小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

憲法改正手続きのハードルを低くすることは国民主権の政治への第一歩だ(社説読み比べ)

2013-05-05 09:14:15 | Weblog
 実は、このブログの前に私は「日本国憲法について考えてみないか」と題するブログを憲法記念日の前日(5月2日)に投稿した。そのブログで、「憲法記念日には各新聞が社説で憲法について今日的課題について主張をぶつけ合うであろう」「(各紙社説の)読み比べを書く」とお約束した。ちょうどゴールデンウィークの真っ最中なので、いつもより訪問者は少ないだろうと思っていたが、予想に反して意外に多く、しかも日を経るごとに増えている状況である。いつこのブログを投稿しようか迷っていたが、あまり日を置くと前回のブログを読んでくださった方に申し訳ないと思い、きょう投稿することにした。まだ前回のブログをお読みでない方は、お手数をおかけすることになるが、前回のブログにざっと目を通していただきたい。前回のブログは比較的短いから、そう苦にならないと思う。

 日本国憲法は硬性憲法と言われる。憲法改正の発議には衆参両院でそれぞれ3分の2以上の賛成を得なければならないからだ。「発議」という言葉は通常ほとんど耳にしたことがないだろうが、「可決」ではなく、さらに国民(とりあえず有権者による有効投票総数と解釈されている)の過半数の同意を得るための手続きを経なければならないからだ。つまり憲法改正のハードルがきわめて高く、現に日本の場合、現行憲法が制定されて以降66年間、憲法条文の1条1句改正されたことがない。ゆえに日本国憲法は「硬性憲法」と言われている。
 硬性憲法という言い方がある以上、当然、軟性憲法と言われる憲法もある。つまり憲法改正のハードルが低く、国会の過半数による決議で発議できる性質の憲法のことである。
 世界的な視点で言えば、硬性憲法の代表的なのはアメリカ合衆国の憲法であり、軟性憲法の代表的なのはイギリスの憲法とされている。さらに硬性憲法に分類されているフランスやドイツなどヨーロッパ諸国の憲法も、実質的には軟性である。
 また硬性憲法であっても、憲法の条文を極めて基本的なことに限定し、改正そのものが議論になったことさえない硬性憲法もあり、一概に硬性憲法が国民にとって有利なのか不利なのかの議論に直結することは基本的にはない。が、日本の憲法は硬性憲法であり、かつ細部にわたって規定されているのが大きな特徴と言えよう。
 日本国憲法が硬性憲法であるゆえんは憲法96条に起因している。その憲法96条改正の発議を今国会で決定しようというのが安倍内閣の方針である。
 憲法改正の手続きを定めたのが憲法96条であって、この条文はGHQが草案を作成し、日本側で検討して原案を策定、GHQが許可して国会で承認されたという経緯をたどった。GHQによる草案はこうだった。

此ノ憲法ノ改正ハ議員全員ノ三分ノ二ノ賛成ヲ以テ国会之ヲ発議シ人民ニ提出シテ承認ヲ求ムベシ人民ノ承認ハ国会ノ指定スル選挙ニ於テ賛成投票ノ多数決ヲ以テ之ヲ為スベシ右ノ承認ヲ経タル改正ハ直ニ此ノ憲法ノ要素トシテ人民ノ名ニ於テ皇帝之ヲ公布スベシ

 先に述べたような経緯を経て日本側が策定し、国会で成立した憲法96条は以下のようになった。

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 GHQ草案と日本側の草案に大きな差異はないが、仔細に読み比べると国民の承認を経る手続きについてGHQ草案は「国会ノ指定スル選挙ニ於テ賛成投票ノ多数決」としているのに対し、日本側の草案では「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成」と訂正している。明らかに日本側草案のほうが明瞭である。ただし、これは私論だが「国会の定める選挙の際行はれる投票」は事実上無意味であり「特別の国民投票」だけでよかったのではないかと思う。国会の定める選挙には衆議院選挙(総選挙)と参議院選挙があり、かつ参議院選挙は議員総数の半数ずつを3年ごと2回に分けて行うことが憲法で定められている(総選挙は45条、参院選挙は46条)。憲法改正を「国会の定める選挙の際行はれる投票」で、その都度(つまり3回)賛否を問わなければならないというのはハードルの高さを超えて非現実的である。当時の日本は多少GHQ草案に配慮して、こういう草案にしたのではないだろう。
 ところが、いろいろ調べたが、現行憲法がいつ国会両院でそれぞれ三分の二以上の可決で発議し、いつ「特別の国民投票」が行われ、「過半数の賛成」が得られたのか、全く不明なのだ。つまり現行憲法は、現行憲法が定めた手続きを経ず効力を持続しているということを意味する。
 歴史的事実としてわかっていることは、ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日本は連合国軍(事実上米軍)の占領下におかれ、連合国軍総司令部(GHQ)の指示に従って「憲法改正草案要綱」を作成した(GHQ自身が草案を作成した条文もある。今回問題になっている憲法改正の要件を定めた96条もGHQが草案を作成し、日本側が修正草案を作成してGHQの承認を得たケースである)。そして最終的にGHQの承認を得て新憲法は、敗戦前の大日本帝国憲法73条の改正手続きに従って1946年5月に開かれた第90回帝国議会の審議を経て(若干の修正があった)、同年11月3日に公布され翌47年5月3日から施行された。
 つまり、現行憲法は現行憲法が定めた改正手続きを経ず、旧憲法の改正手続きによって制定されたのである。それは、日本が占領下におかれていた特殊な状況下で制定されたため、というのであれば、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立を回復した時点で、この憲法を存続させるべきか否かの国会審議を改めて行い、衆参両院で三分の二以上の賛成を得たうえで発議し、国民投票で過半数の賛成を得なければならないはずではなかったのか。私はその手続きを経ていない以上、憲法改正の賛否は別として、現行憲法は法的に無効ではないかという疑問を持たざるをえない。
 そのことはさておいて、なぜGHQは憲法改正にすでに述べたような高いハードルを設けたのか。実はアメリカ自体が憲法改正の手続きについて日本以上に高いハードルを設けているのである。アメリカでは憲法を改正するためには両院(上院・下院)でそれぞれ三分の二以上の賛成と、全州議会の四分の三以上の支持を得たうえで発議し、国民の過半数の賛成を得なければならない超硬性憲法なのである。GHQは日本の憲法もアメリカのような硬性憲法にしたほうがいいと考えたのであろう。
 アメリカ人は、これまでブログで何度も書いてきたが、自国の制度やシステム、社会的規範が最も正しく普遍であるべきだと考えており(そのこと自体は「誇り」を持つすべての国の人々がそう信じている――敗戦によって「誇り」を失った日本人を除いて)、他国に対しても自国の制度やシステム、社会的規範を採用させようと「善意に満ちた」努力を重ねてきている。「誇り」を持つ国々にとっては余計なお世話でしかないのだが……。
 私はアメリカの様々な制度やシステム、社会的規範を全面的に否定しているわけではない。民主主義という政治システムは古代ギリシャ人が発明したが、何事も多数決で決めるという民主主義政治の最大の欠陥を「フェアネス」という概念を発明することで、現代世界で最も成熟した民主主義社会に作り上げることに成功したのはアメリカだと考えており、アメリカが作ったいろいろなシステムやその基盤となっている社会的規範の多くは日本も導入すべきだと考えている。ただアメリカの最大の欠陥は、国内においては世界で最も成熟した民主主義システムを構築していながら、他国に対しては必ずしもフェアではないという問題を抱えており、それは国家というものも人間の集団である以上、アメリカも世界最大の軍事力と経済力を擁した「驕り」から抜け出すことができないからではないか。
 余談だが、日本人もかつては世界に誇ってもいい「誇り」を持っていた(すべての日本人が、という意味ではない)。「武士は食わねど高楊枝」という死語になった格言があったが、その誇りは、戦後、「法の順守を国民に求める立場にあるものが、法を破ることはできない」と、闇米に手を出さずに餓死した判事を最後に、私たち日本人は失ってしまったようだ。
 憲法改正の話に戻る。現在さしあたって問題になっているのは憲法改正の手続きである。憲法改正のための手続きのハードルを低くしようというのが安倍総理の、いわば執念である。その執念は、彼の祖父、岸信介首相が60年安保改定によって日米安全保障条約をそれまでの一方的な片務的関係から、少し双務的関係に変えたことが、当時の国民から理解されず、安保改定を成し遂げながら無念の降板を余儀なくされた思いを、当時はまだ幼かった安倍が多分友達たちからいじめられ、悔しかった気持ちをずっと引きずって政治家になって以来の、日米安保条約をより双務的なものに近づけるために「集団的自衛権は固有の権利であることを認めながら、日本はその固有の権利を行使できない」という論理的に成り立たない現行の憲法解釈の問題を一気に解決するための手続きとして、まず憲法96条を改正しようというのが最大の目的である。
 だから96条の改正は、即9条の「不戦条項」の改正につながるとだれもが考えるのは当然で、9条改正問題と切り離して96条改正問題を論じてもあまり意味はないのだが、一応そうした事情を考慮しながら各政党の主張と全国紙の社説について論じることにする。

 まず各政党の姿勢を明確にしておく。 
 自 民……賛成。改正し、集団的自衛権を明文化。
 民 主……賛否両論。政党の体を成していないため。
 維 新……賛成。自衛のための戦力保持を明確化。
 公 明……慎重。集団的自衛権の明文化には疑問。
 みんな……賛成。自民とほぼ同じ。
 生 活……不明。賛成もできず、かといって反対もできず。投票はその時の
      小沢の気まぐれによる。
 共 産……反対。自衛隊は認めたが、違憲の主張は変えず。精神分裂状態。
 社 民……反対。旧社会党時代の「非武装中立」主張の総括なし。

 次いで全国市各紙の社説はどうか。
 読 売……無条件賛成。衆参ねじれ状態を考慮し、参院で否決されたら衆院
      に差し戻し過半数で可決を提案。(※だったら一院制を主張したら)
 朝 日……反対。(※最近までの「平和憲法」の定義は取り消したのか ? )
 日 経……賛成。ただし、96条改正後、自民は具体的憲法改正案を出せ。(※
      実際には出している)
 毎 日……反対。(※はっきり言って「反対」のための「反対」)
 産 経……賛成。同紙提案の新憲法要綱を強調。(※一考に値しない)

 大体、皆さんが予想された通りの社説だったと思う。私も各紙の社説を読んでいて、賛否の予測はしていた。だが、どういう論理で主張をするかに多少興味があった。というのは、この1年ほどの短い間に日本を取り巻く安全保障の環境が一変したため、その環境激変が社説にどう反映されたかが関心事だったのだ。
 だが、各紙の社説を読んで、すべてとは言わないが、論説委員の鈍感さには呆れるばかりだった。いたずらに原則論を並べるばかりで、現行憲法が現実に対応できない状況になっているという意識が、とくに反対論を展開した朝日新聞や毎日新聞に皆無だということがはっきりしたのは、皮肉ではないが検証しただけの甲斐があった。まず賛成派から検証しよう。

 日本で最大発行部数を誇る読売新聞。社説氏はこう主張する。
「現行憲法は占領下、連合軍総司令部(GHQ)の草案をもとに制定された」「世界でも改正難度の高い硬性憲法と言えるだろう。GHQは、日本で民主主義が確立するには時間がかかると考えたようだ」
 すでに書いたようにアメリカ自身が超硬性憲法にしている。アメリカ人は自分たちの制度やシステムが世界最高だと勝手に考えている国だ。「日本に民主主義が確立するには時間がかかると考えた」わけではなく、自国の硬性憲法が最高の憲法だと考えているからにすぎない。読売新聞の社説氏は不勉強だ。
 アメリカはなぜ超硬性憲法にしたのか。アメリカはご存じのように大統領制をとっている。大統領制をとっている国の多くは、大統領にきわめて大きな権限を与えている。アメリカの場合、大統領は議会の決議に対する拒否権を持っている(大統領が拒否した法案を成立させるためには、両院で三分の二以上の賛成を必要とするほどハードルが高い)。単に所属政党のトップというだけでなく、国民から直接選ばれたという事情が特別の権限を持つようになった理由である。その代り、大統領の長期政権による独裁政治体制を防ぐため、憲法を修正して大統領の3選を禁止した。強大な権限を持つがゆえに、高いハードルを超えて超党派で大統領の3選を禁止することにしたのである。選挙権・立候補権を女性や白人以外の黒人などにも与え、満18歳から選挙権を持つようにしたのも修正憲法によってである。
 それはともかく読売新聞の社説氏が、憲法改正案の一つとして衆参ねじれ国会対策のため、憲法が定めている、衆院で可決した法案が参院で否決された場合の成立条件である衆院での三分の二以上の再可決はハードルが高すぎるとして、衆院で過半数で再可決すれば成立するように憲法を改正するという提案はいただけない。それなら参院は必要ないわけで、衆院の優位性を高めるより一院制を提案したほうがよほどましである。
 実は私も日本の二院制には大いに疑問を感じている。NHKはしばしば衆参両院での重要法案を審議する予算委員会を中継するが、与野党が両院の予算委員会で全く同じやり取りを行っている。時間と費用の浪費ははなはだしいと言わざるをえない。ねじれ対策については産経新聞や日本経済新聞も独自の主張をしているので、それぞれの社説検証で再度触れる。
 読売新聞は最近、衆院議員の「0増5減」法案に関連して、他の先進国における議員数と人口の比率を調べ「日本の議員数は他の先進国より少ない。民主の議員大幅削減提案はポピュリズム(大衆迎合主義)だ」と批判したが、他の先進国が議員にどれだけ歳費を支払っているかの調査はしなかったようだ。一体政党助成金のような大盤振る舞いをしている先進国がどこにあるのか、また事実上選挙活動しかしていないか、何もしていない家族に対してすら「秘書給与」を税金で支給している国がどこにあるか、そういったことも調査してほしい。そうでないと、もっともらしい批判が「為にする批判」と同じになってしまう。

 次に産経新聞の社説について検証する。産経新聞は憲法改正の独自案を打ち出しており、それは別にかまわないが、恐れ入ったことに3日の社説でこうのたもうた。
「改憲が現実の政治日程に上り、国民投票が行われる。その時、羅針盤になるのが現行憲法の問題点を摘出し、新たな国家像として『独立自存の道義国家』を打ち出した本紙の『国民の憲法』要綱である」
 恐れ入りました、と言うしかない。テレビ放送の時代劇で水戸黄門が印籠を高々と掲げ「この紋所が見えぬか !」と恫喝しているような感じだ。
 社説氏によれば『要綱』の特徴は、衆参ねじれ現象の下で重要法案の成立が阻まれるのを防ぐために二院制にメスを入れた点にあるという。具体策は参院選に直接選挙だけでなく、間接選挙(有権者が議員を直接選ぶのではなく、まず選挙人を選び、選挙人が議員を選挙する方法)を導入すること。なんとなくアメリカの選挙方式をイメージさせられるが、それで果たしてねじれ現象が解消するのか。間接選挙で選ぶ「選挙人」はアメリカの「代議員」と同様顔がない。つまり「選挙人」という名目の数を獲得するための戦いは立候補者自身が行わなければならない。大変な労力と金がかかる。アメリカの場合、そういう制度が定着しているのは「代議員」を獲得するための選挙運動の主体が基本的にボランティアの支持者によって支えられているからだ。日本でもボランティアが選挙運動の担い手になるケースが徐々に増えてきてはいるが、まだまだアメリカのように定着しているとは言い難い。国民や県民・市民などの声を代弁してくれるのが議員であるという認識が薄い日本では議員を選ぶのは権利ではなく義務だという意識が育っていない。そういう状況の中に間接選挙を持ち込んだら困惑するのは選挙民のほうだ。
 そのほか社説氏は思い付きとしか言いようのない『綱領』の数々を並べ立てているが、そのどれもが評価に値しない非現実的なものばかりだ。産経新聞の『綱領』にこれ以上貴重なスペースを割くのは読者に苦痛を強いるだけなので、この辺でやめる。いずれにせよ産経新聞の提案ではねじれ対策には全くならないことだけははっきり言っておく。

 賛成派のトリを飾るのは日本経済新聞だ。発行部数で産経新聞よりはるかに上回る日本経済新聞をトリに持ってきた理由は、日本経済新聞の主張が一番まともだと思ったからである。日本経済新聞の社説氏は言う。
「忘れてはならないのは、改憲手続きをへて条文を改める明文改憲だけでなく、その前の段階で、国家がきちんと機能するよう法改正により対応が可能な立法改革もしっかり進めることだ」「96条改正によって改憲しやすくしたあとに、何をテーマにどんな段取りで進めていくのかを示さなければならない」「自民党は憲法改正草案をまとめ、具体的なメニューを提示しているとはいえ、焦点の9条についてどんな手順を想定しているのかがはっきり見えない。入り口が96条で出口が9条なら、もっと堂々と改憲論議を挑むべきだろう」「日本周辺を見回した場合、とくに北朝鮮の出方など、急いで検討しておいた方がいいものがある。行使を禁じていると解釈している集団的自衛権がそうだ」
 高校生にも理解できる平易な文章で、かつ論理的である。さらに社説氏はねじれ問題の解消策も提案している。
「国会法では、衆参両院の議決が異なった時、両院の代表者各10人からなる両院協議会で協議し、3分の2の賛成で議決することになっている。これを2分の1に改め、同時に議席数に応じて各党の代表者を出すようにすれば、機能不全の両院協議会が動くようになるはずだ」
 憲法とは何か、という基本的概念についても再確認を読者に求めている。
「日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)が『憲法は特定の価値を国民に押し付けるものではない。国家権力をしばる法規範だ』というのは、その通りだ」「憲法のそもそも論をいま一度確認し、立法改革と明文改憲による道筋を示して、新しい日本につなげていくことが改憲論議の基本でなければならない」
 スペースさえ許せば、全文を転載したいくらい平易でありながら論理的で格調も高く、100点満点を差し上げたいほどの社説である。これ以上付け加えることがあるとすれば、両院協議会での協議での可決条件として提案している3分の2の賛成から2分の1にハードルを下げることで参院の在り方がどう変わるかの想定がなされていないことくらいである。衆院と同じ機能を持っている参院の在り方について国民的議論を経て、参院の制度改革を提案してほしかった。

 今度は反対派の社説を検証する。まず朝日新聞。憲法についての基本的考え方は間違っていない。私には朝日新聞がなぜ憲法改正に反対するのか、よくわからない。条件付きで賛成してもよかったのではないかと思う。
「憲法には、決して変えてはならないことがある。近代の歴史が築いた国民主権や基本的人権の尊重、平和主義などがそうだ。時代の要請に合わせて改めてもいい条項はあるにせよ、こうした普遍の原理は守り続けねばならない」「そもそも、憲法とは何か。憲法学のイロハで言えば、権力に勝手なことをさせないよう縛りをかける最高法規だ。この『立憲主義』こそ、近代憲法の本質である」「憲法99条にはこうある。『天皇又(また)は摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』。『国民』とは書かれていないのだ」(※米国やデンマークの憲法改正に設けている高いハードルを紹介したうえで、自民などの改正論はこのハードルを低くしようとしていると指摘)「これでは一般の法改正とほぼ同じように発議でき、権力の歯止めの用をなさない。戦争放棄をうたった9条改正以上に、憲法の根本的な性格を一変させるおそれがある。私たちが、96条改正に反対するのはそのためである」
 私が注釈を加えた前の主張は全面的に支持できる。改憲賛成派も、この主張には異を唱えまい。ところが、注釈のあとの主張は論理が飛躍しすぎている。自民の憲法改正草案には、確かに国民の基本的人権や言論の自由を脅かしかねない個所があり、私も自民の改正草案を全面的に支持しているわけではない。また96条の改憲について共同歩調を明らかにしている維新やみんなも自民の改正草案を支持しての共同歩調ではない。朝日新聞の社説氏も認めているように「時代の要請に合わせて改めてもいい条項はある」のだ。もちろん社説氏が続けた(国民主権や基本的人権の尊重、平和主義などの)「普遍の原理は守り続けねばならない」のは当然である。
 社説氏はこうも言う。誰も否定できない主張だ。
「日本と同様、敗戦後に新しい憲法(基本法)をつくったドイツは、59回の改正を重ねた。一方で、触れてはならないと憲法に明記されている条文がある。『人間の尊厳の不可侵』や『すべての国家権力は国民に由来する』などの原則だ」
 そういう正論はだれも否定していない。だから時代の要請のよって改正すべき条項は改正しやすくし、絶対不可侵の条項を改めて新憲法に明記すればいいのではないか。第一、憲法改正は国会の過半数の決議だけでできるわけではない。国民の過半数(実際には有権者の有効投票の過半数)の賛成がなければ改正できないのだ。朝日新聞は国民を信じず、朝日新聞の反対が通らないような憲法改正は認められないと言いたいのか。何度読み返してもそうとしか読み取れない。朝日新聞の独善性は創刊以来、戦前・戦中・戦後を通じて一貫して変わっていない。日清・日露戦争で国民の軍国主義化への傾斜を煽りに煽ったことには目を瞑り、先の大戦での報道姿勢だけを、軍部の圧力に屈したと責任転嫁しながら、しおらしく「反省」してみせる独善性は、もう「体質的」としか言いようがない。

 最後に毎日新聞だ。いきなりスピルバーグ監督の映画『リンカーン』の鑑賞感から入った。社説氏はこの映画にいたく感銘を受けたようだ。
「(映画は)リンカーンが南北戦争のさなか、奴隷解放をうたう憲法修正13条の下院可決に文字通り政治生命をかけた物語だ。彼の前に立ちはだかったのは、可決に必要な『3分の2』以上の多数という壁だった。反対する議員に会って『自らの心に問え』と迫るリンカーン。自由と平等、公正さへのゆるぎない信念と根気強い説得で、憲法修正13条の賛同者はついに3分の2を超える。憲法とは何か、憲法を変えるとはどういうことか。映画は150年前の米国を描きつつ、今の私たちにも多くのことを考えさせる」
 これまで私はブログで何度も「伝説は実像を虚像に変える」と書いてきた。その一つの例としてリンカーン伝説のウソも暴いた。リンカーンはもともと奴隷解放論者ではなかった。彼は大統領に選ばれた時の就任演説で「私は奴隷制度を廃止する意図を持っていない」と明言している。ただリンカーンが所属していた共和党内部の奴隷解放主義勢力はかなり強く、リンカーンがいずれ奴隷解放に踏み切るのではないかと考えた南部諸州が連邦国家からの離脱を宣言し、独立国家「アメリカ連合国」を建設したのが南北戦争勃発の原因だった。戦況は当初南部が有利だったが、南部諸州で黒人奴隷たちがゲリラ的に反乱して戦況は一進一退の状態になった。これを好機として共和党の奴隷解放主義勢力がリンカーンに「奴隷解放主義」への転向を迫ったのである。戦争に勝つためリンカーンは自らの信念を捨てて奴隷解放主義者に転向、リンカーンを大統領の座につけるべく協力を惜しまなかった反奴隷解放勢力を今度は説得せざるを得ない立場に追い込まれたのである。それだけではない。南北戦争で勝つため牧畜を主産業にしていた西部諸州を味方につけるべく、西部諸州の牧畜業者にとって目障りだった原住民のインディアンを徹底的に弾圧し、ペンペン草も生えない土地をインディアンの居住地と勝手に定め、その命令に従わなかった部族に対して大虐殺さえ行っている。そういう人物を、娯楽映画を見ただけで「自由と平等、公正さへのゆるぎない信念」の持ち主と信じてしまうようでは、そもそも憲法を語る資格がない。
 社説氏の無知蒙昧さはその辺で止めておく。改憲についての主張を検証する。
「その時の多数派が一時的な勢いで変えてはならない普遍の原理を定めたのが憲法なのであり、改憲には厳格な条件が必要だ。ゆえに私たちは、96条改正に反対する。確かに、過半数で結論を出すのが民主主義の通常のルールである。しかし、憲法は基本的人権を保障し、それに反する法律は認めないという『法の中の法』だ。その憲法からチェックを受けるべき一般の法律と憲法を同列に扱うのは、本末転倒というべきだろう」
 いったいどの政党が、憲法と一般の法律を同列に扱おうとしているのか。私が知る限り、そんなことを主張している政党は一つもない。どの政党がそう言うバカげた主張をしているのか教えてほしい。「反対のための反対」論と言わざるを得ない。

 いちおう以上で全国紙5紙の改憲問題についての社説を検証してきた。結論から言えば、一番大事なことを、どの社説も視野に入れていないことがはっきりした。
 一番大切なこととは何か。国民主権の憲法にするにはどうすればいいのか、という視点である。
 憲法改正の発議権限が国会に限定されていることはやむを得ないだろう。国民主権という基本的概念からすると、可能ならばすべての国民に憲法改正(一般の法律改正も)の発議ができるようにするのがいいのだが、そんな制度にしたら収拾がつかなくなる。だから国民が権限を付託した国会に憲法改正の発議権限を限定するのはやむを得ない処置だ。国民主権とは、そういうことだということを皆さんお忘れではないか。
 だから、可能な限り、国民が主権を発揮できる機会を増やすべきなのだ。それが、欠陥だらけの民主主義を少しずつでも成熟させていく唯一の方法なのである。そういう意味では、衆参両院の過半数の賛成で憲法改正の発議ができ、国民が自ら主権を発揮できる機会を増やすことは非常に大切なことなのだ。
 一般の法律についても、衆参両院で一定の割合で賛成が得られれば、国民投票で国民に選択させる「国民投票法」も作るべきだ。その割合は憲法改正の発議の新ハードルとして議論されている衆参両院における過半数の賛成より低くした方がいい。なぜなら一般の法律は現行憲法によれば衆参両院の過半数の賛成で可決されてしまうのだから、国論を二分するような重要法案は国民が直接選択できる機会をつくるべきだろう。
 そうすれば国民も、政治家任せではなく、自ら国政に参加できる機会が増え、真剣に国の在り方について考えるようになる。これは民主主義が宿命的に抱える欠陥を多少なりとも改善する一里塚になるだろう。
 憲法改正議論を通じて、国民主権はどうやって実現すべきか、国民全体で考える機会にしたいと思う。
 私も疲れたが、この長文のブログを最後まで読んでくださった方々も、たぶんかなりお疲れになったと思う。感謝申し上げる。
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