小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

朝日新聞社が12月5日新体制に移行する。④ 解散の争点は明確になったが…。

2014-11-18 10:27:52 | Weblog
 今日で朝日問題については一応終了にする。また新たな問題が明るみにでたときは別だが…。
 朝日新聞社は14日、臨時取締役会を開き、12月5日に臨時株主総会を開催して新役員体制を決定することにした。木村社長は取締役も退任して特別顧問に就任、後任には平取締役の渡辺雅隆氏が大抜擢されることになった。が、この人事で「一件落着」にしていいのだろうか。
 実は朝日新聞は、吉田調書に基づいたとした記事の中でこう述べている個所がある。

 28時間以上にわたり吉田を聴取した政府事故調すなわち政府が、このような時間帯(※後述)に命令違反の離脱行動があったのを知りながら、報告書でまったく言及していないのは不可解だ。

 この朝日新聞の記事が正しければ、朝日新聞社の第3者機関の検証作業はまったく手抜かりだったと言えよう。そして第3者機関は、朝日新聞のこの記事について何の検証もしていない。この記事が正しければ、第一所員の9割、約650人の第二への退避(移動?)は、少なくとも所長の指示を待たず、あるいは所長の指示に従わず、自分たちの判断で第二に退避したことになる。記事の表現が「命令違反」としたのが厳しすぎたとしても、トップ以下関係役員たちが総退陣するほどの「記事の誤り」とは言えない。では、朝日新聞の記事にある「このような時間帯」に何があったのか。吉田調書にはない、朝日新聞記者独自の取材に基づく検証記事によると、こうだ。
 なお、朝日新聞が他メディアに先駆けて入手したという吉田調書について朝日新聞は「吉田氏は事故について報道機関にほとんど語らないまま2013年7月に死去した。調書も非公開とされ、政府内にひっそり埋もれていた」と書いている。つまり以下の朝日新聞の「スクープ記事」は吉田氏に対する取材ではなく、別ルートでつかんだ事実だったのか、それとも記者の頭の中で創られたフィクションだったのか。

 午前6時30分、吉田はテレビ会議システムのマイクに向かって告げた。「いったん退避してからパラメーターを確認する」。各種計器の数値を見たいというのだ。
 続いて32分、社長の清水正孝が「最低限の人間を除き退避すること」と命じた。清水は、つい1時間ほど前に東電本社に乗り込んできた首相の管直人に、「撤退したら東電はつぶれる」とやり込められたばかりだ。
 33分、吉田は清水の命令を受け、緊急時対策室にいる各班長に対し、この場
に残す人間を指名するよう求めた。
 34分、緊急時対策室内の放射線量について「変化がない」とのアナウンスがあった。
 格納容器上部、ドライウェルの圧力が残っているということは、格納容器が壊れたことと明らかに矛盾する。それよりなにより、緊急時対策室の放射線量がまったく上がっていないことをどう評価するか…。
 吉田は午前6時42分に命令を下した。
「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後、本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」
 格納容器破壊は起きていないだろうが、念のため現場の放射線量を測ってみる。安全が確認されるまで、最低限残す所員以外は福島第一原発の構内の放射線量が低いエリアで待つ。安全が確認され次第戻って作業を再開するように。これが吉田の決断であり、命令だった。
 放射線量が測られた。免震重要棟周辺で午前7時14分時点で毎時5ミリシーベルトだった。まだ3号機が爆発する前の3月13日午後2時すぎと同程度だった。吉田の近場への退避命令は、的確な指示だったことになる。
 ところがそのころ、免震重要棟の前に用意されていたバスに乗り込んだ650人は、吉田の命令に反して、福島第一原発近辺の放射線量の低いところではなく、10km南の福島第二原発を目指していた。その中にはGMクラス、すなわち部課長級の幹部社員の一部も入っていた。
 一部とはいえ、GMまでもが福島第二原発に行ってしまったことには吉田も驚いた。
 吉田は部下が福島第二原発に行く方が正しいと思ったことに一定の理解を示すが、放射線量の推移、2号機の白煙や湯気の出現状況とを重ね合せると、所員が大挙して所長の命令に反して福島第二原発に撤退し、ほとんど作業という作業ができなかったときに、福島第一原発に本当の危機的事象が起きた可能性がある。
 28時間以上にわたり吉田を聴取した政府事故調すなわち政府が、このような時間帯に命令違反の離脱行動があったのを知りながら、報告書でまったく言及していないのは不可解だ。(※このくだりはすでに書いた)
 東電によると、福島第二原発に退いた所員が戻ってくるのはお昼ごろになってからだという。吉田を含む69人が逃げなかったというのは事実だとして、4基同時の多重災害にその69人でどこまできちんと対応できたのだろうか。政府事故調も東電もほとんど情報を出さないため不明だ。
 この日、2011年3月15日は、福島第一原発の北西、福島県浪江町、飯館村方向に今回の事故で陸上部分としては最高濃度となる放射性物質をまき散らし、
多くの避難民を生んだ日なのにである。

 吉田調書にはまったく触れられていないと朝日新聞自身が認めている、この記事はいったい事実だったのか。もし事実だとしたら、第二原発に「退避」したとされる650人が、吉田氏の命令に違反したかどうかではなく、かなり善意に解釈したとしても「所長の命令を待たずに自分たちの判断」で第二に行ったことを意味する。もしそうだったとしたならば、東電の危機管理体制、東電社員の職業倫理感はまったくゼロだったと言わざるを得ない。
 韓国で生じた大型旅客船(フェリー)のセウォル号転覆事件を想起してもらいたい。この事件は、300人以上の犠牲者を出したというだけでなく、船長が乗客の安全を図ることなく、船長服を脱いで真っ先に船から逃げ出したことが裁判で問われた。検察は「未必の故意」による殺人罪で起訴したが、裁判官は「未必の故意」を認めず殺人罪の適用を見送った。
 未必の故意とは、明確な犯意(たとえば殺意)がなかったとしても、こういう行動をとればどういう結果が生じるかの予測ができる人が、そういう自覚を持っていながら行うべきではない行動を行ったケースに該当する刑法上の概念である。
 韓国の裁判について私はどうのこうのと言うつもりはないが、福島原発事故の場合、所員の9割が吉田氏の命令に違反したかどうかではなく、自分の判断で第二に退避したとしたら、原発の所員である以上、明らかに「未必の故意」による職場放棄と言える。つまり水素爆発やメルトダウンによってどんな被害が生じるかの予測をしえなかったなどということは、原発に勤務する以上常識以前の問題であり、原発事故によって生じた被害に対する「未必の故意」による責任が問われるのは当然だろう。
 もちろん第一の所員であっても事務系の所員は構内でうろうろしているだけで邪魔になるから、自分の安全のためではなく構内から移動したほうがいいかもしれない。が、技術系の所員の場合は、こうした緊急時の場合、事故による被害の拡大を防ぐことが最大の義務であり、たとえば警察官が「犯罪者が武器を持っているから怖くて逃げた」などといったことが認められるだろうか。もし、そうしたケースで犯罪が拡大したら、逃げた警察官は結果に対する「未必の故意」の責任が当然問われる。
「命令違反」と決めつけたのは、朝日新聞の表現に多少の誇張があったかもしれないが、本当に650人が少なくとも「所長の指示を待たず」に第二に退避したとしたら、そういう職業倫理感の持ち主たちに原発再稼働を任せられるだろうか。
 九電の川内原発の再稼働が一応決まった。規制委が安全を確認したからだと
いう。九電から経済的援助が受けられる川内市は市議会で再稼働を認め、地元が再稼働を認めたということで鹿児島県も容認した。が、川内市に隣接している地域の住民は釈然としていないようだ。万一事故が起きた場合、被害は川内市内にはとどまらないからだ。
 私は日本のエネルギー事情から、原発抜きの日本経済も考えられないし国民生活も考えられないと今でも信じてはいる。が、御岳山の噴火をまったく予知できなかった日本の予知科学技術のレベルで、規制委の「安全宣言」をまともに信じることはできないと思うようになった。だからと言って反原発主義者に転向したわけではないが、早急に予知科学のレベルを高める必要があるだろう。
 朝日新聞の木村社長が急きょ引責辞任を表明した9月11日には、菅官房長官があの時期にはありえないネクタイ姿で記者会見を行って吉田調書の全文を公開することを明らかにした。木村社長の引責辞任表明は「政府と戦うのは止めた」という敗北宣言だろう。
 3月13日の所長や所員の行動についての克明な記事では、朝日新聞が「報告書でまったく言及していないのは不可解だ」としているが、その時間帯に本当はどういうことがあったのかを明らかにすることが、まずメディアとしての最大の責任の取り方だろう。そのことを回避するために「命令違反」という表現上の誤りにすべてをすり替えて「トカゲの頭切り」をして事態を収拾しようとするのであれば、朝日新聞はメディアとしては死んだ、と言わざるを得ない。

 今日安倍総理が解散を宣言するようだ。「早まった」と後悔しているかもしれないが、ここまで来た解散風を止めることは総理にも出来まい。「争点なき選挙」と言われてきた12月総選挙だが、アベノミクスの総括が最大の争点になることは必至だ。野党間の立候補調整がうまくいけば大逆転もありうるが、野党が勝利しても所詮野合政権の再登場になるだけだ。アメリカと同様、何も決められない政治になることは必至だ。「争点は生じたが、選択肢がなくなった総選挙」と私は定義する。