小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

改めて問う。国の在り方を転換する重大事を、国民の意思を問わずに閣議決定で決めていいのか。

2014-07-30 07:08:09 | Weblog
 昨日までの「集団的自衛権行使容認問題」についての2回にわたる長期連載ブログを書き終えて、正直かなりの疲労感がある。また新たな視点が思い浮かべば書くが、現時点で私がこの問題について書きたいことは書き尽くしたという思いもある。疲労感もあるが、同時にさわやかさもある。「集団的自衛権問題」に関して、閣議決定支持派も批判派も、私以上の論理で主張できる人は日本に何人いるだろうか。
 実は、かく言う私自身、この問題に私のように頭を真っ白にして取り組めば、同様の結論を論理的に導き出せる人はかなり多いのではないかと思っている。ただ頭の中を空っぽにして、一切の既成概念や価値観、常識を排除するということは、それほどたやすいことではない。現に公明党・山口代表の「他国のためだけでなく」という発言に、びっくり仰天する感覚は、学んで得られるものではない。だが、私がそのことを指摘すると、100人中100人が「その通りだ」と理解する。また安倍総理が「湾岸戦争のような戦争に参加することはない」という説明を聞いて、「では、イラクのフセイン政権によって人質として拘束された141人の日本人を見捨てた海部内閣と同じことをするのか」と素朴な疑問をぶつけると、やはり100人中100人が私の主張に同意する。

 ただ、まだ私自身、「なぜなのか」という疑問をいまだ解決できない問題が残っている。憲法96条の制定のプロセスと、「硬性憲法」とされるこの規定が、肝心の国民の同意を得ずに制定された理由に納得がいかないからだ。
憲法96条は、憲法改正の要件を定めた条項である。具体的には、①衆参両院でそれぞれ3分の2以上の賛成で発議でき、②国民の過半数の賛成で改正できる、というものだ。
 国民の過半数の同意は民主主義制度においては当然のことであり、②の要件はハードルでもなんでもない。問題は①のほうで、衆参両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要とされていることだ。これでは「国民主権」ではなく「国会議員主権」ではないか、と私は素朴な疑問を持つ。
 実は大日本帝国憲法においても、帝国議会の両院(公選の「衆議院」と非公選の「貴族院」)でそれぞれ3分の2以上の出席と、出席議員の3分の2以上の賛成が憲法改正の要件とされていた。
 また現行憲法制定に大きな影響を与えたアメリカも日本以上の「硬性憲法」と言われ、上下両院でそれぞれ3分の2以上の賛成に加え、全州議会の4分の3以上の賛成が必要とされている。

 憲法は、権力をしばるためのもの、と解釈されている。かつての日本は天皇が統帥権という絶対的権力を持っており、また大統領制をとるアメリカも大統領が相当大きな権力を持っている。だから、権力による独裁政治を防ぐための防波堤としての意味を持つことは理解できるのだが、現在の日本のように議員内閣制の場合は首相に絶対的権力が集中することはありえず、硬性憲法にして、憲法が時代の要請にこたえられないようにまでする必要性があるのかと思う。
 また、現行憲法が制定された時代と異なり、国民が接するメディアの選択肢も大幅に増えた。私のブログも、「継続は力なり」で、亀の歩みのようではあるが読者が着実の増え続けており、メディアや政党に対してそれなりの力を持つようになってきた。だから、こうやって1円にもならないブログを書き続ける意欲も湧いてくる。
 私のブログのことはともかく、政治家や政党もSNSを利用して、費用をかけずに主張を広く訴えることができるようになり、インターネットの世界は国民の知る権利を大幅に拡大した。メディアの主張が様々であればあるほど、国民は多くのメディアに接することにより、特定のメディアの世論誘導的な主張に惑わされる危険性も少なくなってきた。
 国民は、もっと自分自身に自信を持っていいと私は考えている。メディアも、国民の民度の高さを重く見るべきだ。
 メディアの人たちは、自分があたかも特権階級の存在であるかのように考えていないだろうか。読者や視聴者より、自分たちは頭がいいと思い上がってはいないだろうか。「上から目線」で主張していないだろうか。
 またメディアの人たちは、自分が属するメディアに対しても常に批判的精神で対する、というジャーナリストとしての基本的姿勢を忘れているのではないだろうか。メディアはしばしば間違うことを、メディアの人たち自身が自覚してほしい。先の大戦におけるメディアの報道姿勢については、すべてのメディアが間違っていたと、しおらしく「反省」して見せてはいる。が、その間違いがどうして生じたのかの検証はおざなりだ。
 メディアは勘違いしてはいないだろうか。「メディアが1枚岩でなければならない」などと思い込んでいないだろうか。メディアの使命は、読者や視聴者に、自分たちが自分たちの頭で判断できるように、正確な情報を提供するだけでいい。そして報道スタンスは読者や視聴者が決める――もうメディアと読者・視聴者の関係は逆転すべき時期を迎えている。そうなれば、読者が創り上げる新聞、視聴者が創り上げるテレビが、国民から支持されるメディアになる。

 読売新聞が独自の憲法改正試案を発表したのは1994年11月3日だ。実は11月3日という日付けには大きな意味がある。現行憲法が、帝国議会の承認を経て公布されたのが、その日なのだ。国民周知のための半年の期間を置いて翌年の5月3日から施行された。国民の祝日である「憲法の日」は、現行憲法が施行された5月3日になっているが、現行憲法が制定されたのは11月3日なのだ。
 その日の重みを胸に抱いて、読売新聞は総力を挙げて憲法改正試案(以下「試案」と略す)を作成した。いまから20年も前のことだ。当時のメディアは「新聞社のやるべきことか」と一斉に反発した。が、国民的憲法議論に、読売新聞が最初に小さな灯をともした記念すべき日でもあった。いまメディアによる憲法論議はタブーではない。この20年で日本人の民度がどれだけ成熟したか。
 その試案をいま私は読み返している。現行憲法は旧憲法を多少引きずっていて、第1章は「天皇」だったが、読売新聞は試案で第1章にあえて「国民主権」という項目を新設した。現行憲法の前文で国民主権についてこう述べている。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恩恵を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることがないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。(後略)」
 現行憲法も国民主権を謳ってはいるが、現行憲法は国民の総意を問わずして作成されたにもかかわらず、あたかも憲法の「確定」が国民の主権によって行われたかのような書き方になっている。
 それに対し、試案は前文できわめて簡潔にこう述べている。
「日本国民は、日本国の主権者であり、国家の意思を最終的に決定する。国政は、正当に選挙された国民の代表者が、国民の信託によってこれに当たる」
そして試案の第1章「国民主権」の項の第1条と第2条ではこう述べている。
「第1条(国民主権)日本国の主権は、国民に存する。
 第2条(主権の行使)国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じ、及び憲法改正のための国民投票によって、主権を行使する」
 試案が現行憲法に比して「主権在民」をより明確に憲法の条文に反映していることはだれも否定できないだろう。条文の文章も、かなり格調が高く、日本国民が誇りを持って自国憲法を語れるものになっていると思う。
 ただ、主権の行使が、選挙によって国民の意志を国政に反映させることと、憲法改正の際の国民投票に限定されているのは、やはり国政の現状を見るとき物足りなさを感じる。
 日本の首相は公選制ではなく、議会で選出される。そして首相の権限は内閣
の組閣と衆議院の解散権だけである。前回の参院選やその前の衆院選で自民党が圧勝したが、自民党は選挙の公約(マニフェスト)ではまったく触れなかった、従来の政府の公式見解である「集団的自衛権は、憲法の制約によって行使できない」としてきたのを国民の意思を問わずに変更し、「憲法解釈の変更によって行使できるようにする」と閣議で決めることができるということになると、果たして国民の意志が反映された国政と言えるのかどうか、きわめて疑問だ。メディアが政府の方針をどう評価するかは、NHKを除いて自由だが、非常に重大な国政の転換が、いとも簡単に行えるということに私は最大の危惧を感じる。
 少なくとも、国の在り方や、平和と安全を維持するため、国際社会に対する貢献と責任の基本的在り方を変更するような重要なことは、国民の総意によって決められるよう、国民投票の権利を選挙と憲法改正だけにとどめず、国会での一定の手続きによって行えるよう、国民の権利をより拡大した条文を試案に盛り込むべきだったと思う。
 今後、閣議決定に伴い、自衛隊法や周辺事態法など関連法案が20以上国会に上程されることになっているが、政府は来春の統一地方選挙まで法案提出は見送るという。国民の審判をあえて避けるという安倍内閣の姿勢に、国民が統一地方選挙でどういう意思を反映させるか、結果は目に見えるようだ。ただ政権の受け皿が、まだ日本には育っていないという状態が解消されていない。
 55年体制に終止符を打った細川内閣は「野合政権」だったし、事実上の単独政権だった民主党は「野合政党」だった。いま野党は党内の主導権争いで乱立状態に四散しており、自公政権の受け皿になれるような軸が見えてこない。
 自民党も一枚岩ではない。多くの派閥を抱えながら、過去にも小分裂を繰り返しながらも、何とかぶれない中心軸を維持してきた。その知恵を野党は学ぶべきだ。そもそも太陽の党と維新の会が合流したとき、石原氏は「小異を捨てて大同に付く」と主張していた。共同代表の橋下氏が結いの党との合流を目指しだした途端、国民には理解できない「憲法改正」と「新憲法制定」との「考え方の差異」を理由に橋本派とたもとを分かった。この「分党」で分かったことは、「小異にこだわることにした」のではなく、新党の主導権を握れなくなることがはっきりしたからだということだ。国民は分かっているのに、メディアが分かっていない。これはもはや「悲劇」ではなく「喜劇」である。
 疲労困憊状態の中で、とりあえず、予定を変更して憲法について考えてみた。「憲法解釈の変更」という重要なことを、時の政権が自由に閣議で決めていいものか、という疑問が新たに生じたためである。

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