小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「マララさんにノーベル平和賞を今年こそ」の声を日本から世界に向かって発信しよう。 都知事選はどうなる?

2014-01-09 07:14:57 | Weblog
 昨夜7時半、NHKの『クローズアップ現代』を見た。涙をこらえきれなかった。見た直後、日本から「マララに今年こそノーベル平和賞の声を世界に発信を」と読者に呼びかけたいと思い、とりあえず資料だけ集めておこうと放送終了直後に「マララ」で検索をかけた。驚くべきことにすでに無数の書き込みがされていた。多くは同感した女性の書き込みだったが、男性の書き込みも少なくなかった。私がこの記事を投稿する時には書き込みは1000をはるかに超えているのではないか。
 読者の多くも覚えておられると思う。彼女が16歳の時の昨年、ノーベル平和賞の史上最年少候補者になったことを。残念ながら、選に漏れたが、日本では山中伸弥教授のips細胞研究のノーベル賞受賞一色に湧き上がり、マララ・ユサフザイさんのことはたちまち世間の話題から消えてしまった。
 昨日『クローズアップ現代』を見た方は読み飛ばしていただいていいマララさんのことを、見ていなかった方のためにかいつまんで紹介しておこう。読み飛ばす方のために、前後に1行空ける。

 マララさんは11歳の時の2009年、タリバンによって次々に女子校が爆破され、女子生徒が教育の機会を奪われていくことに怒りを覚えてブログを書き、世界に向かって「女性が教育を受ける権利」を訴えた。ブログはペンネームで書いたが、パキスタン政府が本名を公表して「勇気ある少女」として表彰したため武装勢力に狙われ、12年10月9日、中学校から帰宅のためのスクールバスを襲われ頭部と首に2発の銃弾を受けて重傷を負った。生命の危機に瀕したが、英バーミンガムの病院で数度の手術受けて命と思考力を奇跡的に回復し、国連総会で演説の機会を与えられたり、オバマ大統領やエリザベス女王と面会するなど、マララの悲痛な訴えは世界中に大きな波紋を呼んだ。
 『クローズアップ現代』では国谷裕子キャスターとのインタビューで「銃や弾丸でペンの力を封じることはできない」と熱く語り、彼女の世界中を飛び回っての活動について国谷キャスターの「名声を得るため、という声もありますが」とちょっと意地悪な質問に対しても動ぜず、「どう思われてもいいんです。女性の権利が男性と平等になれば」と答えた。

 女性が男性と平等の権利を獲得するための闘いは、アメリカでも古くからあった。「レディーファースト」という行動そのものが、実は女性を見下す行為なのだが、男女同権の原則が確立した現在でも、いったん作られてしまった「マナー」はなかなか崩れない。「レディーファースト」は女性の考えや主張を尊重あるいは優先するということではなく、ちょっと言い過ぎかもしれないが、女性はか弱くかわいい存在だからペットのように保護してあげようといった女性
蔑視思考の裏返しだと私は思っている。
 日本でも女子学校が誕生したのは、女性にも教育の機会を、という考えが生じた明治維新以降のことだ。だから、高校までは私立校では今でも男子校、女子校があるが、大学は女子大はあっても男子大はない。
 なぜ女子大があって男子大がないのか、疑問に思った読者はいるだろうか。私はそういう、だれもが不思議と思わず受け入れていることに、なぜか疑問を持ってしまう。自分でも、ときには「いやな性分」と思い知らされることもあるが(それが原因で家族内で確執が生じたり、友人たちが離れていったりしたこともある)、「赤子の魂百までも」ではないが、この性分は多分死ぬまで変わらないだろう。でも、少なくともそうした性分を持っていない人はジャーナリストになる資格はない、と私は信じている。
 マララのことを書こうと思うと、昔と違って今はほとんどの疑問はネット検索することで調べられる。『クローズアップ現代』を見て感動するだけでなく、たちまちいろんな疑問が湧いてくる。私がとりあえずこのブログを書くため検索したキーワードは「マララ」のほかに「タリバン」「男女平等」「レディーファースト」「女子大」などだった。
 今日はあまり時間がないので、私の思考法というか、考え方のプロセスは次回に公開するが、要するに日本人の99.999…%当たり前と思い込んでいることに疑問を持つことがものすごく重要で、疑問を持ったらその疑問を解くためのキーワードを思い付けば、論理的解明はほぼ完成する。そういう意味では人類はインターネットというものすごいものを発明してしまったなと感心してしまう。学校教育はこれから知識を身に付けることを重視するのではなく、インターネットの活用法を教えることに教育の重点を移した方がいいと私は思っているが、そのこともまた別の機会に書くことにする。ただ、学校の先生にそういうことを期待しても、ないものねだりか…。
 とりあえず時間がもうないので、読者の皆さん、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・メディアを使って「今年こそマララにノーベル平和賞を!」の声を世界中に発信しようじゃないか。それが、いまアメリカからも「失望した」と批判された安倍総理の靖国参拝によって高まった日本に対する汚名をそそぐ最善の道だと思う。
 
 ついでに『クローズアップ現代』の前のニュース7では都知事選の立候補者の顔ぶれがほぼ決まったと報じた。宇都宮健児・元日弁連会長の出馬はかなり前から決まっており、共産、社民が支持するという。また田母神俊雄・元航空幕僚長の出馬表明も報道され、自民の動向が注目されていた外添要一・元厚労省大氏も出馬の意向を固め、今日自民都連幹部との政策協議を行い自民は外添支持を表明する模様。あとは毎度おなじみの顔だが、「発明家」のドクター中松氏も出馬を表明、どんな奇抜な選挙運動を繰り広げるのか「見てのお楽しみ」といった感じ。国政では野党第一党の民主党は維新やみんな、江田新党などとの連携もできず独自候補も立てられない始末、NHKは民主は外添氏の支援に回るのではないかと推測報道したが、今朝の朝日新聞を見てびっくり。細川護煕・元総理が出馬を目指してほぼ資金面などの準備を終え、「脱原発」をキーワードに小泉純一郎・元首相との連携を模索しているという。民主は政党の体を成していないことがここでも明らかになったが、支持候補を外添氏から急きょ、細川氏に乗り換えるようだ。宇都宮健児氏は立候補声明で、やはり「脱原発社会」を目指すことを表明しており、東京オリンピックは選挙の争点にならないから原発問題が争点に急浮上する可能性が出てきた。
 これで嬉しくなったのは実は私。小泉元総理が「脱原発」を突如訴え始めた時にかなり長いブログ記事を書いたが、昨年までは閲覧数が減りだすまではブログを更新しないことにしていたため、いつのまにか「脱原発論争」が立ち消えになってしまい、私のブログ記事は賞味期限を過ぎてお蔵入りしていたのだが、ひょっとすると復活できる可能性が生じた。めでたし、めでたし。
 一言だけ現段階での感想を述べておくと、東京都には原発は1基も存在せず、電力を一番消費しているのは、その東京都だ。つまり原発の恩恵を一番こうむっているのが東京都で、新都心(今はもうそんな言い方はしないか)・新宿にそびえ立ち関東一円を睥睨している二つの都庁タワーのエレベーターの職員利用を禁止することから始めてもらいたいものだ。もちろん都知事は知事室からの出入りは健康のためにも階段をご利用されるつもりなのだろうが、警備体制はバトン・リレー方式にするより方法はない。

 今日は中途半端なブログになってごめんなさい。でも、ブログを土休日を除えて毎日更新するとなると、たぶん日記風な記事が多くなると思う。もう出かけなければならないので、またあした。

安倍総理の靖国参拝はなぜ国内外から袋叩きにあったのか。「説明すれば分かってもらえる」が虚しい。

2014-01-08 05:39:26 | Weblog
 正月休暇明けの6日に投稿したブログ『安倍総理の集団的自衛権行使への憲法解釈変更の意欲はどこに…。 積極的平和主義への転換か?』が、gooのサーバーに問題が生じたため、夕方にならないと投稿できなかった。そのため昨日(7日)投稿する予定だった今回のブログは急きょ今日の投稿になった。安倍総理が突然言い出した「積極的平和主義」なる新概念が何を意味しているのか、総理自身が口を閉ざしているため私が大胆な推測をしたのが前回のブログである。結果的に長くなりすぎて、毎日投稿するお約束をした以上、読者の負担を考えると2回に分けて投稿すべきだったと思うが、今さらやむを得ない。日本の将来を左右しかねない問題だけにまだ読まれていない方はぜひ読んでいただきたい。

「独りよがり」という言葉がある。自分の考えや信念が正しいと勝手に思い込み、周囲の情況や他人の声に耳を傾けずに行動することを指す。安倍総理が女房役である菅官房長官の「今は時期が悪い」との助言にも耳を傾けず、昨年12月26日「突然」靖国神社参拝を強行したことだ。12月26日という日に特別の意味があったわけではない。終戦の日でもなければ、靖国神社の恒例の行事があった日でもない。ウィキペディアで調べても、安倍総理がごひいきの巨人軍の設立記念日か、第二次安倍内閣が前年発足した日というくらいしか該当しそうな日ではない。
 全国紙5紙の論調も産経新聞を除いてはこぞって批判の大合唱だ。とくに政府の政策については論調が対峙することが多い読売新聞と朝日新聞の2大紙がほぼ共通の認識を示したことの意味は大きい。
 産経の主張ははっきり言って論評に値しない。「多くの国民がこの日を待ち望んでいた」と根拠も示さず主張した。こういうのも「独りよがり」という。
 現職総理の靖国参拝は2006年8月15日(終戦記念日)の小泉総理以来である。このときは中韓との領土問題も生じていず、考えようによっては8月15日は「不戦の誓い」を国を挙げて行ってもいい日だ。ただ靖国神社への参拝が「不戦の誓い」にふさわしいかどうかは別である。
 海外の反応について、中韓が厳しく反発することは安倍総理も当然、予想していたであろう。総理にとって「想定外」だったのは米政府の反応である。これまで日本の総理の靖国参拝については、米政府はあえて干渉することを避けてきた。が、昨年10月にケリー国務長官とヘーゲル国防長官が来日した際、氏名不詳で遺族に渡せない戦没者の遺骨を千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納めて献花したのは、いまから考えると安倍総理が日ごろから「第1次安倍内閣時に靖国参拝ができなかったことは痛恨の極み」と公言していたことから、安倍総理の靖国参拝は米政府にとっては「想定内」のことであり、だから敢えて千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて安倍総理に「靖国参拝を強行して、いたずらに中韓との摩擦を拡大するな」という米政府の意思を暗黙に伝えたかったのかもしれない。実際米政府は安倍総理の靖国参拝の報に接し「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望している」という異例の声明を発表した。
 政府要人の靖国参拝が外交問題にまで発展するようになったのは、1078年10月に靖国神社がA級戦犯を「昭和殉難者」(国家の犠牲になった人)として密かに合祀していたことを1年後に朝日新聞がスクープして以降である。それまでは不定期に靖国参拝をされていた昭和天皇も、その事実を知って以降不快に思われて参拝を取りやめられた。今上天皇をはじめ皇族の方々も靖国参拝を控えておられる。
 靖国神社は一宗教法人であり、だれを「昭和殉難者」と判断するかは神社の
自由であると言えば、その通りである。またいわゆる東京裁判は戦勝国が敗戦
国の戦争責任者を犯罪者として裁くことは国際法上も認められないという議論もある。
 私自身は、死刑に値する戦争犯罪者の定義を「国際法に対する重大な違反行為の実行を指示した最高責任者、とくに人道的に許されない無差別かつ残虐な大量殺戮行為を指示した最高責任者」と考えている。そういう厳密な解釈によれば、該当するのはユダヤ人大虐殺を指示した独ヒトラーと世界で最初の原爆投下を指示して無差別大量虐殺を行った米トルーマンの二人だ(先の大戦時に限る)。日本の場合、もし問われるとしたら南京大虐殺が本当にあったとして、その行為を指示した特定できる最高責任者が判明した場合だけである。日本帝国海軍による真珠湾攻撃を国際法違反とする主張があるが、事実は日本の駐米大使であった野村・来栖大使の怠慢により宣戦布告を攻撃前に行わなかったことが問題で、この違反行為に対する処罰は日本の国内法で裁かれるべきことだ。
 敗戦そのものの最高責任者は、組織を前提に考える限り昭和天皇にあることは疑いを容れず、本来は昭和天皇が即時退任して今上天皇に交代すべきだったのだが、当時の憲法(現憲法も変わっていないが)の規定で「一世一代」と定められており、憲法上退任が出来なかったこと、また急きょ憲法を改正して天皇の交代を行えるようにしたとしても今上天皇が当時まだ12歳と若すぎて即位は無理という事情があったためと私は考えている。
 前にもブログで書いたが、常に戦争に置いては「勝てば官軍、負ければ賊軍」であり、「敗戦の将、兵を語る」ことは自らの責任回避に当たるとして許されないというのが、論理的妥当性の有無は別として、歴史的に定着した価値観である。その視点に立てば、東京裁判で裁かれたA級戦犯の戦争責任については日本の歴史家や法律家がきちんとした検証をすべきだとは思うが、靖国神社がそうした検証もせずにA級戦犯を「昭和受難者」として実際の戦没者と同等に扱って合祀するなら、小林多喜二・岩田義直・野呂栄太郎氏ら獄中で拷問死した人たちのほうがはるかに「昭和受難者」の名にふさわしい(言っておくが、私は彼ら犠牲者の思想に同調しているわけではない)。
 靖国神社は、戦時中の位置づけとは異なり、現在は一宗教法人に過ぎない。しかも合祀された「昭和受難者」の解釈も一般国民には到底容認できるものではない。安倍総理が「国のために戦い、戦場で没した英霊に対し尊崇の念で慰霊したい」というなら、その場所は靖国神社ではなかろう。
 確かに中韓が国内事情のためにことさら靖国問題を外交上の問題として過大視するのはいかがなものかという思いもあるが、さらに中韓に日本に対する国民感情を悪化させる口実を、ただでさえ領土問題で緊張を高めつつある情況の中で与えるというのは、一国の指導者としての資格が問われてもやむを得ないだろう。
 私自身は実はこれまで、安倍総理のリーダーシップを高く評価していた(ブ
ログにはことさらには書かなかったが、外交・国内問題に対して決して逃げようとせず立ち向かってきた姿勢を、記事の行間に込めて書いてきたつもりだ)。が、この時期の靖国参拝で、残念ながら私の安倍総理への評価は180度ひっくり返さざるをえなくなった。
 そもそも安倍総理は「リーダーシップを発揮する」ということの意味をまったく理解していないのではないだろうか。指導者は確固たる信念を持つことは大切だが、周囲のことを無視して、自分の固有の信念に基づく行為を強行することがリーダーシップの発揮ではない。戦没者の霊に対する尊崇の念と感謝の気持ちは私にもあるが、それは私自身の心の中にあるもので、私がその思いを表すために靖国神社に参拝しても何の問題も生じないが、一国の首相にはそういう自由はない。首相の行動は、国の方針と取られるのが国際社会の常識である。安倍総理の説明には、私も一定の理を認めるにやぶさかではないが、その思いが国際社会から素直に受け止めてもらえる情況にあるのかどうか、その一点に思いを致してから行動に出るのが真のリーダーシップというものであろう。

安倍総理の集団的自衛権行使への憲法解釈変更の意欲はどこに…。 積極的平和主義への転換か?

2014-01-06 15:20:35 | Weblog
 とりあえず昨年末の今年最後のブログ『政府の税制改正大綱で露呈した、戦時中と変わっていなかったマスコミの体質』の末尾で読者の皆さんのお出しした「お年玉」――台形の面積を公式を使わず計算する方法を文章で書け、という問題に対する回答はコメントには見つけることが出来なかった。残念。
 しかし私の友人が、メールで送ってきた。答えが間違っているのではないかと思い、コメントに書くことを遠慮したようだ。が、友人がメールで送ってきた答えが大正解だった。友人の答えを一言一句変えずに無断転記する。「同じ台形を用意して上下逆さまにして付けると平行四辺形になるので、高さと横の長さで平行四辺形の面積がわかるので、付けていた台形を元に戻せば面積の出来上がり! うーん、これはただ公式を解説しただけのような気がしますね…」
 なーんだ、それが正解なら私にも分かっていたとおっしゃる読者も多いと思う。要するに私が執拗に論理的思考力を強調してきたのは、物事を複雑に考えず、単純かつ素直に考える習慣を読者に身に付けてほしかったというのが「お年玉」を差し上げた目的だったのである。
 実は私はかつて『小学校5年生に台形の面積計算の公式を教える必要があるのか』と題するブログを投稿したことがある。日本の伝統的教育方針である「知識をベースに考える」という教育方針に対する否定的提言だった。学校で教わった知識など、社会人になって日本の将来を様々な分野で担うようになった時、どれだけ役に立っているか、読者の皆さん自身が百もご承知だろう。大切なのは知識として台形の面積計算の公式を記憶させることではなく、公式が作られた根底にある思考法を学ばせることが、知識をたくさん詰め込ませるよりはるかに重要なのだ。その思考法は私の友人がいみじくもメールで書いてきたように「ただ公式を解説しただけ」という単純で素直な考え方を子供たちが身に付けるような教育をすれば、日本の将来は明るくなる。そういう単純かつ素直な思考法で、いま大問題になっている集団的自衛権の行使について考えてみたい。
 最近安倍総理が「積極的平和主義」という目新しい概念を持ち出した。一方で、安倍第1次内閣時に作られた私的懇談会の「安保法制懇」は首相官邸内で依然として憲法解釈によって集団的自衛権を行使できるようにするための屁理屈を考案しようと、かすかしか残っていない脳みそを絞り出す作業に必死だ。
 ところが、肝心の安倍総理が憲法解釈による集団的自衛権の行使を認めるには法整備が必要との認識に傾きつつあり、法制懇のメンバーは2階に上がったものの梯子を外されてしまったことにいまだ気づいていないようだ。

 安倍総理の変心の原因は、私が昨年8月29日に『安倍総理は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!』というタイトルの記事をブログ投稿し、そのことを首相官邸に伝えて以降である。首相官邸からは連絡がないので、偶然の一致なのか、それとも変心したことを悟られないため「二兎を追う」ごとき様相を見せているのか。
 今でも集団的自衛権に関する従来の政府解釈に安倍総理はしがみついているのかいないのか。その辺が微妙といえば微妙である。安部総理の本音がいま一番見えにくいことだけは確かである。
 私が昨年8月に投稿したブログの内容を覚えている方も少なくないと思うが、念のために簡単に要約して再度書こう。
 国連憲章は国際連合の憲法のようなものである。そして国連憲章が目指したのは戦争のない平和な世界を築くことであった(今でもその理念は失われていないが)。だから国連憲章の第1章には「(国際連合の)目的及び原則」として国際平和実現の理想を高々と掲げている。要点を分かりやすく整理する。私の整理の仕方が気に食わない人はネットで原文を検索して読んでいただきたい。

第1条(目的)
 世界の平和と安全を維持すること。そのために有効な集団的処置をとること、また国際間の紛争の解決は平和的手段で、かつ正義と国際法の原則によって実現すること。国連は人民の同権と自決の原則を尊重し、国際社会の友好関係の発展と世界平和を実現するための処置をとること。
第2条(原則)
 第1条の目的を達成するため、すべての国連加盟国は主権平等を原則とし、国際紛争を平和的手段によって解決しなければならない。また国際関係において武力による威嚇又は武力の行使を慎まねばならない。

 この目的と原則を達成するための具体的方法を定めたのが国連憲章第6章と第7章である。そして問題になっている集団的自衛権については第7章51条に記述されている。第6章(紛争の平和的解決)では国際間の紛争を解決する方法を定め、第7章(平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為に関する行動)では第6章の定めにもかかわらず平和が脅かされたり破壊や侵略が行われた場合に、国連は実際にどういう行動で平和を守るべきかを規定している。やはり重要な部分を要約する。

第6章(紛争の平和的解決)
 いかなる紛争も、当事者(※当事国と表記していないことに留意――ただし、このブログではこの表記に深入りはしない。わざわざ注釈を入れたのは、こうした細かいことを見過ごさないように、という読者へのアドバイスのためである。とりあえずこの表記は紛争は国際間だけではなく国内における民族間、宗教対立、国家として独立を求める行動などを含めていることを意味する)はまず交渉・審査・仲介・調停・仲裁裁判・司法的解決・地域的機関または地域的取り決めの利用などの平和的手段による解決を求めなければならない。国連安全保障理事会(安保理)は、そうした平和的解決を実現するため紛争当事者に対して解決案を提示、勧告することができ、当事者は安保理の提示、勧告に従わなければならない。
第7章(平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動)
 第6章の定めにもかかわらず紛争を平和的に解決することが困難と安保理が判断した場合、安保理は「非軍事的措置」(第41条)をとることができる。すなわち兵力の使用を伴わないいかなる措置を決定できる(※具体的には化学兵器保有が濃厚だったイランに対してとった「村八分」政策などの経済的制裁が主な方法)。そうした措置にもかかわらず平和が脅かされたり平和の破壊や侵略が行われた場合は、安保理は「軍事的措置」(第42条)をとることができる。具体的には国連加盟国の陸・海・空軍による示威、封鎖その他の行動を意味する(※軍事的行動に出ること)。

 以上の2章により、第1章で述べられた国連憲章の目的と原則にもかかわらず、国際的紛争が生じた場合に国連安保理が紛争の解決のためにとりうる行動を規定したのである。だが、実際には安保理の理事国15か国のうち米・英・仏・ロ・中の5か国が拒否権を持っていて、5か国のうち1か国でも反対すると「軍事的措置」が取れず、実際これまで正式に国連安保理の承認を得て「軍事的措置」の権能を発動したことはない。
 そこで、国連安保理が平和的あるいは軍事的措置をとれなかった場合を想定して作られたのが第7章の中に規定されたのが第51条(自衛権)である。この51条だけは要約せずに全文を引用する。集団的自衛権についての政府解釈がいかにデタラメかを、これ以上明確に立証する材料はない。この条文を読んで政府解釈の矛盾に気づかれない読者は、申し訳ない言い方だが私のブログを読む資格はない。あえてもう一度書くが51条は「自衛権」についての規定である。

この憲章(※国連憲章全体を指している)のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任(※私が要点を簡易にまとめた上記内容を指している)に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 政府の集団的自衛権についての説明はこうだ(朝日新聞『ニュースがわからん!』から引用)。「集団的自衛権は密接な関係にある他国が責められた時、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利だ。国連憲章は加盟国に自分を守る個別的自衛権とセットで認めている」
 この説明は歴代政府が継承しており、マスコミもそう信じてきた。マスコミまでが政府説明を信じ込んできたのだから国民がそういうものか、と思ってきたのも無理はない。
 政府はこれまで「憲法の制約上、集団的自衛権は保有しているが、行使できない」と説明してきた。で、安倍総理が第1次内閣の時に私的懇談会の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を首相官邸に設置して「集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を見直す」作業を始めたのである(2007年)。その時は安倍総理自身が健康を害して退陣し、安保法制懇も解散になった。その動きを再登板した安倍首相が再開したので、私は昨年8月29日に『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している!!』と題するブログを投稿し、その内容を首相官邸に通知した。
 その後、安倍総理が何を考えているのか、理解に苦しむ言動が散見されるようになった。一時「集団的自衛権を行使するには法的整備が必要だ」と憲法解釈の変更は難しいというニュアンスの発言をしたこともあるが、安保法制懇の柳井俊二座長(再任)が「憲法解釈の見直しで集団的自衛権の行使は可能だと思う」という中間報告的発言をして以来、集団的自衛権という言葉をほとんど使わなくなり、「積極的平和主義」という全く新しい概念を打ち出し始めた(この新しい概念は昨年10月に「日本国際フォーラム政策委員会」が発表している)。しかし、安倍総理の信念ともいうべき集団的自衛権行使の道付けをするという姿勢が変わったわけではなく、むしろ「積極的平和主義」のほうが「密接な関係にある他国」にとどまらず、政府見解による「集団的自衛権行使」の範囲が広がってしまうことになるはずなのだが、どなたもそういう疑問をお持ちにならないようだ。私には専門家のはずの軍事ジャーナリストや評論家、学者の皆さんが、こんな単純な疑問をお持ちにならないことが不思議でならない。
 それはともかく、私は安倍総理の基本的な考え方に反対しているわけではなく、現行憲法無効の立場で主張しているのであって、憲法解釈の変更を重ねることを批判している。
 さて集団的自衛権についての政府見解の間違いを改めて書く。昨年8月末のブログでは国連憲章の読み方について安倍総理は勘違いしているということを書いたのだが、ダメ押しをしておこう。
 ベトナム戦争にアメリカが軍事介入したのはアメリカの集団的自衛権行使だったのか、あるいは南ベトナム政府のゴ・ディン・ジェム政権の集団的自衛権の行使だったのか……もう一度国連憲章51条(自衛権)の規定を読み直すまでもなく、賢明な読者なら「あっ、そういうことだったのか」と、お気づきになったはずだ。「個別的」も「集団的」も自国の防衛の権利を定めたのが国連憲章51条であり、だから南ベトナム政府は自国の軍隊だけでは北ベトナムの攻勢に対抗できず、それこそ「密接な関係」にあり、かつ軍事大国のアメリカに「助けてよ!」とお願いする権利が国連憲章51条で認められており、それを実行したのが南ベトナム政府の集団的自衛権行使なのである。
 国連憲章は国連加盟国に国際紛争は平和的手段で解決することを義務付けている。しかし、過去に国際会議で永世中立宣言が認められていたにもかかわらず、中立を維持するための軍事的備えをしなかった国々が他国に侵略され占領されたという苦い経験から、国際紛争は平和的手段で解決することを加盟国に義務付けながら、非武装では自国の平和と安全は守れないという冷たい現実を踏まえて「個別的」自衛手段として軍隊の保有と、自国の軍事力だけでは他国の侵略から防衛できないと政府が判断したとき、本来なら国連軍が侵略されつつある国を助けることを定めてはいるが、現実的にはそれが困難であることから他国の支援を求める権利(すなわち集団的自衛権)を認めたのである。
 ベトナム戦争だけではない。イラクが突然、無防備のクウェートを侵略した時でさえ、安保理で国連軍によるクウェート支援ができず、米軍とイギリス軍を中心とするNATOが軍事行動に出たのも、NATOの集団的自衛権行使ではなく、クウェートの集団的自衛権の行使に応じたと理解すべきである。
 そういう視点で考えると、日本は個別的自衛の戦力として自衛隊を擁しており、集団的自衛権としては日米安保条約によって米軍が自衛隊と共同で日本を防衛してくれることになっており、すでに日本は集団的自衛権を保持していると解釈するのが論理的妥当性を持つことになる。
 ただし、日本は憲法の制約によってアメリカが侵略を受けたとき米軍に協力してアメリカを防衛する義務は持てない。そもそも憲法9条は素直に読めば自衛権すら否定している。それを「自然法」などという概念を持ち出して自衛隊の創設を正当化しているが、そもそも現行憲法は占領下において制定されたものであり、国民主権をうたいながら国民の審判を受けずに成立した憲法である。それは日本が占領下に置かれていたという特殊事情によって成立した憲法だからであって、サンフランシスコ講和条約によって独立を回復した時点で現行憲法は無効になっていなければならなかったはずである(※この解釈も論理的妥当性を有する)。米サンフランシスコで講和条約に調印した吉田茂首相は、なぜ独立国家としての尊厳と国民の総意を反映した新憲法を作ろうとしなかったのか。私がその理由をブログに書くまでに、読者自身が考えておいてほしい。
 私が集団的自衛権行使の問題を重視するのは、憲法の制約によって日米安全保障条約の片務性を解決できす(※双務的条約に変更不可能なこと)、その故に沖縄の苦しみも解消できず、基地協定の改定もままならない(※これまでアメリカは基地協定改定のテーブルに一切着くことを拒否してきたが、安倍第2次内閣の基本姿勢を見てようやくテーブルに着くことだけは承諾したようだ。ただし改定を容認することはまったく意味していない)。
 はっきり言って米軍基地が沖縄に集中しているのは、日米安保条約に基づいて日本を防衛するためではなく(※日本を侵略するために沖縄あるいは沖縄方面から攻撃を仕掛ける国は絶対にありえない)、アメリカが東南アジア領海の制空海権を維持するためである。日本がアメリカのエゴに対して何も言えないのは、日本が片務的安保条約によって日本防衛のかなりの部分を一方的に米軍に肩代わりしてもらっているからである。
 のど元過ぎれば熱さ忘れるのは、日本だけではないと思うが、これだけは忘れてはならないのは1980年代に日米貿易摩擦が激化したとき、米国内の世論として急速に広まったのが日本に対する批判――「安保ただ乗り」論であった。
 この論理の根底にあったのは、日本は自国の防衛をアメリカに肩代わりさせて経済競争力の強化にのみ力を注いでいるという認識が全米に広まった故であった(※もちろんそういう世論を形成したのは米政府とその意図を理解できなかった米マスコミである)。その後、プラザ合意によって円高ドル安が始まってアメリカの経済競争力が回復したこと、さらに日米構造協議で日本政府がアメリカ政府の主張にほぼ屈伏して牛肉などの関税障壁を大幅に軽減したり、大店法を改正してアメリカの大規模商業施設の日本進出を可能にしたことなどの譲歩によって米国内に「安保ただ乗り」論はとりあえず消えたが、いいか悪いかの判断は生産者や小売業者の立場と消費者の立場が対立関係にあるため私も簡単に論じることは避けたいが、郊外の商店街が空洞化した結果を招いたことだけ指摘しておこう。
 何かを考える場合、論理的思考力を働かせるということは、そういうことであり、明日から投稿する5回連続のブログで私の思考プロセスを初めて全面的に公開することにする(※この記事を投稿しようとしたがWebサイトに何か問題が生じていてメンテナンス中ということで9:30現在投稿不能だ。もう出かけなければならないので帰宅してからの投稿になるが、そうなると明日以降の投稿予定が1日ずつずれざるを得ない)

 最後についでに新年早々の宿題を読者にお出ししたい。はっきり言って難問である。私が正解を書けば、やはり「なぁーんだ。そんな単純なことか」と思われるような問題である。実は昨年末の問題を大正解した友人にもメールで「これは難問ですよ」と断って返信した問題である。友人はお手上げした。
 その問題とは、カール・マルクスが定義した社会主義・共産主義社会の実現に命をかけた革命家たちが作った社会がなぜすべて独裁社会になったのか、というものだ。もちろん友人にはマルクスの定義は伝えた。
① 社会主義社会においては人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。
② 共産主義社会においては人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
 この定義が独裁社会建設の理論的根拠になった理由を説明しなさい。
 実は日本共産党はマルクスの「生産と分配についての定義を見直した」と主張しているが、現在の綱領を読むかぎり、では日本共産党はどういう社会の建設を目指しているのかの定義が記述されていない。日本共産党が本当にマルクスの定義の根本的矛盾に気づいていたなら「共産主義の旗」を降ろさざるを得ないはずなのだが…。日本共産党が共産主義の旗を降ろしたら、日本最大のリベラル政党として相当の支持を国民から得られると私は思っている。やはり日本共産党もマルクスの定義を真っ向から否定したら、支持基盤を失うことを恐れているのだろう。
 私が、いつこの問題の正解をブログ投稿するかはお約束しない。正解か、かなり正解に近い答えをコメントに書き込んだ読者が出たら、その時正解を発表する。ただし、あらかじめ予想できる不正解を書いておくと、レーニンが社会主義社会の前段階として「プロレタリア独裁論」を提唱したから、というのは完全に間違いである。最大のヒントはマルクス自身が提供している。つまりマルクスの定義そのものが独裁社会を必然的に生み出したのである。
 さあ、読者の挑戦を期待している。
 
 

新年のごあいさつ――楽天・田中投手のメジャー行きはとりあえず決まったが…。

2014-01-01 06:06:34 | Weblog
 
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
読者の皆様にとっても、よい年になりますように。

「松の内」などという言葉はもう死語になっていましたね。実は昔は1月7日までが松の内だったのです。だから「七草粥」は正月7日の朝に、正月中に食べたごちそうや飲みすぎた酒の毒素を消すという言い伝えで食べた習慣でした。そんな習慣は私が子どものころにすでになくなっていましたから、いまの若い人には無縁になるわけですよね。でも昔の正月休みは長かったんですね。だから防腐剤がなかったころでもおせち料理は腐敗を防ぐために、濃い味付けにして量もたくさん作ったようです。
 この話、子供のころにおばあちゃんから聞いた話です。実は私は記憶力がものすごく悪いのですが、なぜか子供のころ、おばあちゃんから教えてもらったことは意外に記憶に残っているんです。メモリが小さいのに昔おばあちゃんから聞いた話の記憶で、ただでさえ縮小しつつあるメモリ容量のかなり占めているせいで記憶力が悪いのかもしれません。
 記憶力は右脳なのか左脳なのかわかりませんが、間違いなく右脳が支配している感性や芸術的素質は皆無に等しいと言っていいくらいです。
 でも、これは私の独りよがりかもしれませんが、左脳は依然として今でも活性化を続けているような気がします。ブログだけでなく、毎日のように新聞社やテレビ局に電話して意見を申し上げているのですが、そうした行為を続けていることが左脳の活性化をもたらしているのかもしれません。人間考えることをやめたら、体を動かさなくなるのと同様、左脳もどんどん退化していきますからね。
 そんな戯言は置いておいて、今年は長いブログはやめようと思っています。ということはこれまで書き溜めてきた未投稿の記事はすべて消去してしまうことを意味します。
「それはもったいないよ」という声が聞こえるような気がしますので、消去はしません。マイドキュメントに残してはおきます。前にも新年に「今年はブログを短くする」とお約束して、実際いったん短くしようと試みました。でも、やっぱり昨年のブログを読み返して、まだ長すぎると我ながら感じました。で、今年からブログを短くするために、自分にノルマを課すことにしました。そのノルマは、毎日ブログを更新することです。そうすれば否応なしに長い記事は書けませんからね。ただし土日祝日は原則として休ませていただきます。またお盆や年末年初の時期も読者の皆様と同様休みます。したがって新年第2弾のブログは6日に投稿する予定です。
 さて昨年最後のブログで差し上げた「お年玉」の答えはまだ返ってきていません。まだ正月休みは終わっていないので、正解は6日のブログで明らかにします。それまでに答えを返してください。ただ例外が一人いて、私の友人ですが、直接メールで正解を書いてきました。
 ヒントを差し上げますと、公式を忘れてください。公式を忘れたら、どうやって台形の面積を計算しますか。そう考えれば正解は容易にわかると思います。私がこの問題を出したのは、何事も知識で考えるのではなく左脳(論理的思考力)で考える習慣を皆さんに付けていただきたいからです。「論理的思考力」などと書くとかえって難しく考えてしまいがちですが、子どものような素直な頭で考えることです。子供は知識をたくさんは持ち合わせていませんから、自分が持っている知識を応用できる範囲で考えます。そういうふうにこの問題に取り組んでみてください。「あっ、そうか。公式なんか知らなくてもこういう方法で計算できるよ」と気づかれたら、それが正解のはずです。
 
 さて今年最初のブログは楽天の田中将大投手のメジャーリーグ挑戦の話題です。彼がどのくらい活躍するかですか ? そんなこと子どものころに草野球しかやったことのない私にわかるわけないじゃないですか。
 これは私の左脳が出した予測ですが、田中投手のメジャー移籍を最後に当分ポスティングシステムでのメジャー移籍は不可能になる可能性が高くなるのではないかということです。
 その理由はポスティングによるメジャー移籍を希望する選手を抱えている日本の球団がメジャー側に対し譲渡補償金として最高額の2000万ドルを要求した場合、メジャー側が「田中投手のような100年に一人の選手ですら2000万ドルだ。この選手に2000万ドルも出せるわけがない」と突っぱねる可能性が高くなるのではないかと思うからです。
 そうなると日本の球団も「それなら結構、ポスティングによる譲渡はしない」と選手のメジャー希望を抑え込んでしまうための堂々たる根拠が生じるからです。結局、メジャーは欲しい日本選手をポスティングでは獲得できず、日本選手も海外へのフリーエージェント(FA)資格を獲得するまでメジャー移籍が不可能になる可能性が高まるのではないでしょうか。
 またメジャー側の思惑である日本選手の獲得を安上がりにしようという計算も、日本球団が提示した補償額に多くの球団が応じた場合、日本選手に自由な交渉権が発生するため、契約金交渉がうなぎ上りに吊り上っていく可能性も生じます。そうなると、メジャー側としても何のために補償金を低く抑え込んだのか、意味がなくなってしまいます。メジャー側が、こうして新たに発生した問題をメジャー側に有利なように解決するには、ポスティングで多数の球団が手を挙げたとき、日本選手の自由な交渉を封じるため、今度は手を挙げて球団だけでのドラフト制度を提示してくるのではないでしょうか。これも知識ではなく子供のように素朴な疑問をちょっと論理的に整理しただけです。私のブログは芸能界を除いて非常に幅広い分野の話題を取り上げていますが、池上彰氏のような物知り(本当に自分の知識かな ?)ではありませんから、ブログを書くために知識としてどうしても必要なことはすべて新聞記事かネットで調べて書いています。つまり何を調べればいいか、という実に簡単なことを脳裏に浮かべればいいのです。この簡単な作業が左脳を活性化する最大の武器に、私の場合はなっています。
 話がちょっと横道にそれましたが、アメリカという国は、自国の中ではフェアであることを非常に重視する国ですが、国益(この場合はメジャー全体の利益)が絡んだ問題になると、途端にエゴ丸出しになる特質を持っています。その自己矛盾がまかり通るのも不思議な話ですが、これ以上この話を発展させていくと、また長くなってしまうので、この辺で年初めのブログは終えますが、書いている私自身が焦点を絞り込んで余韻を残す方が読者のご理解も得られやすくなるのではないかと感じながら新年のごあいさつを兼ねた今年の初ブログを終わります。
 では、次は正月休み明けの6日にお目にかかりましょう。

 今日は新年のご挨拶から入りましたので「です・ます」調で書きましたが、次回から「である」調に戻します。今日の文字数は実数(ワードの文字数カウンターによる)で約3000字。この程度なら読者も肩がこらずに一気に読めるのではないでしょうか。