緋野晴子の部屋

「たった一つの抱擁」「沙羅と明日香の夏」「青い鳥のロンド」「時鳥たちの宴」のご紹介と、小説書きの独り言を綴っています。

小説の森で - 7.小説の面白さ

2017-07-05 16:27:26 | 文学逍遥
「青い鳥のロンド」の出版で日々が慌ただしく過ぎ、はや一箇月にもなる。出版というのはいつも、いやな疲れを伴うものだ。それはたぶん、物書きとしての本来の努力とは違う努力を強いられるからだろう。それが長く続くと、私はいったい何をやっているんだろう? という、一種の鬱気分になる。だからきょうは少し小説の森に戻って、心を休めてこようと思う。


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 小説の森に朝陽が差しこんで、木々の梢に溜まった白露が美しく輝いている。それぞれの作家の魂のようだ。ああ、やっぱりここはいい。もしもこの森がなかったならば、人生はどんなに味気なく孤独なものだったろうか。この異形の森はまた、魂の救いの森でもあるのだ。
 
 人々が小説を好んで読むのは、そこに「面白さ」というものがあるからだろう。けれど、それがどんな面白さかは、一言で括れるものではない。「青い鳥のロンド」への読者評の違いの大きさを見るにつけ、そのことを考えざるを得ない。きょうはそのあたりを紐解いてみることにしよう。
小説の面白さというものを、いくつかあげてみる。

 
 1.共感・癒しの面白さ

 人は本来的に孤独な生き物で、独りが辛くて寂しいものだから、登場人物や小説世界に共感できるということはとても嬉しいことで、「自分だけではない」と感じることが面白さにつながる。緋野の知人には、小説に「救われた」と言う人もいた。太宰治や村上春樹のような、時代や世代の心性を代表したような作品がよく売れるのは、こういう面白さがあるためだろう。
 
 2.未体験の世界への興味

 例えば古いところでは、広津柳浪『黒蜥蜴』。平凡な生活においては理解しがたい、特異な人間の心理を解釈してみせる小説。湊かなえの『告白』などもここに入るだろうか。
そこまで特異でなくとも、数ある私小説や伝記的小説、ファンタジー、歴史物など、ほとんどの小説が持っている基本的な面白さはこれだろうと思う。その程度に違いがあるだけだ。
 
 3.詩的(美的)世界への陶酔とカタルシス
 
 小説は言葉を使った美術品であり、芸術によるカタルシスを旨とする、という明確な価値意識を持った作品群がある。元祖は森鴎外さん。『舞姫』以下の三部作がそれだ。近年では宮本輝の『泥の河』なども、鴎外の浪漫とは趣きが異なるけれども、やはりこの系列に属すると思う。
これらの作品の特徴は、もう圧倒的に悲劇であることが多いということだ。人は悲しみの多い生き物で、悲劇的な詩情に陶酔することには、自己の悲しみを和らげる作用がある。
 
 4.精神への刺激の面白さ

 小説世界が投げかけてくるものによって読者の精神の均衡が乱され、思わず自己や世界やその関係を見つめなおしたくなるという面白さ。芸術的なところでは深沢七郎『楢山節考』、近年では川上未映子『ヘヴン』などがそれに当たるだろうか。あとは、芥川龍之介・豊島与志雄・菊池寛など、新赤門派と呼ばれた人たちのテーマ小説がそれだろう。

 5.ストーリーのうねりの面白さ

 物語の複雑さと言い換えてもいいかもしれない。入り組んだ人間関係や波乱万丈の面白さだ。代表選手は、それはもうなんと言っても谷崎潤一郎だろう。「細雪」などそれしかない小説だと思うけれども、人は結局、そういう世間のごたごた話が好きなのだ。それが洗練された文体で書かれているから、ついつい読まされてしまう。職人的なもの書きだと思う。

 そういえば、谷崎と芥川との間で論争になったことがあった。谷崎が『饒舌録』の中で創作について、「嘘のことでないと面白くない。素直なものよりヒネクレタもの、無邪気なものより有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好く」と書いているのに対し、芥川は谷崎を、奇抜な筋にとらわれすぎると批判し、『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、「小説の価値は話の長短や奇抜さで決まるものではない。・・・肝心なのは、その材料を生かす為の詩的精神の如何、深浅である。話らしい話のない小説は、あらゆる小説中、最も詩に近い小説である。最も純粋な小説である」と言っていた。私は芥川のいう詩的小説のほうが好きだが、さて、一般読者はどう感じるだろうか。
 ともあれ、ストーリーのうねりの持つ面白さを否定することはできないだろう。
 
 6.謎解きの面白さ

 謎というのはどうしても知りたくなるのが人間で、そのために次々とページをめくることになる。言うまでもなく推理小説・探偵小説の面白さはそれだ。これらの主眼は謎解きや推理だから、文学からは最も遠い小説だろう。最近は謎解きと人生観照を兼ねた中間的な小説が増えたようだけれども、謎解き・推理の比重のほうが高いければ、それらはやはり詩(芸術)にはならない。
 ちなみに緋野は、解かれないままに残る小さな謎というものが好きだ。この世界そのものが謎に満ちているように、解かれずに残る謎は、小説世界の奥行きを広げてくれるように思う。
 
 7.現実への興味

 山崎豊子さんと言えば、誰もが、ああ確かにと、理解するのではないだろうか。彼女の小説を、緋野はそれこそむさぼるように読んだ。そして、もっとも面白い小説は、もっとも現実に近い小説だという思いを強くした。しっかりした取材に裏打ちされたノンフィクション的小説には迫力がある。目に見える事実の奥に隠されている膨大な真実が、小説世界を通して手にとるように分かるというのは、とても面白いものだ。

 

 ただし、取材した事実に比重がかかりすぎると、それは小説にはならない。山崎さんの小説にも正直なところその傾向は感じている。『沈まぬ太陽』を読んだ時、彼女は小説家というよりも、基本的に記者なのだと思った。小説としては物足りないものがある。

 8.奇抜性・意外性への興味
 
 「夜は短し歩けよ乙女」という変わった小説が賞を取ったことがあった。奇想天外なありえない話と、単純なことをいちいち大仰に表現する、まるで大学生の言葉遊びを思い出させるような奇抜な文体で、500枚も書き抜いたあの饒舌には脱帽する。もちろん、奇抜だっただけではない。青春と言う馬鹿げた季節の面白みの中に、誰にも覚えのある恋の純情が、胸に届く作品だった。
 けれど、何ということもないテーマで、普通に書けば、きっと注目されなかったことだろう。話や表現の奇抜さを、人はやはり面白いと思うのだ。ラストのどんでん返しの手法なども、これに入るだろう。
 近年の小説はどんどんこの方向に傾いているような気がするが、私は、これは新しいというより復古だなと思って眺めている。江戸時代の南総里見八犬伝のような、戯作の方向だ。商業主義時代の小説大衆化は、結局ここに行き着くのだろうか。

9.作家その人への興味
 
その作家の感性・思考内容に刺激され、そこに面白みを感じるという、エッセイ小説などがその一つだろう。夏目漱石や、現代では万城目学さんの小説などもそれに当たるかもしれない。こうした、作者の主観を盛り込んだ小説は、武者小路が漱石の作品について指摘したように、読者が出来事から直接受ける主観より作者の主観のほうが優れている、もしくは特殊である場合にのみ成立する書き方である。作家その人の内面の魅力に負うところが大きく、底の浅い者がまねをして書いたり、主観の織り込み所を誤ったりすれば、読むに耐えないものになることだろう。

また日本文学の伝統であった私小説も、あれだけ読まれてきた大きな動機は、作家その人への興味だったのではないかと思う。かの時代の小説家たちには、己の事実を隠すことなく、大胆に、ありのままに、技巧を弄せず描くという、腹の据わったところがあった。岩野泡鳴などは、自己の生活そのものが芸術であるとまで言いきっている。けれど、作家たちは真剣に芸術だと思っていたようだけれども、これは読む側からすれば、人の生活の実態を覗くということであって、実はスキャンダル的な興味が大きかったのではないかと、私はひそかに思っている。
 それにしても、『兎にも角にもこれが人間現在の実情だ』と、我が身の真実を臆せずぶつける私小説。その振り回す鉄棒の打撃力には、震撼せざるを得ない。事実の重みが強烈に迫ってくる、恐るべき小説だ。
ただ、それは一方で、誰かを傷つけることがあるかもしれない小説で、緋野には一生書けそうもない。

          
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ということで、小説の面白さの要素を挙げてみたが、まだまだ他にもあるかもしれない。大衆小説や中間小説の木々が乱立しているこの森に、文学の樹を探す、あるいは植えようとする時、それが読まれる文学であるためには、これらの面白さを文学の中にどう織り込んでいけばいいのか、それが私のもっとも悩むところだ。
 ともあれ、きょうは久しぶりに自分の場所に戻ってきたような気がして気分がいい。少しエネルギーが蘇ってきた。そうだ、小説は読まれるために書かれるのだから、「青い鳥のロンド」は、その読者さんたちの手に届けられなければならない。もう少し頑張ろう。

 


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