと深刻なものだった。
我々が物語として好むような、「逆境を乗り越え大衆に受け入れられたマイノリティのスター」という物語に回収できるものじゃない、
という意見もわかる。
フレディの命を奪ったエイズも、80年代にゲイコミュニティを襲い、パニックをもたらした、そのことを考えても。
あの時代、嫌われ、迫害され、あるいは嘲笑の対象となり、あるいはなきものにされていた存在を、
今になって一人のスターだけを取り出し、「彼はマイノリティとしてのアイデンティティを超えた存在だから」とうまく浄化した上で、
自分たちの好む物語の主人公として祭り上げるのが許しがたいことだ、ということなんじゃないかと。
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