小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

岸田新政権の船出は前途洋洋か、それとも多難か~

2021-10-06 07:15:54 | Weblog
【特別追記】 岸田新内閣の所信表明演説について
8日午後2時から岸田総理が所信表明演説を行った。新内閣にとってコロナ対策を最重要課題としたのは当然だが、今のところワクチン効果かどうかは不明だが、「患者数」は減少傾向にあり、これといって新たな対策があるわけではないから、その問題はスルーする。
経済政策について岸田氏はこう述べた。
「マクロ経済運営については、最大の目標であるデフレからの脱却を成し遂げます。そして、大胆な金融政策、機動的な財政政策、成長戦略の推進に努めます」「経済あっての財政であり、順番を間違えてはなりません」「新自由主義的な政策については、富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ、といった弊害が指摘されています。世界では、健全な民主主義の中核である中間層を守り」「(成長と分配の好循環を実現するためには) 成長を目指すことは、極めて重要であり、その実現に向けて全力で取り組みます。しかし、「分配なくして次の成長なし」成長の果実を、しっかりと分配することで、初めて、次の成長が実現します。大切なのは、「成長と分配の好循環」です。「成長か、分配か」という、不毛な議論から脱却し、「成長も、分配も」実現するために、あらゆる政策を総動員します」と。
ちょっと待ってほしい。岸田氏は経済政策について総裁選で「小泉政権以降の新自由主義からの脱却を図る」と主張していた。新自由主義とはどういう経済政策かは本稿で詳述するが、ひと言でいえば官の関与をできるだけ排除し、民間の活力を生かして経済成長を遂げようという政策だ。中曽根内閣の国鉄民営化や電電公社の民営化、小泉郵政改革は確かに新自由主義経済政策だが、8年近くにわたったアベノミクスではどんな新自由主義的政策を行ったというのか。
確かに日銀・黒田総裁と組んで異次元の金融緩和政策を行ってデフレ脱却を目指しはしたが、金融政策は別に規制緩和でもなければ構造改革でもない。むしろ「官製春闘」で従業員の賃上げを経済団体に要請して、企業に対し従業員への利益の分配を要求したりしてきた。アベノミクスと岸田氏の「新しい資本主義」の中身はどう違うのか。誰の目にも「違い」は分からないだろう。いや、そもそも「違い」なんかまったくないと言える。
しかも今はコロナ禍で産業界も先行き不透明なため設備投資もできない状況だ。そんな時に「分配なくして成長なし」などと笛を吹いても、踊る企業は一握りもない。「新自由主義政策が、富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ」と断定したが、経済学者ピケティ理論の読み方が浅すぎる。
強いて「脱新自由主義」政策と言えるのはデジタル庁の新設くらいだが、目的がはっきりしない。以前に省庁のFAXでの情報伝達手段をメール化することを目的として内閣府にデジタル担当相を置いたが、そんなことで大臣をつくらなければならないほど日本のデジタル化は遅れているのか、と私は愕然としたが、省庁の情報伝達手段をメール化するために新しい省庁をつくることが「新自由主義」からの脱皮なのか。ばかばかしくて話にならない。
6G用の基地局を一本化してプラットホーム・ビジネスにしろという提案は本稿で書いたが、デジタル庁をつくるのであれば、やってもらいたいことがある。AI技術の活用を大胆にやれということだ。実は某巨大メディアの幹部からブログでAIについて書いてほしいと言われ、今年1月5日『今年最初のブログ――AIは人類に何をもたらしてくれるのか』と題するブログをアップした。
最近やはり某メディアの幹部とちょっとした「お遊び」をした。私が質問したのだが、AI技術がもっとも実用的に活用されている分野は何だと思うかと聞いたのだ。相手はしばらく考えて「わかりません」と言った。私の返答は「多分将棋や碁だと思う」と答えた。
いま、将棋や囲碁のプロの棋士は練習の多くを人との対局ではなくAIを相手に腕を磨いているという。いま「将棋界の天才」と言われている藤井聡太君だが、彼もAIを相手に練習しているという。私は前に書いたブログでAIの限界は創造性がないことだと書いた。人間は疑問を持つから想像力が生まれる。が、AIは過去の人類の経験をデータ化して応用するのが限界だから絶対人間に勝てない限界がある。だが、人間と違って疲れることがない。人間の集中力には時間とともに衰退する宿命がある。だから、時に一流のプロもAIに負ける。
藤井君のすごさは、そのAIの限界に挑み続けていることだ。最近はテレビなどの将棋解説にAIを使うことが多い。AIは瞬時に次の一手を提案する。AIは過去の棋譜から勝利に導く一手を提案するから、AIが提案する一手は数種類ある。が、時に藤井君はAIが予測しない手を打つ。そうなると解説者も面食らってしまう。なぜ藤井君はAIが予測しない手を打つのか。相手はこの局面だったら、AIならこういう手を打つだろうと藤井君の打つ手を予測しながら次の手を考える。その裏をかくなら、AIも混乱するだろう手を考えるしかない。藤井君のすごみは、そういうことができることにある。実は私自身は子供のころ親や学校の友人と遊んだ程度で、定石なんか何も知らない。
AIの能力を実用面で最も生かすべき分野は前のブログでも書いたが医療の分野だと思う。とくに画像診断技術はどんな天才的な医者でも、逆立ちしてもAIには勝てないと思う。画像診断のハード技術はCTとかMRIとか進歩している。
そして人間の眼ではほぼ見つけられない小さな腫瘍もAIなら瞬時に見つける。
 だが、医者は絶対といっていいほど、AIの画像診断技術を活用しようとしない。自分の仕事がなくなるからだ。
そういう分野は他にもあると思う。たとえば生命保険の設計にAIを活用したらどうなるか。加入者にとって最も有利な設計をしてくれるだろう。あるいは保険営業のセールス・レディが失業するかもしれないが、技術革新というものが必ずその分野の犠牲者を生む。私たち人類の歴史は、そうやってすさまじいほどの職業を破壊しながら進歩を重ねてきた。
こういう時に哲学の出番が生じる。左翼思想はそういう意味では極めて保守的になる。たとえば原子力の平和利用として原子力発電が発明された。その結果、水力発電や火力発電に携わってきた人たちは仕事を失うかもしれない。が、原発は過去3度の致命的な事故を起こした。アメリカのスリーマイル島、旧ソ連のチェルノブイリ、そして日本の福島。なのに、連合まで原発維持派だ。
確かに過去、原発は「コスト安神話」によって設置が進められてきた。私は1989年に上梓した『核融合革命』と題する著書で「安全神話」なるものは確率論の話に過ぎないと書いた。大事故が起きる確率は極めて少ないが、その確率通りに必ず事故は起きる。福島原発が生じた時政府は「安全神話」に頼りすぎたと弁解したが、事故は必ず起きることをスリーマイルやチェルノブイリは証明してきたはずだ。
多分、あらゆるデータを「富岳」に計算させれば、100年、200年という長期的視野で考えたら太陽光発電などの再エネが地球環境の保全も含めるとコスト的にもっとも有利になると思う。
デジタル庁をつくるのであれば、なにを目的にする象徴なのかを、まず明確にしてもらいたい。

次に安全保障問題だが、戦後76年たち、世界の安全保障環境は著しく変化しているのに、なぜ基本的な考え方だけは日本は変えないのか。私は今年8月4日に『戦後76年――沖縄戦・原爆投下・黒い雨訴訟・北方領土・核廃絶の問題をトコトン論理的に考えてみた』と題するブログを書いた。1月26日には『日米同盟至上主義の虚構を見抜いた――核禁条約に参加しない理由』と題するブログもアップした。今年12月には太平洋戦争の意味を改めて検証するブログを書くつもりだ。結論だけあらかじめ書いておく。太平洋戦争は日本にとって侵略戦争でも自衛戦争でもない。日本が自衛戦争を行ったのは元寇のときだけである。それ以外、自衛のための戦争は一度も行っていない。ただし、「権益(それが正当な手段で得た権益か否かは別にして)を防衛するための戦争」は日露戦争・太平洋戦争の2回行っている。それ以外はすべて侵略戦争だ。(8日)

【緊急追記2】 「抑止力」という名の軍拡理論の欺瞞性を暴いた。 
ネットでは自民党総裁選を機ににわかにネトウヨ族が発信力を強めだした。当初は泡まつ候補とみられていた高市氏が、党員・党友票(以下、地方票)でも74票を獲得した。(河野氏169票、岸田氏110票、野田氏29票)。国会議員票の114票(岸田氏146票、河野氏86票、野田氏34票)と河野氏を上回る支持を獲得したのは安倍元総理の肩入れによるものと考えられなくはないが、前日までのメディアの調査を大きく裏切る結果だった。
本格的に総裁選に突入する前の各メディアの予想としては河野氏が地方票の50%以上は取るのではないかとみられていたが、総裁選半ばころからせいぜい40%台半ばという調査結果が出て、地方票の伸び悩みが指摘され始めた。実際、河野氏が獲得した地方票は44%にとどまり、いちおうトップにはなったが、議員票を左右するほどの力にはなりえなかった。
その要因は二つ考えられる。一つはコロナのせいで、河野応援団の石破、進次郎が小泉劇場のときのような全国遊説で「自民党の体質改善」を訴える相乗効果が作れなかったこと。もう一つはネトウヨ族による激しい河野バッシングが地方票の行方にかなりの影響を与えたとみられる。
河野家のファミリー企業として「日本端子」という会社があり、端子(電線接続の電子部品)やコネクタ(USBなどの接続部品)の製造を行っており、売上高は約120億円、メーカーとしては中小規模の会社だ。が、中国に2合弁会社をつくり製造販売もしている。別に軍需品を中国で製造販売しているわけでもないし、問題になるような企業ではない。が、ネットでは「太陽光パネルのメーカー」とされたうえ「反日企業」(中国でビジネスしているから?)とレッテルを張られ、その会社の大株主だから「河野は反日派」とバッシングされた。
一方、河野バッシングと同時に行われたのが高市ヨイショだった。安倍元総理を上回るウルトラ右翼の高市氏は「愛国者」と持ち上げられ、また本来なら政治家としてのキャリアも知名度も高かった野田氏も「夫は元暴力団員」と非難を浴び、地方票でも高市氏に大敗を喫した。
 私は左翼ではないが、日本の右傾化にはかなりの危機感を抱いている。
いま習近平は毛沢東と並ぶ中国共産党での権威を確立しようと躍起になっている。香港の民権派を弾圧して「中国化」に成功、新疆ウイグルの「中国化」も強力に進めつつあるようだ。日本が朝鮮を統治していた時期、教育などの手段で朝鮮人の「日本化」を推進したのと同じだ。
さらに習近平は最後の「中国化」対象として台湾統一作戦を進めようとしている。実際に中国が軍事力による制圧という手段に出た場合、日本はどう対応するのか。香港や新疆事件のように「遺憾だ」とつぶやいていれば済む話か。
が、アメリカも日本もかつて中国との国交正常化に伴い、中国の要求に応じて「一つの中国」を国際的に容認し、台湾との外交関係を遮断した。である以上、習近平が主張するように「台湾統一は国内問題であり、他国は内政干渉すべきでない」という理屈は国際法上は正当化される。現にミャンマーの軍事クーデターについて、アメリカも日本も手も足も出せない。
最近、抑止力についての議論が盛んにおこなわれている。【追記1】でも書いたが、戦争には3種類ある。「侵略戦争」と、既得権益(侵略戦争によって得た権益も含む)を守るための「防衛戦争」、そして他国から侵略されたときの「自衛戦争」だ。そして日本の長い歴史の中で「自衛戦争」は一回だけ、鎌倉時代の元寇がそれだ。元寇以外、日本が他国から侵略された戦争はない。北方領土や竹島もロシア、韓国に乗っ取られたが、日本は「自衛戦争」はしていない。太平洋戦争は、日本が中国や東南アジアで侵略戦争によって獲得した「権益」をアメリカの干渉から防衛するために自分のほうから仕掛けた戦争の結果だから「自衛戦争」とは口が腐っても言えない。
私は現在では侵略戦争は不可能だと考えている。まず【費用対効果】の面から考えて人的・経済的損傷の方が得られる利益より大きいことに軍事大国が気付いたからだ。東南アジアの国々が独立できたのは日本の功績だと無理解釈している右翼もいるが、欧米列強が植民地支配を続けることの【費用対効果】を冷静に計算した結果に過ぎない。それが証拠に、第2次世界大戦後、別にヒトラーや日本が手を出したわけでもない中東諸国を独立させたのは、宗主国のヨーロッパ列強自身だった。イスラム教が支配するアラブ諸国を統治するより、独立させて原油の有利な獲得のための経済・貿易関係を築いた方がトクだと考えたからに過ぎない。
そう考えると、「抑止力」としての軍事力が、自衛手段としてどの程度必要か。実は日本も含めてすべての国にとって、本来の目的は自衛手段として必要最低限の軍事力だけ保持すればいいはずだ。が、自国を敵視したり紛争を生じている相手国が核兵器を持っていた場合、自国の核開発も自衛手段になってしまう。そういうケースがいま世界に三つ存在している。
まず日本にとって安全保障上の最大のリスクと言われているのが北朝鮮の核・ミサイルだ。もちろん北朝鮮は日本の軍事力の脅威に対抗するために核・ミサイル開発に狂奔しているわけではない。アメリカの敵視政策に対抗するためだ。が、万一、米北が軍事衝突に至った場合、アメリカの同盟国であり、北朝鮮に対する最大の攻撃軍事拠点である在日米軍基地は格好の攻撃目標になる。
たとえそうなったとしても、北は自国の破滅が確実になる核兵器の使用は控えると思うが、原爆を2度投下されるまで対米戦争を続けた国もあった。
最近、にわかに「日本も核武装すべきだ」とか「非核三原則(持たず・作らず・持ち込ませず)のうち、北に対する抑止力として米軍基地への核兵器配備は認めるべきだ」といった「抑止力」強化の声が高まりだした。
日本にとっては北に対する抑止力のつもりでも、近隣諸国にとっては日本の核武装化が脅威の対象になるのは当然だ。とりわけ領土問題を抱えているロシア・中国・韓国は日本への警戒心を強め、敵視政策をとるだろう。
現に、アメリカに対する抑止力としての北朝鮮の核・ミサイルを脅威視して(それは口実で、本来の目的は軍国主義復活かもしれないが~)自国の軍事力強化を図ろうとしている政府も現にある。その国が過去どういうことをしてきたかは近隣諸国は皆覚えている。当然、その国の軍事力強化は他国にとっては脅威の対象になる。
次に中東アラブ諸国、特に現在問題になっているのはイランの核疑惑だ。イラン戦争では核を含む大量破壊兵器を持っていると疑われたイラク・フセイン政権は、疑惑だけを根拠に米英軍によって破壊された。その結果、イラクにイスラム過激派のIS(イスラム国)勢力が跋扈し、国内外がイスラム過激派のテロ活動によって多くの犠牲者が生まれ、難民がヨーロッパに押し寄せた。その原因をつくったアメリカは知らん顔だし、イギリスは難民を生んだ責任を回避して難民の入国を防ぐためEUから離脱した。
イラクが核を開発する意図があったのか、またイランがいま核を開発しようとしているのかは不明だが、仮に核開発を進めていたとしてもアメリカに敵対するためではない。非公然の核保有国であるイスラエルに対する抑止力として持たざるを得なくなっているだけだ。
「非公然」と書いたが、イスラエルが公式に認めているわけだはないというだけで、イスラエルが核保有国であることは国際社会では自明である。なぜアメリカは「疑惑」ではなく、核保有が確実なイスラエルに核放棄を迫らず、アラブ諸国の核疑惑だけを非難するのか。
理由は二つある。一つはイスラエルとの関係だ。イスラエルはアメリカの51番目の州と言っていいほど、アメリカにとっては特別な国だ。「日本はアメリカの属国だ」としばしば自虐的に言われるが、イスラエルはアメリカの属国ではなく、強いて例えるなら「親子の関係」あるいは「夫婦の関係」だ。アメリカにとって、どんな犠牲を払っても絶対に守り抜く国がイスラエルなのだ。だから自国にとってではなく、イスラエルにとって脅威となるアラブ諸国の核保有を認めるわけには絶対にいかないのだ。
もう一つの理由は石油の問題だ。アメリカは産油国であり、エネルギー安全保障策としてはサウジアラビアと友好関係を築いており、サウジ以外のアラブ産油国に頼る必要がなく、そのうえサウジ以外の産油国に制裁を加え原油輸出を困難にすれば、アメリカ産業界にとって有利な状況が作れるからだ。さすがに同盟国の日本に対してはイランからの原油輸入をストップさせたりはしていないが、イランに対する経済制裁は厳しさを増している。
三つ目のケースはインド、パキスタンの核保有だ。なぜアメリカは沈黙を続けるのか。実はアメリカにとって、この両国の核武装は好都合だからだ。インドが核を保有することになったのは、隣国中国との国境紛争を生じており、中国の核に対する抑止力として核を開発せざるを得ず、中国と敵対関係にあるアメリカにとってはインドの核保有はむしろ歓迎すべきことなのだ。またそのインドとカシミール地域の領有権をめぐって紛争を生じているパキスタンがインドの核に対する抑止力として持った核も、イスラム過激派の勢力下にある隣国アフガニスタンに対するにらみとして好都合なのだ。
この三つのケースで明らかにしたように、アメリカにとっての核は世界に君臨するための手段なのだ。オバマ元大統領が「核なき世界を目指す」と言ってノーベル平和賞を受賞したが、オバマは一言付け加えるのを忘れたための受賞である。つまり「アメリカ以外は」という例外規定を付け忘れたために「ウソつき平和賞」の受賞にあずかれたというわけだ。
はっきり言って、アメリカが核兵器禁止条約に参加すれば、全世界の核保有国はすべて「右へ倣え」する。ではアメリカに核禁条約に参加させるにはどうしたらいいか。日本は何をなすべきか。できれば、「アメリカの核のために日本は大変迷惑している。北朝鮮を暴発させないためにも核禁条約に参加してくれ」と頼み込んで、アメリカが「わかった。世界平和のために参加する」と言ってくれれば一番いいのだが、アメリカにとって核を放棄することは世界の覇権を維持してきた軍事力の絶対的優位性を失うことになるから、たとえオバマでも絶対にウンと言わない。
そうなると、残るのは最終手段しかない。結論だけからするとウルトラ右翼と同じになるかもしれないが、日本が核を保有することだ。それも、世界最大級の核大国になることだ。そのうえで、アメリカを除く核保有国に対して核外交を重ね、「日本が核でおたくを守ってあげるから、核禁条約に参加して、核を放棄してくれ」と交渉してみたらどうか。そうやってアメリカ非核包囲網を築く以外に核廃絶の道はない。
これまで明らかにしてきたように、「抑止力」は安全保障の手段ではなく、軍拡の口実に過ぎないことが、論理的には絶対に否定できないほど明白になったと思う。「核を廃絶するために日本が核超大国になる」――それが核なき世界をつくるための唯一の手段だ。(10日)

4日、岸田新内閣が誕生した。当日午後9時から総理の記者会見が行われた。
これまで「発信力不足」が指摘されてきた岸田氏だが、この日の会見ではかなり自分の言葉でしっかり発言したという印象は持った。が、総裁選でアベノミクスを継承発展させるという経済政策を「サナエノミクス」と称して提唱した高市氏に対し、「小泉内閣以来の新自由主義からの脱却」を主張して「成長と分配の好循環」を訴えた岸田氏の、新総理としての経済政策からは「新自由主義からの脱却」という表現が消え、「新しい資本主義の実現」を打ち出したことと、宏池会の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」の再現という政策目標が会見から消えたことに、私はかなりの違和感を覚えた。果たして岸田氏は「新時代を共創」できるのか~。
岸田経済政策の検証はあとでするが、まず新政権最大の課題とした「コロナ対策」から検証する。

●コロナ禍の第6波を防げるか?
緊急事態宣言解除後もコロナ感染者数は急速に減り続けている。このままコロナ禍が終息してくれれば言うことないのだが、専門家たちのあいだでも第6波の襲来が依然として懸念されている。
実は奇妙なことが二つある。メディアが毎日報道している東京都の感染者数の前週同曜日との増減数なのだが、ここ1か月以上一度も増えたことがなく減少し続けているのだ。前日比ではなく、同じ曜日の増減を調べるのは確かに合理的なのだが、一度も増加したことがないとなると統計学上の疑問がどうしても生じる。
実際には感染者数とはPCR検査で陽性が判明した患者(厚労省定義)の数で、日本は依然としてPCR検査のハードルが高いので(昨年春ごろに比べればかなりハードルは下がったが)、無症状の「隠れ感染者」は検査を受けられないので感染実態との乖離はかなりある。簡易な抗原検査キットは薬局などで販売されるようになったが、数千円払ってキットを買う人は自分の体調が不安だから買うのではなく、陰性であることを何らかの理由で証明したいことが目的だから、このキットで陽性反応が出るようなら症状が出ているはずと考えられている。キットの販売は許可されたばかりだから、1か月ほどたてば抗原キット検査で陽性が判明したというケースはほぼゼロに近いことが明らかになるはずだ。
メディアは「新規感染者数」とか「陽性判明者数」などとできるだけ実態に近い表現を試みてはいるが、厚労省定義に従って「患者数」とするか「発症感染者数」としたほうが正確な表現になる。
とくにワクチンを接種した場合、感染しても発症を抑える効果があるとされているから、無症状の感染者がかなり増えているはずだからだ。
もう一つの奇妙の符号はいまの減少傾向は昨年のコロナ禍の波とほぼ一致しているのだ。昨年も5月下旬に緊急事態宣言を解除して7月下旬からGo Toトラベル・キャンペーンを開始し、それが第2波のきっかけになった。
が、8月下旬に入ると患者数が減少しはじめ、Go Toトラベルを中止すべきだという専門家の声も小さくなり、菅総理(当時)は「Go Toトラベルが感染拡大を招いたというエビデンスはない」とキャンペーンを継続した。が、10月中旬頃から患者数が増え始め、第3波が日本を襲った。この時点で菅政権が直ちに重点をコロナ対策に移していれば、その後の混乱はかなり防げたのではないかと私は考えているが、経済との両立にこだわった菅政権が適切な手を打たずコロナ禍の拡大を招いたと思っている。
今年も緊急事態宣言中にもかかわらず東京オリンピック・パラリンピックを強行し、オリ・パラ期間中に感染拡大がピークに達した。菅氏はさすがに「オリ・パラが感染拡大を招いたというエビデンスはない」とまでは居直らなかったが、「オリ・パラのせいで都心などの人流が減少した」と、あたかもオリ・パラを中止していればコロナ禍はもっと拡大していただろうと言わんばかりの弁明に明け暮れた。
が、この時期の感染拡大の中心は家庭内感染に移っており、すでに私はブログで書いたが、オリンピックのテレビ観戦で家族団らんの機会が増え、それが家庭内感染の拡大を招いた可能性がかなり高いと思っている。
実際、オリ・パラが終わった8月下旬からコロナ禍がいったん収束に向かう傾向を示しだし、それが今日まで続いている。非常に昨年と類似した現象が生じているのだ。
それはもちろん偶然かもしれない。たまたま去年と今年の傾向が類似しているだけかもしれないが、もし偶然でなかったとすれば、これから秋の行楽シーズンを迎えて再びGo Toトラベルを再開すると第6波の引き金になりかねないと危惧している。すでに日本も過去5回のコロナ禍に襲われており、なにがコロナ禍の引き金になったのかの検証をせず、いま患者数が減少しているから「さあ経済再生だ」と政策転換すると、それが第6波の引き金になりかねないことをよく考えてもらいたい。
とくに日本のコロナ禍の検証だけでなく、世界の各国が患者数の減少で、直ちに経済再生に政策のかじを切って、中国以外すべて失敗している。いちおう、いまの規制緩和策はいっきに経済を復活させようとせず段階的に規制緩和を進めるという方針を取っており、過去の失敗の反省が活かされているように思えるが、「状況を見ながら徐々に手綱を緩めていく」という規制緩和一方向ではなく、「状況を見ながら手綱を締めたり緩めたりしながら少しずつ経済活動を復活させる」という方針で行ってもらいたいと思っている。
ただ岸田氏の「コロナとの共生」という言葉の意味がいまいち不明だが、「コロナ抑制と経済活動の両立」は、ワクチンや治療薬の開発、医療体制の整備が伴わない限り不可能である。安部氏や菅氏の失敗も、ワクチンすらほとんど未接種状態なのに「コロナ対策と経済活動の両立」を図ろうとした点にある。

●なぜ「新自由主義からの脱却」を「新しい資本主義」に言い換えたのか?
次に岸田氏が最重要課題としている経済政策だが、なぜ「新自由主義からの脱却」という旗印を「新しい資本主義」に変えたのか。まさか小泉元総理への配慮とは思えないから、やはりアベノミクスを全否定するような表現はこれからの政権運営に支障をきたすという安倍氏への配慮なのか?
「新自由主義からの脱却」と「新しい資本主義」はどう違うのか。その説明を岸田氏はしていない。していない以上、中身は変わらないと考えていいと思う。
実は新自由主義経済を世界で初めて導入したのは皮肉なことに共産主義国家・中国の鄧小平である。鄧小平は毛沢東時代、二度も三度も失脚しながら、その都度這い上がった、独裁者国家では稀有の政治家である。
毛沢東は社会主義経済の発展を目指して1958年、大躍進運動を展開したが失敗、劉少奇や鄧小平らが進めようとした経済改革は毛沢東によって「走資派」と批判されて失脚、毛沢東は改革派を一掃するため66年「文化大革命」を主導し、劉少奇は獄死、鄧小平も失脚した。が、毛沢東の死後、不死鳥のように復権を果たした鄧小平が78年に始めたのが「改革開放政策」である。中国社会主義経済の支柱とも言える人民公社を「官僚主義の巣窟、非生産性・非能率」などと批判して解体、農産物価格の自由化や経済特区の設置など市場主義経済(共産党1党独裁下における資本主義経済の部分的導入)を進めた。つまり社会主義国でありながら、政府による規制を可能な限り排除(ただし国営企業は存続)、民間の競争による経済成長を図ったのである。資本主義国ではイギリスのサッチャーや日本の中曽根、小泉らが行った行政改革の先駆者と言えなくもない。
 ただし、この分析は私独自のもので、そうした分析をしている学者等は存在しない。新自由主義は資本主義社会での経済政策だという考えにとらわれているからだ。既成概念にとらわれた発想しかできないと、全体像を俯瞰することができなくなる。
本来、資本主義経済とはアダム・スミスの『国富論』にあるように自由競争を経済発展の原動力にするというのが基本的考え方である。が、鉄道や電話など交通インフラや通信インフラは膨大な資本を必要とするため民間主導では整備することは初期資本主義の段階では困難であった。そのため巨大インフラはアメリカを除き先進資本主義国でも国家資本によって構築されてきた(アメリカの場合、ニューヨーク市営地下鉄は公共資本)。が、資本主義社会でも国営企業の生産性は、中国の人民公社と同様低くなる。競争原理が働かない社会では企業でなくても効率は悪い。
たとえば日本の稲作農業。戦後の農地解放により零細農家が多くなったが、実は1960年ごろまでは十分国際競争力があった。が、アメリカが広大な農地で農業の機械化を進めだしたころから日本の保護主義的農政によって日本の農業は次第に国際競争力を失っていく。とくに生産性を下げたのは農協である。農協は零細農家の互助機関として生まれたが、事業として零細農家に機械化を要請した。農業の機械化を進めるには農業の大規模化と同時に進めないとかえって【費用対効果】は悪化することは分かりきっていたのに~。その結果、零細農家の農作業は楽になったが、生産コストは急増し、農業経営は苦しくなった。
どの国でも、人々は飢えたら必ず暴動を起こす。日本でも飢饉のとき、領主が無理やり農作物を取り上げようとしたら農民は一揆を起こす。時に暴動が大規模になると革命に転じることもある。だから国民を飢えさせないことが為政者にとって最も重要な課題になる。中国で戸籍を農村と都市に区別し、農村戸籍から都市戸籍への移動を困難にしたのも、「一人っ子」政策で少子化を推し進めてきたのも、国民を飢えから守るための政策だった。そういう意味では北朝鮮で暴動が起きていないのは、巷間言われているほど国民は飢えていないのかもしれない
日本も戦後の食糧難の時代に食管(食糧管理)制度で農作物の価格維持を図ったり、国民の食生活の多様化によってコメ離れが進むと減反政策(事実上の社会主義的計画経済)でコメの価格を維持してきた(食管制度は2018年に廃止)。その結果、1965年以降、農家所得(兼業農家も含む)の平均所得は勤労者世帯の所得を上回って推移している。その一方、前回のブログで書いたように日本農業の国際競争力は激減する結果となった。
実は今日、純粋な資本主義国もなければ社会主義国もない(北朝鮮は不明)。資本主義国も社会主義的政策を取り入れているし、社会主義国も部分的だが市場経済を導入している。私は将来、イデオロギーが支配する政治体制は消滅し、「脱イデオロギー社会」に移行していくのではないかと考えている。中国など共産党の1党独裁支配を維持するため共産主義の旗を降ろしていないだけだ。
中国が共産国家らしく見えるのはマルクスの教義に従って(土地は根源的生産手段だから私有を認めるべきではないとの説)土地を国有化していることだけと言っても過言ではない。が、消費を伴わない生産活動はありえないし、第一生活の場としての住居は根源的消費手段である。

●携帯電話料金はとりあえず安くなったが…
菅政権は短かったが、評価は様々である。若い人たちの間では携帯電話が劇的に安くなったと喜んでいる人も多い。
が、安倍前総理の官製春闘もそうだが、正規社員と非正規社員の所得格差を拡大する結果を招いたのと同様、マイナス面も実はある。携帯電話会社の弱肉強食化が進み、大手3社(ドコモ・au・ソフトバンク)+1(楽天)の4社しか生き残れなくなるという悲鳴が格安携帯電話会社から聞こえてきている。
実は菅氏が携帯電話の値下げ競争を要請したとき、私は総務省に電話で「官がやった方が効率的に値下げ競争を進めることができるケースもあるよ」とアドバイスしたことがある。実はこのアイデアは、販売店レベルではすべて「おっしゃる通りだと思う」と共感を得ている。
それほど難しい話ではなく、携帯電話の基地局を官(民間でもいいのだが)がプラットホーム化すれば済む話なのだ。つまりテレビ塔や放送衛星と同じく、基地局をプラットホームにして携帯各社が平等に電波使用料を払うという発想さえ持てば、いとも簡単に問題は解決する。いま携帯4社はそれぞれ各社ごとに基地局を設置している。そのため電波が届かない過疎地も生じる。携帯会社は民間企業だから、利益が出ない地域には基地局を設置する義務もないからだ。
しかし基地局は携帯インフラである。中曽根氏が国鉄や電電公社を民営化したのも、鉄道や通信インフラの整備は基本的に終了したからであって(当時は携帯電話が通信インフラの主流になることは考えられなかったせいもある)、だから国鉄は民営化後は利益が出ないローカル路線は次々に廃止して公共交通手段をバスに切り替えたり、地域自治体がどうしても残してほしいと要望した場合は第3セクター化するという方法で民営化の果実を確保した。
JRは線路と電車をなぜ民間に貸し出すという方法を考えないのか、私には不思議でならない。もちろん東海道新幹線や首都圏などダイヤが込んでいる路線は不可能だが、ローカル線を民間に自由に貸し出すようにすれば、様々なアイデアによる運行が可能になる。現に第3セクターの電車は黒字経営にするため、様々なアイデアの観光電車を走らせたりして黒字経営化しているところもある。
一方、民営化が完全に失敗したのは小泉氏の郵政民営化である。日本の郵政事業は3事業を経営の柱にしている。郵便事業、銀行事業、保険事業である。このうち電話、メールと並ぶ通信インフラ事業が郵便事業である。とくに日本郵便だけに権利と義務が与えられたのが手紙やはがきの信書、書留、内容証明、特別送達などである。この郵便事業をこれらの種類を除いて自由化して民間の参入を促そうとしたのが小泉郵政改革の狙いだった。
が、小包などを除いて郵便物は全国一律の料金体系である。その分野のライバルになったのは実は小泉氏が期待した民間からの参入事業者ではなく、メールである。メールは無料だし、しかも瞬時に伝送できる。そのため携帯電話の普及に伴って手紙やはがきの扱い量が激減した。大都市圏はいざ知らず、過疎地での郵便事業は完全な赤字になった。電話料金は行政区域を超えると市外料金が発生するが、はがきや手紙の料金を電話のように市外配達料など取れない。そのうえ、郵便料金の値上げは自由にはできない。頭の古い総務省官僚が、「庶民の通信手段」として郵便料金の値上げを認めないからだ。
宅配便の場合、数年前、運転手不足に伴い運賃を大幅値上げした。それはいいのだが、私のような高齢者は困った。スーパーなど大賀と小売業者は一定金額(3000円とか5000円以上)の買い物をすれば無料配達のサービスをしてくれていたので、そういう利便性もあって私は70歳で運転免許を返上した。が、この無料サービスが無くなった。値上げ分だけ有料化するのならいいが、サービス部分まで有料化してしまった。その結果、ケースの缶ビールとかコメなど重いものはケース買いなどができなくなってしまった。これは愚痴。
郵便局はJRのように、赤字路線を廃止したり第3セクター化するという手段がとれない。ユニバーサル・サービスが義務付けられているからだ。地方の赤字郵便局を黒字化するためには、かんぽの詐欺的商法で穴埋めするしかなくなった。かんぽ詐欺は郵政民営化の落とし子と言えなくもない。
このように民間による競争が消費者にとって必ずいい結果を生むとは限らないのだ。携帯電話の料金が海外に比べて日本が割高だったことは事実だ。本来、日本は国土が狭く、国民一人当たり国土面積も小さい。しかも山地が多く、人が住む平地面積も考慮に入れると、携帯電話のコスト優位性は世界でもトップクラスになるはずだ。
が、その狭い国土に4社が別々に基地局を設置している。なんてばかばかしいことをしているのかと思う。
例えばテレビ局が別々にテレビ塔や放送衛星を持つということになったらNHKの受信料はいくらになるか。そもそも民放は経営が成り立つか。一つのテレビ塔や放送衛星を多くの放送事業者がシェア利用するのをプラットホーム・ビジネスという。そのプラットホーム・ビジネスを手掛ける民間の事業者がいなければ官がやればいい。テレビ放送がアナログからデジタルに移ったように携帯電話も5Gから6Gの時代に移ろうとしている。大手4社が自前で基地局を設置するとなれば莫大な設備投資が必要になる。再び値上げラッシュが予想されている。インフラ設備投資など大資本が必要なケースは官主導でやった方が効率化することも少なくない。官が公共事業として設置し、運営は競争入札で民間事業者に任せるという手もある。頭は生きているうちに使え。

●大店法廃止の失敗から何を学ぶか
1989年から90年にかけて貿易摩擦を解消するため日米構造協議が行われた。
このとき、アメリカは日本の農畜産物に対する高率関税だけでなく、日本の様々な非関税障壁も問題にした。その一つに日本の大店法があった。米商務省は玩具チェーンのトイザらスのための要求とうわさされたが、零細小売業者を保護するために大規模店舗の出店を規制する法律である大店法の廃止を日本に迫ったのだ(日本側は通産省が窓口)。
これは戦後の日本の経済政策の柱にしてきた考え方だが、護送船団方式というのがある。一般には金融業界の弱肉強食を避けるための金融政策と考えられているが、実はあらゆる産業分野にこの考え方が定着してきた。私は1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇』と題した著書で、日本のあらゆる産業界にはびこってきたこの護送船団方式を「弱者救済横並び」と命名したことがある。先に書いた食管制度も零細農家を保護するための制度だったし、大店法も零細小売店を大資本小売業者から保護することが目的だった。
が、弱肉強食は自由競争社会ではやむを得ないと考えるアメリカからすると、日本の大店法は消費者にとっては不利益になると見えたのだろう。実は、日本の産業界にはびこってきた「弱者救済横並び」の護送船団方式は、ある意味では世界でもっとも社会主義的な資本主義制度だったと言えるかもしれない。
大店法が廃止された結果、どういう事態が生じたか。郊外には大手スーパーが乱立して零細小売店は経営が立ち行かなくなり、駅前商店街はシャッター通りと化した。一時は消費者は安い価格で商品を買えるようになった。が、消費者にとってのメリットは長くは続かなかった。今度はスーパー業界で激しい弱肉強食の競争が激化し、資本力にものを言わせて出店攻勢をかけた大手スーパーだけが生き残る結果になった。
大手スーパーは出店攻勢で生き残るため資本の蓄積が必要になった。いま大手スーパーは価格競争ではなく品揃え競争の時代に入っている。「スーパー必ずしも安からず」の時代になった。その中で大手スーパーに価格競争を挑んで勝ち抜いている零細商店(日持ちがする野菜・果物を扱う八百屋が多いようだ)や小規模スーパーもある。賞味期限切れまじかの廃棄処分予定の商品を格安で販売し人気を集めている小売店もある。
いかなる政策もメリットだけでなくデメリットもある。政治が信頼を取り戻すためには、政策のメリットだけを強調するのではなく、デメリットも伴うことを正直に言うことだ。もちろん予想できないデメリットが後で生じる場合もある。郵政民営化の場合、強力なライバルとして携帯電話がこれほど普及することは予想できなかったかもしれない。が、郵便事業が赤字体質になったとき政治が果たすべき役割は、赤字事業にならない程度に郵便料金の値上げを認めるか、郵便物の集配を地域によって週に1回、2回、3回と郵便局の経営の自由度を高めることだ。現に郵政民営化の先駆的役割を果たした北欧では過疎地の集配は週に1回にしたりしてコスト対策をしている。そうすれば郵便局の統廃合も大胆に進めることができるし、赤字体質から脱却できて詐欺商法に手を染める必要もなかった。
岸田氏の「新自由主義からの脱却」が具体的にどういう政策を意味するのか、「新しい資本主義」の中身がまだ見えないだけに、今の段階ではこれ以上のことは書けない。

●「成長と分配の好循環」は本当に実現するか?
最後にアベノミクスの否定ともとれる「成長と分配の好循環」について検証する。アベノミクスは【金融緩和・円安誘導の金融政策→輸出企業の競争力回復・輸出拡大のための設備投資(成長)→雇用の増大・賃金上昇(分配)→可処分所得の増加・需要(市場)の拡大→消費者物価上昇・デフレ脱却→経済活性化・さらなる需要の拡大・設備投資(成長)→雇用拡大・賃金上昇(分配)】という好循環を期待した経済政策だった。
岸田氏は「分配なくして成長なし」と主張するが、確かにアベノミクスが描いた好循環は絵に描いた餅に終わったことは誰もが認めるところだろう。そうなったのは「企業の収益増」が「賃金上昇」に結びつかなかったためである。が、仮に結びついていても【消費増大→物価上昇・デフレ脱却】にはなっていなかったと思う。現に、コロナ禍以前は国民所得は急増したが消費は増えず、国民金融資産(預貯金など)が急増しただけだった。
岸田氏は「令和の所得倍増計画」もぶち上げているが、実は池田内閣時のような時代だったら、おそらくアベノミクスは成功していたと思う。このことも前回のブログで書いたが、第2次世界大戦後、大きな戦争もなく世界とくに先進国が経済成長の真っただ中にあり、子供が総理大臣でも日本は高度経済成長を遂げていたし、また国内市場でも3種の神器や3Cなど文化製品の需要が爆発的に増加しており、むしろ何もしなかったから簡単に所得倍増が実現しただけの話だ。当時は地方から夜行列車で上京・上阪して就職する中卒者が「金の卵」として町工場から歓迎されていた時代でもあった。実際彼らが高度経済成長時代に熟練工として腕を磨き、日本製品への信頼を高めた時代でもあった。
が、いま世界の、日本製品に対する需要はどういう状況か。2006~19年の貿易収支の推移を見てみよう。06年の貿易収支は11.1兆円の黒字だったが、19年には0.5兆円に激減している。しかし輸出が減ったわけではなく、輸出額はこの間1.9兆円増えているのだ。一方輸入額はこの間12.5兆円も増えた。その結果、貿易収支は10.6兆円も減ったというわけだ。また輸出の20%を占める自動車・同部品類の輸出額はこの間ほぼ同水準で推移している。
このことは何を意味しているか。
実はこの間の09年9月から12年11月まで民主党政権の時代があり、一時1ドル=80円以下という超円高で輸入が急増したという事情はある。が、安倍政権になっても輸出産業の中心である自動車・同部品類の輸出は増えていない。はっきり言えば日本製品は昔のような「作れば売れる時代」は終わったということなのだ。アベノミクスでいくら円安誘導してもメーカーが安倍氏の吹いた笛に踊らず、せっせと為替差益をため込んだのはそのせいだ。
さらに日本固有の特殊な雇用形態も企業利益が従業員に還元されにくい構造になっている要因だ。日本の春闘は崩れつつあるとはいっても産別交渉が基準になるケースが多く、例えばトヨタが儲かったからといってトヨタだけが突出して賃上げをしにくい慣習が続いている。これも「弱者救済横並び」の日本社会の構造の反映でもある。
そういう日本社会特有の問題があるなかで、「分配なくして成長なし」と言われても、企業側が「はい、わかりました」と賃上げに踏み切るだろうか。安部氏も「成長の果実を賃金上昇に」と経団連など経済団体に賃上げを要請する官製春闘までやったが、新しい需要を引き起こすほどの分配には成功しなかった。
しかも、いまはコロナ禍で中国とアメリカを除き世界中で経済が冷え込んでいるときだ。コロナ禍の終焉もいつになるかわからず、コロナ禍後の世界経済が不透明な中で「分配なくして成長なし」と声を張り上げても、そう簡単に企業側が分配を優先させるとは考えにくい。
さらに、少子化に歯止めがかからない状況下で、需要層の中核である生産人口(労働人口)が、収入を消費に回すより貯蓄に回そうという傾向にも歯止めはかけられないだろう。
いちおうマクロ経済スライドにした年金制度は制度としては100年でも200年でも持つだろうが、この年金制度は言うならPB(プライマリー・バランス)に基づく年金制度であり、その年の年金歳入を年金世代に分配するわけだから、少子化で将来労働人口が減少すれば年金支給額も減っていくことを意味する。
企業収益を賃金上昇として従業員に分配することに消極的なのと同様、労働者側も将来の年金生活を考えたら、そう簡単には消費にカネを回せないと考えざるを得ないのも当然と言える。
アベノミクスが「絵に描いた餅」で終わったのも、そう言った事情が背景にあったからだ。
さらに日本にとって厳しいことが予想されるのはTPPなど自由貿易圏構想が世界中に広がっていることだ。これも前回のブログで書いたが、自由貿易圏に参加している国、参加を考えている国は、ある意味では「皮を切らせて肉を切る」「肉を切らせて骨を切る」という経済政策に踏み切ろうとしているためである。
自由貿易圏ではある程度セーフガード処置は認められているが、基本的にはすべての参加国が無関税か関税の大幅引き下げをしなければならない。岸田氏が中国のTPP加盟に消極的なのは、中国が参加すると日本にとってTPPが不利な貿易状況になりかねないからだ。
どの加盟国も輸入を増やすために自由貿易圏に参加するつもりなど毛頭ない。どの国も輸出を増やすことが目的で、実は自由貿易圏での各国の貿易収支は麻雀の点棒のやり取りに似ている。つまりある国が貿易収支で黒字を出せば、どこかの国がその分赤字になる。そういう点棒のやり取りが貿易収支だから、参加国は多少輸入が増えても、それ以上に輸出が増えればいい、つまり「皮を切らせて肉を切る」ことしか考えていない。
輸入が増えれば、その産業分野の企業や生産者は大きな打撃を受けるが、輸出が増えれば、その産業分野の企業や生産者は大いに儲かる。日本でいえば、間違いなく第1次産業分野(農畜産業や水産業)は輸入が増大し、その分野の企業や生産者たちは苦しむことになる。工業製品の輸出拡大を日本は考えているのだろうが、中国が参加するとなると強力なライバルになる。はたしてTPPが経済成長の舞台になるか、またなったとしても収益が増大した産業分野から打撃を受ける産業分野への果実の分配をどうするか。課題はまだまだ残っている。                       


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