小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「外国人労働者受け入れ」で、日本がどう変わる?--「人手不足の対症療法」で日本の「国のかたち」が変わることも…。

2018-12-10 01:03:06 | Weblog
 今日10日に閉会する臨時国会で、与党側の数の力にものを言わせた強行採決が続いた。野党の足並みも乱れ、6日には「命のインフラ」とさえいえる水道の民営化を促進するための改正水道法が成立した。8日午前4時過ぎには出入国管理法(入管法)改正が参院本会議を通過し成立した。いずれも拙速といわれるほどの短時間の審議で、与党側が強行採決に持ち込み成立させた。
 水道法に関してはコストダウンのためと説明されているが、公営で赤字事業の運営を民間に委託すれば黒字化するという論理が、最後まで分からなかった。ボランティア事業を目的とする企業がどこにあるのか。公営で赤字垂れ流しの運営を民間に任せれば黒字化するというなら、公共事業体そのものの体質改善が先ではないか。上下水道量の検針作業など、いくらでも合理化できる方法はある。そうした抜本的対策を尽くしても、赤字体質を改善できないというなら、水道事業そのものを国営化したらいい。水道水で何らかの事故が生じた場合、「あそこの水は危ない」という風評が流れたら、その地域の住民の大半はおそらくほかの地域に移り住んでしまうだろう。水道は「命のインフラ」だからだ。民営化すれば、確かに地方自治体の赤字は減少するだろうが、民間企業が赤字事業を引き受けるわけがなく、当然ツケは利用者である地域住民に回る。「国民の命を守る」――それが政治の根幹だったはずでは?…。
 6日には参院法務委員会に安倍総理が出席して改正入管法を強行採決した。総理は委員会で「現下の人手不足に対応するため新たな受け入れ制度を早急に整備する必要があり、来年4月のスタートを目指している」と一歩も引かない姿勢を見せた。「現下の人手不足」は昨日今日始まったことだったのか。衆参合わせて40時間にも満たない議論で「十分」といえるほど問題が少ない法改正なのか。あらかじめ言っておくが、少子高齢化に歯止めがかかることは今後もありえず、政府が経済成長主義をベースに続ける限り、単純労働分野での人手不足は永遠に続く。外国人の日本での労働期間を、政府は特定技能1は滞在期間を5年と限定するから移民政策ではないと主張しているが、単純労働でも経験による作業の効率化を考えたことがあるか。また外国人も5年間、日本で暮らせば日本語も上手になるだろうし、職場環境への順応性も高まるのは当然だ。そうした外国人労働者を、「5年たったから帰国してください」という処置をとれば、外国人労働者を雇用してきた事業者は猛反発する。その時政府は間違いなく事業者の要求にこたえて滞在期間を延長する。いつか彼らは日本に骨をうずめることになり、その家族も日本に永住することになる。つまり事実上の移民政策になることは必至だ。滞在期間の制限を設けず家族の滞在も認める特定技能2の労働者が日本人への帰化を要求したらどうする?
 後でも改めて書くつもりだが、私は移民政策に必ずしも反対ではない。かつては日本も人余り状態になっていた時期があり、南米などに日本人を積極的に移民を促していた時期もある。しかし人余りの時期には「海外で一旗あげてください」といった移民政策をとり、人手が足りなくなったら屁理屈をつけて外国人労働力を受け入れようといったご都合主義的政策が、海外の人たちから「日本は信頼できる国だ」という評価を受けられるだろうか。
 また国会で、「人手不足に対する対症療法」という点では、実は本質的議論ぬきにして、与野党ともに基本的スタンスは変わらない。野党が執拗に追求した外国人の技能実習生の「失踪問題」についても、法務省入国管理局が失踪者から聞き取り調査したとされる「失踪理由」のデータごまかし問題もあったが、審議は衆参合わせて40時間にも満たず、なぜそんなに急ぐ必要があるのかという疑問は与党内でも生じている。
 実際、野党も外国人労働者の受け入れについてはほぼ前向きである。なぜ外国人労働者を受け入れる必要があるのか、受け入れた結果、日本社会がどういう変貌を遂げるのかという本質的な問題をまったく議論せずにだ。日本という「国のかたち」を変えるかもしれない重要な法案が、国民的議論を経ずに「対症療法だから」で成立させてしまっていいのか。私は怒りを通り越して、憤りさえ感じる。
 実は私自身は、移民政策に必ずしも反対ではない。ただし、そういう大事なことを国民にいっさい問わず、政治家が国会だけで決めるというのはいかがなものかと思っている。

 日本は明治維新以降、戦後の一時期も含めて移民政策ととってきた。ただし、この移民政策は「人余り」を解消するために、主に農地開拓民として海外に移住させるという移民政策だった。先の大戦中は逆に労働力不足を補うため朝鮮人を徴用し、炭鉱などでの過酷な肉体労働に従事させた。戦後もそのまま日本に残った朝鮮出身者は姓名を変えて日本に帰化した。いま、飛ぶ鳥も落とす勢いの孫正義氏もそうした出自の持ち主で、実際、彼の父親は日本姓を名乗っていた。彼自身は自らの姓に誇りを持ち、米留学中に知り合った日本人女性と結婚して新しく戸籍を作ることになった時、役所で「孫」姓は日本にはないことを理由に日本人姓への変更を求められたことがあるくらいだ。やむを得ず孫氏は結婚によって孫姓になった妻にまず戸籍を作らせ、そのうえで役所に日本人として孫姓を認めさせたといういきさつもあった。
 
 しかし、政治というのはいつまでもご都合主義的な対症療法の政策を続けるべきではない、と私は考えている。日本の50年後、100年後、あるいはさらにその先のことを見据えて、「日本の国づくり」あるいは「日本という国のかたち」はどうあるべきかを国民とともに議論をし尽くしたうえで大きな枠組みを作り直すべき時期に来ていると思う。そういう意味では憲法改正問題と同様、国民の合意なくしてなし崩し的に外国人労働者を受け入れるやり方そのものが、改めて問われるべきではないかと思っている。
 政府は現在の人で不足を補う必要から、労働力が不足している産業を中心に外国人労働者を受け入れると主張している。が、受け入れる労働者は移民ではなく、一定の期間が過ぎたら帰国してもらうという(特定技能1の場合)。こういう考え方を、ご都合主義と言うのではなかったのか?
 少子高齢化に悩んでいるのは日本だけではない。欧米先進国はおろか、長い間「一人っ子」政策を続けてきた中国ですら、複雑な人口問題を抱えるようになっている。中国ではよく知られているように、戸籍差別政策が行われている。都市戸籍と農村戸籍で、相互の移転は容易ではない。中国で食糧難問題が生じたとき、人口減少のため「一人っ子」政策をとった。が、その後、中国が「世界の工場」といわれるような近代産業の発展に成功した結果、都市部を中心に「一人っ子」政策の付けが生じた。都市人口が不足するようになったのだ。
 実は都市と農村の生活格差は中国だけの問題ではなく、日本を含め先進国共通の問題でもある。しかも戸籍差別政策をとっている中国と異なり、自由主義国家では人口の移動は自由である。どの国でも交通インフラをはじめ生活の利便性が格段に高い大都市への地方からの人口流入が激しく、しかも大都市住民の高学歴化とりわけ女性の高学歴化が急速に進んだ。先の大戦後、先進国は勝手に海外の紛争に武力介入してきたアメリカや旧ソ連を除き、平和を享受しながら経済発展を遂げ、都市住民の生活水準は世界史に例をみないほどのペースで向上した。生活水準の向上とともに、人々の生活の多様化も進み、特に高学歴化した若い人たちは3K(きつい・汚い・危険)と呼ばれた現業の肉体労働を忌避するようになり、特に高学歴女性は子育てや家庭を守るといった過去の価値観から脱皮し、社会生活の中での生きがいを強く求めるようになった。核家族化の急速な進行によって、子育てを祖父母に頼めるという環境も減少した。少子化はこうして生じた社会現象であり、先進国共通の問題でもある。
また科学技術の発展は工業製品にとどまらず医療分野でも急速に進み、食生活の改善も伴って長寿化も進んだ。つまり高齢化現象だ。
こうした大きな社会の流れは、もはや止めることはできない。少子高齢化による労働力、とりわけ3Kの肉体労働者不足は先進国共通の問題であり、だから途上国の若い労働力は奪い合いの状態になっている。「選ぶより選ばれるようにならないと」といった議論が出てくるのもそのせいだ。
改めて言っておくが、少子高齢化の波は絶対に止められない。ということは、これからも日本は経済成長至上主義路線を継続すべきかどうかという、明治維新以来の大問題に直面していることを意味する。これからの日本の「国づくり」「国のかたち」をどうすべきかという大問題なのだ。
政策はしばしば真逆の結果を生む。政治家やメディアはそのことに早く気が付いてほしい。
例えば「子育て支援」と称する保育園増設政策。本当に「子育て支援」になっているのか、「少子化対策」になっているのか。実は、「子育て支援」なるキャッチフレーズは最近、保育園増設政策を正当化するために作られた言葉で、当初は「少子化対策」が目的だった。幼い子供の面倒を見てくれる祖母が近くにいないため(核家族化による)、保育園で幼い子の面倒を見ますから、せっせと子作りに励んでくださいというのが行政の狙いだった。が、その政策は完全に裏目に出た。高学歴化した女性は、二人目、三人目の子供を産み、育てることより、子育てを保育園に任せ、自らは社会の中での生きがいを求めるようになったからだ。
よーく考えなくても当たり前で、私たち世代の男性は仕事に生きがいを求め、家庭を顧みないのが当たり前という時代を送ってきた。「男が生活費を稼ぎ、女は家庭を守る」のが当たり前という社会通念もあった。
いま高学歴化した女性が、社会の中でかつての男性と同様に、仕事や仕事仲間たちとの交流に新しい生き方を求めるようになっても、それは当然のことである。そう考えれば、保育園増設政策は「子育て支援」や「少子化対策」のための政策ではなく、「女性の生き方支援」のための政策になっていることも、私たちはきちんと見極めなければならない。そのうえで、そうした政策のために税金を投入することが必要か否かを、地方選挙で政治家は地域住民に堂々と問うべきだろう。少なくとも男性は「男性の生き方支援」など受けてこなかった。私自身は女性の社会進出を歓迎しているが、女性が社会進出を目指すなら、それは自己責任で行うべきことだと考えている。
同様に、いま人手不足だからと、対症療法的な政策でやみくもに外国人労働者を受け入れることが、将来どう言う禍根を残すか、50年先、100年先を見据えながら考えるべきではないか。
政府は国会審議で最後まで「入管法改正は移民政策ではない」と主張してきたが、事実上の移民政策になることは特定技能2の対象者については滞在期間に制限を設けず、しかも家族にも同様の権利を与えるという。彼らが国籍を日本にしたいと正式な手続きを経て申請すれば、法務局は拒否できない。
15年2月11日、作家の曽野綾子氏が産経新聞にコラムを書いた。内容は日本の少子化と人口減には歯止めがかからないという前提に立ち、将来生じる労働力不足の解消策として大胆に移民を受け入れるべきだというものだった。そういう問題提起自体はどんどんしていただきたい。国民的議論を巻き起こすきっかけにもなるからだ。
問題は曾野氏がそのコラムで、移民を受け入れる場合、日本人との居住地域を分けるべきだと主張したことだった。その箇所を転記する。
「南ア・ヨハネスブルグのマンションの家族4人暮らしが標準の1区画に20~30人の黒人が住み込んで、大量の水を使ったために、いつでも水栓から水が出なくなった。その結果、白人が逃げ出して住み続けたのは黒人だけになった。居住区だけは白人・アジア人・黒人というふうに分けて住むほうがいい」
 曾野氏は敬虔なクリスチャンと聞いていたが、キリスト教の教えに合致しているとは到底思えない主張だ。南アの駐日大使が産経新聞社に抗議文を送るなど曾野氏の主張に怒りをぶつけ、言論界でも大問題になった。BSフジが3月6日の『プライム・ニュース』で曾野氏と南ア駐日大使の対談を生放送したくらいの騒動になった。私はこの番組を見た直後からブログを書き始め9日に脱稿、10日未明に投降した。ブログの全文を15年3月10日までさかのぼって探すのは読者にとっても消耗な作業だと思うが、グーグルかヤフージャパンで【曽野綾子 移民】で検索すれば検索結果の2番目に私のブログが出てくる。
 すでに安部政権が盤石になっていた時期であり、この「移民政策」騒動をきっかけに与野党で今後の国の在り方や国づくりの方向について議論を重ね、メディアを通じて国民的議論を引き起こして国民の合意が形成されていれば、この政策が将来に禍根を残す可能性をかなり少なくできたはずだ。
 が、そうした努力を一切せず、むしろヘイト・スピーチなど外国人排斥運動が激しさを増しているような状況で、経済界からの具体的要請があったのかどうかは知らないが、あまりにも思い付き的に基本設計ともいえないようなアイディア・スケッチ・レベルのような法改正をいま喫緊の課題として成立させる必要性があったとは、どうしても思えない。
 安倍総理の発想は、常に期限ありきで、憲法改正問題もそうだったし、改正入国管理法も、「議論など、尽くす必要がない。とにかく来年4月からの実施に間に合わせるよう法改正を強行しろ」という強権体質がもろに出たケースでもあった。
 日本人には「郷に入れば、郷に従え」という移住に伴う「和」の気持ちが、いいか悪いかは別にして精神的規範として定着している。が、そうした精神的規範を持っていない外国人が、日本の地域社会である程度の集団としてまとまると、その地域にはその人たちの精神的規範をベースにした「租界社会」が生まれる。こうして生じる「租界社会」と地域社会との軋轢がどうしても生じる。例えばごみの出し方ひとつとっても、「郷に入れば、郷に従う」という考え方そのものを「個人の自由を縛る」という論理で拒否されたら、地域社会と「租界社会」との軋轢は暴力沙汰や外国人排斥運動にまで発展しかねない。
 外国人労働者を受け入れる場合、そうした事態をあらかじめ回避するために、草の根からどのように外国人を受け入れるべきかを議論し、私たち日本人も多様な文化や生活習慣との共生をどう作り上げていくか、地域社会での議論を積み重ね共生方法を工夫していく必要がある。
「今、目の前にある労働力不足をとりあえず解消する」といった対処療法的法改正で、50年後、100年後にまで影響し、日本という国の在り方、国のかたちを根本から変えてしまいかねないことを、こんな無責任なやり方でやられてはたまらない。
 私は20回に及ぶ連載ブログ『民主主義とは何かが、いま問われている』で、一貫して訴えてきたことがある。
「民主主義の最大の欠陥は多数決原理にある」と。
 数さえ多くを占めることができたら、何でも問答無用で決めてしまう。燃料税の増税で暴動騒ぎを起こし、マクロン大統領を追い詰めて増税を撤回させたフランス人が、私にはまぶしく見える。
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