小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

NHK裁判の検証ーー韓国と同様、日本の最高裁も誤判決を下すこともある。

2018-11-05 01:24:08 | Weblog
 前回のブログを投稿してから丸2週間を超えた。この間ブログで書きたいことが山ほどあった。ネットで炎上した安田純平氏に対する「自己責任」バッシング問題、韓国大法院(最高裁判所)での元徴用工判決、招集されたばかりの臨時国会で与野党間の論戦が高まっている外国人材受け入れ拡大法改正問題、さらには前回のブログに関連して消費税増税時の景気対策としての小規模小売店でのキャッシュレス決済への2ポイント還元策やプレミアム商品券発行といったバカらしさ、この上ない愚策の連発…。いずれの問題もそれぞれ独立したブログ記事のテーマにしなければならない重要な問題だが、とりあえずいま生じている諸問題は今回のブログでも多少触れながら、今回はNHKの公共放送としての資質について書く。
 その前に、まず読者の方たちにお礼を申し上げる。プリントすればA4でぎっしり14ページに及ぶ大変な量の記事を読んでいただいた。しかも読者の方は毎日のように増え続け、いつ更新できるか私の最大の悩みになっていた。が、11月に入って最初の新しい週を迎えた今日、思い切って更新することにした。
 つい最近、ある世論調査の結果が公表された。国民のメディアに対する信頼度調査である。その結果、国民が最も信頼を寄せているメディアはNHKであった。「不偏不党、公共性」というNHKに対する国民の幻想が岩盤的信頼感につながっているからではないかと思う。
 が、メディアは民主主義を育てるための最後の砦である。政権寄りとされる産経新聞や読売新聞でも、政権に対する監視機能を完全に失っているわけではない。政府高官に対する厳しい追及は怠っていないし、しばしば疑惑のスクープも辞さない。が、そうしたメディアとしての最低限の機能を、いまのNHKは維持していると言えるだろうか。
 NHKは衛星放送も含めて現在4局で放送事業を行っている。各局が1日20時間放送したとして合計で80時間になる。基本的には番組編成は1週間単位で行われているが、国会中継を除けばNHKが最も軽視しているのが報道系のコンテンツだとしか言いようがない。
 私は1988年11月、『NHK特集を読む』という題名の本を上梓したことがある。『NHK特集』が新たな使命をもって『NHKスペシャル』に衣替えをした時、私はその新番組のCM出演の依頼を受けた。そのときCM作成のディレクターから依頼されたことは「タブーへの挑戦に対する期待を語ってほしい」ということだった。もちろん私は喜んで受諾し、私が出演したCMは全国に流れた。その直後、当時私がメンバーだったゴルフ場に行くと、キャディさんたちが「見たよ、見たよ」と私を取り囲んでくれた。民放での討論番組に出演しても、そういった反応はほとんどなかったので、改めてNHKの存在感のすごさを感じ取ったものだった。
 が、『NHKスペシャル』にしても、国谷裕子氏がキャスターをしていたころの『クローズアップ現代』にしても、当時はかすかにあったジャーナリスト魂が、いまのNHKの番組からは残念ながらみじんも感じることが出来ない。国谷氏が降板させられた事情はうかがい知る立場にはないが、つねづね官邸からNHK上層部に圧力がかかっていたという噂は降板前からネットでは流れていた。直接的には「出家詐欺事件」の責任を取らされたということにはなっているが、国谷氏はキャスターにすぎず、出家詐欺事件を『クロ現』で取り上げた責任者は番組の製作スタッフである。人気絶頂にあった国谷氏に、その後民放からも一切声がかからなかったということ自体、見えざる力が背後で働いていた可能性は否定できない。
 しかし、NHKから完全にジャーナリスト精神が消えたわけではない。私はしばしばNHKの中間管理職クラスと電話等で話をするが、彼らの多くはいまのNHKの在り方に批判的である。そういう彼らへの、このブログはエールでもある。戦え、悩むNHKジャーナリストたちよ!


 最高裁が下した判決・決定は、いちおう最終的で覆すことは不可能とされている。が、刑事訴訟では不服の申し立てを行うことが出来、実際再審が行われたケースもある。
 刑事事件では、判決後に新たな証拠などが発見されたり、あるいはかつての裁判では証拠として認定されていたことが、その後の科学技術の発達などで証拠とみなすことに相当の無理があると改めて認定された場合などが、再審決定に至るケースである。
 が、民事事件では、そうした救済方法はない。つまり民事事件では最高裁が下した判決・決定は最終的な効力を持つ。たとえ最高裁判事が誤った判断基準で下した判決と言えど、裁判の過程で原告あるいは被告が最高裁判事に誤った認識を故意であるか否かを問わず与えてしまった場合(そうなる原因の多くは弁護士の弁論によることが多いと考えられる)、最高裁判事といえど誤った判断基準で判決・決定を下してしまうこともある。そうしたケースの一つに、2017年12月6日に最高裁が下したNHK受信契約義務についての判決がある。
 この判決は放送法64条をめぐって、民放に定められている「契約の自由」を盾にNHKとの受信契約を拒否していた男性に対して、NHKが起こした民事訴訟が最高裁まで持ち込まれたケースについてである。最高裁判決によれば、放送法64条で定められているNHKとの受信契約義務は合憲で、被告の男性はテレビ設置の日にさかのぼって契約しなければならなくなった。
 もともと放送法は特別法として民放に対して優位にある。ということは、民放に定められている「契約の自由」を理由にNHKとの契約を拒否することは、放送法よりさらに優位にある憲法との整合性を問う以外に、被告の男性側に勝ち目はなかった。だから被告弁護士は「契約の自由」を盾に、原告であるNHK弁護士と争ったのだろう。
 その観点から、改めてこの裁判を検証してみる。言っておくが、私の法律知識はせいぜいのところ高校生なみである。大学で法律を専攻したことはない。だから、私がこれから述べることは、すべて法律知識によらず、ひたすら私独自の論理的思考力だけを頼りに書く。が、これから私が書くことに、おそらくいかなる法曹家も反論の余地がないはずだと自負している。論理は、いかなる権威にも勝る、と私は信じているからだ。

 最高裁判決を検証する前に、私は公共放送の受信料支払い義務は全国民にあると考えていることを明確にしておく。ただし1歳未満の幼児(赤ちゃん)及び高度の認知症患者、生活困窮者などを除く。支払い義務は国民一人一人にあり、世帯や組織単位ではない。私はそうあるべきだと考えているし、放送法64条についてもそう解釈すべきだし、それ以外の解釈は論理的に不可能である。実はこの裁判に関しては、被告弁護側も最高裁判事もその基本的視点を欠落していた。だから「世帯単位」という憲法違反の契約のありかたを争点にせず、単純な「契約の自由」を争点にしてしまったのだと思う。
 まず公共放送の契約義務について、私の考えを述べておく。
 日本の放送法15条で、公共放送の使命と役割についてこう述べている。「公共の福祉のために、あまねく日本全土において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送(中略)を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うこと」。この規定に従って日本国民は等しく公共放送事業者と契約する義務が生じる、と私は考えている。
 公共放送の契約義務を認めたうえで、NHKに対して受信料の支払い義務が生じうるか否かを検証する。NHKは現在地上波2局、衛星(BS)2局の計4局で番組を制作し、放送している。それほどまでに公共放送に値するコンテンツがあるのか。
 そもそもNHKが衛星放送を開局したのは地上波(当時はアナログは)の難視聴対策だった。だから衛星放送のコンテンツもほぼ地上波と同じだった。
 しかし地上波がデジタル化することによって、地上波の難視聴問題はほぼ解消した。当然NHKは衛星放送から撤退し、それまで有していた衛星放送の電波帯やBS衛星の権利を民間に売却して受信料の軽減化に取り組むべきだった。が、NHKはそうしなかった。当然使える電波帯は一気に2倍に膨れ上がった。その電波帯を有効に使えるような公共放送のコンテンツなど、そうそうあるわけではない。実際、NHKが取り組んだのは総娯楽放送局化への道だった。やたらとドラマを増やし、大金を投じて、民放と大きなスポーツ大会の放映権獲得競争に狂奔することだった。こうしたコンテンツが、果たして公共放送といえるだろうか。私は面倒くさくてそこまでやるつもりはないが、もし暇を持て余している方がいらっしゃれば、1週間分でも1か月分でもいいから、NHKが公共放送の名にふさわしいコンテンツと娯楽番組との放送時間の割合を計算してみていただければ、と願う。
 またEテレについても、すでに時代の要請は終了している。まだ日本が貧しかった時代、すなわち男女ともに高学歴社会に入っていなかった時代に、中卒で就職した人たちなどのために通信制の教育プログラムを組んだり、大学受験資格検定試験に合格するための教育プログラムが必要だった時代の産物であり、今ではその必要性はほぼなくなっている。が、組織を維持することが自己目的化して、教育プログラムとはおよそ無関係の番組を延々と放送し続けているのが偽らざる現状である。
 ヘーゲル弁証法の核心をなすとされている「らせん発展」説とは、社会の進歩は一直線的ではなく、らせん階段を上っていくように進む、という考え方だ。実は「逆もまた真なり」と、私は考えている。らせん階段を下るように組織の肥大化による劣化が進む、というのが私の認識だ。
 中学生でもわかるように、この関係を書く。組織はある目的を達成するためにつくられる。公的組織であろうと私的組織であろうと、その点に差異はない。
 そして、その目的を達成するための手段が様々講じられえる。その過程では議論も活発に行われるだろう。が、いったん「目的を達成するための手段」が組織内で決定されれば、その手段を実現することが自己目的化される。そして、さらに新たに自己目的化された手段(つまり二次目的)を実現するための手段(二次手段)がまた講じられる。そして二次手段が三次目的になり、三次目的を実現するための三次手段(=四次目的)が正当化されていく。いつの間にか最初の目的は忘れ去られ、次々と生まれる新しい目的を達成に向けて努力することが組織維持の手段と化していく。「負のらせん構造」が、こうして構築されていくというわけだ。
 公共事業体が、当初の目的を終えたにもかかわらず、目的を変更して存続し続けようとするのは洋の東西を問わない。
 民間企業であれば、その会社が当初製造していた製品が社会的存在価値を喪失しても会社を解散せず、新たな存在価値のある製品を開発して企業の存続を図ろうとするのは当然だが、税金や義務化された受信料で運営されている公的組織が、当初の社会的存在価値を喪失したら、組織の存続を自己目的化した方向転換を図ることは許されていいわけがない。
 さらに、そもそも憲法や法律以前の自然法として権利と義務の関係は自動的に発生する。つまり、「権利が生じない義務」もなければ「義務を伴わない権利」もあり得ない。そのことに対する基本認識が、最高裁判事には完全に欠落していた。だから、テレビ設置者に「受信契約の義務化」を認めながら、では「契約の義務を果たし、放送法には義務付けられていない受信料を支払っている視聴者にNHKはいかなる権利を約束しているのか」という観点が、この裁判の判決から完全に欠落していた。
 ひょっとしたら、NHKは「放送を見る権利」を与えていると主張するかもしれない。もし、そう主張するなら「放送を見ない権利」も自動的に生じるわけで、その場合は「NHKの放送は見ないから受信料は支払わない」という権利も自動的に正当化される。つまり「契約の自由」が認められなければならないことになる。が、契約の義務化と受信料の支払い義務は別問題であり、受信料の支払い義務については放送法の条文には書かれていないし、最高裁判決も契約の義務化は認めたが、受信料の支払い義務については何ら言及していない。
 NHKは紅白歌合戦などの人気番組の見物応募資格に「受信料をお支払いの方に限ります」と限定条件を付けることがあるが、それがNHKが受信料支払い者の「権利」だとも言うのか。だったら、そんな権利などいらないから「契約はするけれども受信料は支払わない」という主張も論理的には成立するはずだ。
 私は最高裁の判決直前の17年12月4日にブログでこう書いた。「ここで問題になるのは『受信料契約の義務』を明記している放送法64条が憲法違反の法律なのかという判断と、契約をした場合自動的に受信料の支払い義務も生じるのかという問題が混同して論じられていることだ」「放送法64条1項は、テレビ受信機を設置した者は受信契約を結ぶことを命じている。が、受信料については第2項で免除の基準についての記載はあるが、どの項目にも受信料の支払い義務の記載はない。NHKは受信契約を結べば、受信料の支払い義務も自動的に発生すると考えているようだが、その法的根拠は明らかでない」と。
 判決後の12月7日、13日にも最高裁判決の問題点についてブログをアップしたし、放送体制の見直しを含めて地上波とBS放送の分離、BS放送の民営化にまで踏み込んで、書いたブログをNHKの経営委員会にFAXで送った。
 その時点では書かなかった、というより思いつかなかったことを今日は書く。
 NHKの経営委員を公選制にすることだ。政治選挙のときのマニフェストと同様、経営委員に立候補する人はNHKの放送についての方針を公約に掲げる。「エンターテイメント中心にする」という立候補者がいても構わないし(現状肯定派)、「少なくともコンテンツの30%以上は報道や政治問題、社会問題。国際問題で占める」という人がいてもいいではないか。私たち視聴者が経営委員を選ぶ権利があれば、私たちが選んだ経営委員会が認めた番組編成は許容せざるを得ない。公共放送は、視聴率競争を超越しているから、公共放送たるゆえんではないか。

 なお、これまでのブログでもさんざん書いてきたことだが、放送法64条1項については、NHKは厳密に守ってほしい。この項目にはNHKと受信契約を義務付けている相手は「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者」と定義されている。放送法のどこにも受信契約の義務者は「世帯主」とは記載されていない。「設置した者」はだれのことか?
「設置した者」に受信契約の義務があり、契約者に受信料支払いの義務があるというなら(何度も書くが、そんな法律は放送法だけでなく、どこにもない)、NHKはまず「設置した者」を特定する必要がある。不動産や自動車の場合は、登記や登録によって税金などの支払い義務者が確定できるが、テレビにはそういうたぐいの制度はない。
 言っておくが、これは法律に関する問題だ。「常識だろう」といったたぐいの非論理的主張は通用しない。「設置した者」を特定できない以上、NHKとの契約を結ぶか否かは個人の任意によらざるを得ないはずだ。まともな法曹家なら、この考え方を否定できないと思う。
 ちなみに私の場合、引っ越し祝いにある人(その人に迷惑がかかるといけないので明らかにしない)からプレゼントしてもらった。また「物理的に設置した人」はテレビを配達してくれた家電量販店の人だ。アンテナの接続だけでなく、地デジの場合は地域によって細かな設定が必要なようで、素人には難しいということだった。もちろん設定料金は3000円ほどかかっている。さてこの場合、NHKとの契約義務を負うのはだれになるのか。
 事実上「所有している人」という解釈になれば、家庭向けテレビのリース会社が雨後の竹の子のようにできる。買わずにリースすれば受信料を支払わなくて済むからだ。リース会社も「契約の守秘義務」を盾にとって、リース先を明らかにするのを拒んだら…。さぁ、NHKどうする!?
 だから私は、これまで書いてきたブログで主張したように、受益者負担、つまりNHKであろうがなかろうが、テレビ放送を見ることで受益する人すべてが平等に負担するようにすべきだと思う。ひとり暮らしの若者や老人が、多人数の世帯と同額の受信料を支払うという、いまの制度を、国政選挙に関しては「一票の格差」をあれほど問題にしてきた最高裁の判事が下した判決とは信じがたい思いがする。バカも休み休みにしてもらいたい。

 最高裁がおかしな判決をすることは、あり得ないことではない。すでに書いたが、オウム事件の最高裁判決は自らが下した死刑判決の基準とされている「永山判決」の要件を著しく逸脱したものだった。少なくともサリン散布の実行犯でもなければ、明確な殺意の立証も出来てもいない被告に対しても、最高裁は世論に迎合して死刑の判決を下した。
 韓国の大法院(最高裁)も、やはり1965年の日韓請求権協定に反して、世論に迎合する判決を下した。司法が政治的圧力や世論に迎合して、政府から歓迎されたり、あるいは世論の喝さいを受けることを目的とするような判決を下し、それがまかり通る社会ということになると、もはや民主主義の最後の拠り所としての機能を司法自らが放棄することを意味する。メディアは、司法の責任をとことん追求しなければならない。それがメディアの最低限の義務であり責任ではないか。

 安田氏に対する「自己責任」バッシングについても書いておく。武装勢力の兵士二人に挟まれて安田氏が「助けてください」と懇願した映像を見た時、正直私も「リスクを覚悟の上でシリアへ密入国したはずだ。いまさら『助けてくれ』はないだろう」といったんは思った。が、テレビが放映した、この映像の入手ルートが分からなかったので(メディア側は入手ルートについては一切明らかにしていない)、多少の疑問を抱いていた。
 安田氏が解放された後で、彼が奥さんに送った暗号化された文書から(文書には「金は払うな」「必ず帰る」といった安田氏の真意が書かれていた)、あの「助けてくれ」映像は武装勢力に強制され、やむを得ず喋ったことが判明した(記者会見で安田氏もそう証言している)。また彼は出かける直前にも奥さんに対して「どういう事態になったとしても自己責任だ」と語っている。
 安田氏が、当初予定していた方法ではなく、安易に(おそらく)武装勢力側の二人に誘われてシリアに密入国して捕まったことについて「凡ミスだった」と述べていたが、安田氏はいわゆる「冒険家」ではない。冒険家の場合は、無謀なチャレンジはしない。安田氏が何度も危険な地域で取材活動をしてきた経験豊富なジャーナリストなら「凡ミス」で済む話ではないが、安田氏の場合、単独で極めてリスキーな行動に出たのは、ひょっとしたら過去の経験がかえって裏目に出たのかもしれない。
 彼はイラク戦争当時、イラクで取材活動をしていたが、イラク政府の「人間の盾」作戦に参加し、何度かイラク軍や武装勢力側に拘束されたが、すぐに解放されている。そうした経験が、もちろんシリアへの密入国のほうがはるかに危険なことは承知していただろうが、彼の「自己責任」の考えの基本にあったのは、戦闘に巻き込まれて重傷を負ったり、場合によっては死に至る危険性の意味だったのではないか。武装勢力に長期にわたって拘束され、金銭目当ての人質にされる可能性は過去の経験からあまり考えていなかったと思われる。
 おそらく今では安田氏も自分の計画そのものが安易だったことを、百も承知していると思う。そういう意味では「凡ミス=迂闊(うかつ)」だったでは済まない話だとは私も思うが、同様の「凡ミス=迂闊さ」の責任は、武装勢力の作戦にまんまと引っかかって武装勢力が流した映像を何度も安易に放映したメディア側も問われなければならない。武装勢力側は、日本のテレビ局が放映することで日本政府を追い詰める作戦を立てていたことは間違いなく、テレビ各局が意図せず武装勢力に加担してしまった結果、政府も水面下で動かざるを得なくなり、安田氏は言われもなき「自己責任」バッシングを受ける羽目になった。
 実際、政府は安田氏解放のために身代金を肩替わったとされているカタールの首相を日本にお礼招待することになった。お礼で招待して、手ぶらで返すことは国際慣習上できない。ODAという形になるのだろうが、この事件で日本政府がそれなりの借りをカタール政府とトルコ政府に負ったことだけは間違いなく、その全責任は安田氏の「身勝手さ」にではなく、武装勢力の作戦にまんまと引っかかったメディア側にあることだけははっきり言っておく。

 最後に、消費税増税に伴う政府の景気対策について一言。
 消費税を増税すれば一時的に消費が冷え込むのは歴史上の常識だ。竹下内閣による消費税3%の導入、橋本内閣による5%へのの増税、そして安倍総理による8%への増税時も例外ではなかった。竹下内閣も橋本内閣も、消費税導入、増税後の選挙で自民党が敗北、二人の総理は責任を取って辞任した。安倍総理だけが消費税増税を争点にした選挙は行わず(正確には増税時期の延期を争点にして選挙で勝利したことはあったが)、つねに「アベノミクスは着実に成果を上げている」と明言してきた。
 アベノミクスは失敗に終わったから、消費税増税に際しては景気への悪影響を避けるため万全の対策を立てる、という話なら私にも理解できる。が、アベノミクスが成功しているのに、なぜ景気への悪影響を心配する必要があるのか。私は理解に苦しむ。
 前回のブログにも書いたように、私は消費税増税に基本的には反対ではない。だが、アベノミクスが成功しているのに、増税効果を台無しにするような対策がなぜ必要なのか。いまこそ財務官僚は正念場に立っていることを肝に銘じてほしい。
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