小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日新聞社説氏は「民主主義」という概念を全く理解していないようだ

2013-01-07 04:03:52 | Weblog
 新年のご挨拶だけ「です・ます」体でブログを書いたが、今日から私の本来の文体である「である」体でブログを書くことにする。この二つの文体は前者が丁寧な表記、後者が断定的・強調的表記とされているが、昔から何となく違和感を感じてきた。「です・ます」体に対比する表記法としては「だ・ある」体とするのがより正確ではないかという疑問がぬぐえないのである。そんな、なんとなく釈然としない気持ちを抱きながら、今年も「である」体でブログを書くことにしたというわけだ。
 新年早々の5日の社説で朝日新聞は『民主主義を考える』と大上段に構えた「民主主義論」を唱えた。朝日新聞社説氏の「民主主義」についての理解の浅薄さがよく理解できた。この程度の主張に通常の社説のスペースをはるかに超えるスペースを割いた意味が全く理解できない。社説の書き出しはこうだ。

 民主主義を考えたい。
 政治の病は、民主主義じたいが風邪をひいている表れのように思えるからだ。
 政治不信は深まり、政党の支持者は細った。人々は「支持」よりも「不支持」で投票行動を決めているようにみえる。根の枯れた政党は漂い、浮き沈みを繰り返す。

 この社説の筆者は、基本的に「民主主義」というシステムの本質を理解されていないようだ。私はこれまで、何度も民主主義の欠陥についてブログで論じてきた。しかし民主主義に代わるよりベターなシステムが発明されるまでは、今のところ民主主義をより成熟させていく方法を模索し続けるしかない、とも書いてきた。
 民主主義が求められるのは基本的には政治の世界の話である。軍隊などのヒエラルキーが確立している組織には民主主義はありえない。軍隊ほど厳密ではなくても、ほとんどの組織(共同体と言っても良い)には緩やかであってもヒエラルキーがやはり存在し、民主主義は存在しえない。
 また政治の世界でも肝心の政党の内部には民主主義は存在しえない。民主主義が機能するのは選挙民が議員を選ぶための選挙と、党員(サポーターを含む党もある)や議員が党の代表や党の支部長を選ぶときの選挙、そして議会で法案や条例を採決するときの三つだけである。いずれも多数決で決めるのが民主政治の大原則である。
 かといってこの三つのすべてに民主主義が完全に保証されているかというと、必ずしもそうではない。共産党と公明党を除き、党内が一枚岩ではないからだ。共産党や公明党も外部からは見え難いだけで、党内が一枚岩とは限らない。共産党員や公明党員は何万といるはずだから、その人たちが全員同じ考えや思考方法を自発的に持つなどということはありえない。
 まして自民党や民主党のように右から左までいろいろな思想・政治信条を持つ人たちが寄せ集まっている政党は、内部に多くの派閥(民主党の場合はグループ)を抱えている。しかも派閥やグループ内の議員が完全に同一とまでは言わなくても比較的近い政治信条を共有しているかというと、そうでもない。選挙のときに世話になった、資金面で応援してくれた、というやくざの世界と同じ理由で派閥やグループに属してしまう。
 さらに理由はどうであれ、いったん派閥に入ると、派閥のトップと考え方が違うと気づいても、自分の政治信条に近い別の派閥に移ることは不可能である。昔、映画が全盛期だったころ、トップスターの引き抜きを防ぐため五社協定によってスターを拘束していた時代があった。そのような公然たる協定を派閥同士が結んでいるわけではないが、暗黙の了解事項として派閥間の移行はできない仕組みになっている。
 どうしても自分が属する派閥の意向にはついていけないと思ったら派閥から離脱して無派閥議員になるか、離党するしかない。政党助成金は党に入るが、さらに派閥単位に配分される。したがって無派閥になると政党助成金は貰えなくなる。そのため最低5人の議員が集まって新党を作り政党助成金を貰える資格を確保するしかない。当然人数集めが目的だから政治信条の共有は二の次にならざるを得ない。
 こうしたやくざの世界のような政治の世界に、健全な民主主義が育つわけがない。日本国民が政治に直接関与できるのは選挙のときだけである。朝日新聞社説氏は「政治不信は深まり、政党の支持者は細った」ことを民主主義の危機と考えているようだが、私は全く反対の考え方をしている。むしろかつてのように所属する組織(業界団体や労働組合など)の指令に従わない人たちが増えてきた結果、選挙民が自分の考えで投票行動をするようになったためだと私は考えている。その要因はいくつか考えられる。自分が所属する組織が自分を守ってくれなくなったという厳しい現実が一つ考えられる。労働組合の組織化率が低下の一途をたどっているのもその表れと言えよう。その結果投票行動は自分が所属する組織の指令に従わず、自分で決めるという人たちが増えたのが無党派層の増加に結びついている。特定の政党の支持者が減ったのはその結果で、それは民主主義の後退ではなく、むしろ民主主義の前進だと私は考えている。
 それが証拠に今回の総選挙前の世論調査では、「今回の選挙に関心を持っている」「投票には必ず行くor多分行くと思う」と答える人は決して減っていない。だがふたを開けてみると投票率は低かった。このギャップを朝日新聞の社説氏は考慮に入れなかったようだ。一番この現象を理解したのは圧勝した自民党幹部だった。選挙で圧勝はしたが、自民党の候補者が獲得した票、比例区で自民党が獲得した票は前回に比べほとんど増えていなかったからだ。つまり、総選挙に関心があり、投票に行くと考えていた無党派層が、変わり映えのしない各政党の公約に拒否反応を示したという正確な理解を自民党は持ったようだ。だから「勝った、勝った」とぬか喜びせず、今年夏の参院選で支持層を増やせなければ総選挙で勝った意味がないと兜の緒を絞めるのに必死になっている。
 政党支持層が減少している傾向を、このように論理的に考えると、ジャーナリズムの使命は政治における民主主義をいかに成熟させていくかにあるのではないか。つまり無党派層が増大している傾向を民主主義の危機ととらえるべきではなく、民主政治の在り方について既成概念にとらわれず、白紙の状態から見直す必要があると私は考えている。
 たとえば沖縄の問題を考えてみよう。沖縄県の面積は日本全体の1割以下にすぎないが、この狭い地域に在日米軍基地の7割以上(ただし自衛隊との共用血を除いた米軍専用地)が集中している。こうした状態に対し、2010年、毎日新聞と琉球新報が沖縄県民を対象に行った世論調査によると、「米軍基地を整理縮小すべき」が50%、「撤去すべきだ」が41%に達している。この世論調査は沖縄県民全体に対して行われた。もし基地周辺5km以内の、基地とは一切利害関係がない住民を対象に同様の世論調査を行えば、おそらく99%以上が「基地撤去」を求めるであろう。
 一方、沖縄県を除く日本のすべての都道府県民を対象に同様の世論調査を行ったとしたらどういう結果が出るだろうか。残念ながら、そういう世論調査を行ったマスコミはないようだ。で、私の推測だが、もし同様の世論調査を行っていたら、やはり沖縄県民に対する同情票が多数を占めるだろうとは思う。だが、その人たちに「では沖縄の米軍基地の一部が、あなたの住居の5km以内に移転するとしたら反対しませんか」と重ねてアンケートを取ったら、おそらく100%近くが「反対する」と答えるであろう。
 民意を集約して政治を行うのが、政権政党の責任だが、沖縄県から選出された国会議員(衆参合わせて)は全国会議員の何%いるか。沖縄県民の叫びは政治にはほとんど反映されることがない……残念ながら、それが民主主義政治の正しい在り方なのである。もし少数意見が国を動かすというようなことになったら、それは民主主義とは相容れない独裁政治ということになる。社説は言う。

 不支持という負の感情を燃料に、民主主義はうまく動くのだろうか。

 実は私はしばしば白票を投じに投票所に行く。なぜ白票をわざわざ投じに足を運ぶのか。支持できる候補者・政党がないことを自分の明確な意思表示として主張するためである。社説氏は完全に勘違いしているようだ。「不支持」というのは選挙民の積極的な意思の表示である。
 残念ながら立候補者は、自分の本音で選挙活動をしていない。とにかく票を集めなければ議員のバッチを胸に付けることが出来ない。だから出来もしない約束を選挙民にしたり、おもねったりする。そういう人に一票を投じることが民主主義をうまく動かせる方法なのか。
 戦争に負けた日本にGHQが「アメリカ型民主主義」を持ち込んだ。そのアメリカの大統領の演説で日本人の誰もが知っている二人の名セリフ(あえて「セリフ」と言わせてもらう)がある。
 その一人はエイブラハム・リンカーン。南北戦争で北軍の総司令官でもあり、「奴隷解放の父」と今でも言われている。そのリンカーンが北軍の勝利を決定づけた1863年のゲティスバーグの戦いの直後の演説で語った言葉だ。
「人民の、人民による、人民のための政治」
 このわずか1行がアメリカ民主主義の原点になり、リンカーンは歴代大統領の中で今でも最大の人気を得ている。リンカーン像の真実は後で述べるが、もう一人名セリフでリンカーンに次ぐ尊敬の念を集めている大統領がいる。その人の名はジョン・F・ケネディ。彼が大統領に就任した時の演説にこの一文があった。
「祖国があなたに何をしてくれるのかを求めるのではなく、あなたが祖国のために何ができるかを考えてほしい」
 これは偶然だろうが、リンカーンもケネディも暗殺者の凶弾に倒れた。この事実も二人が永遠の英雄に祭り上げられた要因の一つになったと思う。
 ではこの二人の実像はどうだったのか。
 まず、リンカーン。彼は奴隷解放主義者ではなかった。その証拠はいくつも残っている。リンカーンが大統領になった時期、南部と北部は激しい感情的対立状態にあった。それまで大統領の椅子は民主党が独占し続けていたが、民主党の選挙基盤は南部の富裕農民だった。リンカーンは共和党に属していたが、共和党が優勢だった北部選挙民の支持だけでは大統領選挙に勝てないことがわかっていた。そのため大統領選挙に際し、奴隷制を認めている南部の諸州について「奴隷制度に直接的にも間接的にも干渉する意図はない」と宣言している。現にリンカーンの支持基盤である北部にも奴隷制度を実施している州がいくつかあったが、リンカーンはこれらの州に対して奴隷制の維持を保証すらしている。ただ北部軍の幹部に奴隷解放論者がかなりいたこと、また降伏した南部の州の奴隷を解放して北軍の兵士にしたほうが戦局を有利に展開できると主張する幹部の意見を取り入れ、戦争に勝つため降伏した南部の州の奴隷を次々に開放し、北軍の戦力を強化したというのが、「奴隷解放の父」と呼ばれているリンカーンの実像である。そんなリンカーンだから、戦争に勝利した後の処理について政権内部の奴隷解放論者たちから「なぜ戦争に勝てたと思っているのか」と迫られ、最後は渋々『奴隷解放宣言』に大統領として署名したというのが歴史的事実である。リンカーンが人権主義者だったというのも真っ赤な嘘で、彼の真の目的は奴隷解放ではなく、原住民のインディアンの撲滅であった。単にインディアンを草も生えない僻地に追いやっただけでなく、リンカーンの指令に従わなかったインディアンの大量殺戮さえ、総司令官として軍に命令している。そんな人間が自分の信念として「人民の、人民による、人民のための政治」などという名セリフを自ら考えたとは到底思えない。誰か、例えば今の日本でいえば糸井重里級のコピーライター(そんな職種が当時あったかどうかは知らないが)が考え出した世界史上最大級の名コピーだったと言えよう。
 もう一人のケネディの実像はどうだったか。ケネディがニクソンとの大統領選で勝利を得たのは、マフィアの組織的・資金的援助がものを言ったという事実は今では公然化している。まずケネディの父親が事業を成功させ、いわゆる「ケネディ財閥」を形成する過程でマフィアとの関係を深めていた。ケネディは父が築いたマフィアとの関係を選挙のために利用し、マフィアやマフィアと関係が深い労働組合や非合法組織を巻き込んだ大規模な不正資金集めや選挙活動を行ったのである。また超大物歌手のフランク・シナトラがケネディの応援を買って出て、自分と関係の深いマフィアにケネディの応援を頼み、資金集めや組織を動員しての選挙活動をさせていたことも今では明らかになっている。これらの事実はFBIが盗聴していて、その証拠を入手したニクソンがケネディ攻撃の材料として使おうとしたのをニクソンの選挙参謀だった前大統領のアイゼンハワーがなぜか反対した(巷間では「お前も叩けば誇りが出る男だ。泥仕合になったらアメリカは国家の威信を損なう」とニクソンを説得したと言われている)。謎の自殺を遂げた世紀の美女マリリン・モンローもケネディの愛人だったという話は有名で、大統領になったケネディが不倫の清算をするためマフィアに頼んで「自殺」させたという噂もいまだに根強く流れている。ケネディは大統領就任演説で「マフィアがあなたに何をしてくれるのかを求めるのではなく、あなたがマフィアのために何ができるか考えてほしい」と述べるべきだったかもしれない。
 リンカーンやケネディの実像はともかく、言葉は一人歩きする。そういう意味では「人民の、人民による、人民のための政治」は民主主義政治の理想として私たちはそういう理想が現実化する社会を建設するための努力を惜しんではならないと私は思う。また「祖国があなたのために何をしてくれるのかを求めるのではなく、あなたが祖国のために何ができるかを考えてほしい」という言葉も、民主主義社会における権利の主張に伴う義務と責任の関係を常に念頭に置いた行動をすべきこととして、私たちは心に刻み込むべきだと私は思う。朝日新聞の社説氏は締めくくりでこう書いた。

 期待に応えぬ政治を嘆き、救世主を待つのは不毛だし、危うい。簡単な解決策を語るものは、むしろ疑うべきだ。
 市民自ら課題に向き合い、政治に働きかける。政治は情報公開を進め、市民の知恵を取り入れる仕組みを整える。 
 投票するだけの有権者から、主権者へ。「民」が主語となる本来の民主主義へと一歩、踏み出すしかない。

 私はこの文を次のように書き換えたい。

 期待に応えぬ新聞を嘆き、救世主を待つのは不毛だし、危うい。簡単な解決策を語る新聞は、むしろ疑うべきだ。
 読者自ら課題に向き合い、新聞に働きかける。新聞は誤報や事実についての間違った解釈をした記事について素直に過ちを認め。読者の知恵を取り入れる仕組みを整える。
 購読するだけの読者から、主張する読者へ。「読者」が主語となる本来の「社会の木鐸」へと一歩、踏み出すしかない。

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