辰吉丈一郎の思い出シリーズ、4回目。
相変わらずとりとめもないですが。
岡部繁戦勝利で、マガジンの表紙も飾り、一気にボクシング界のホープ、という表現以上の注目を集める存在となった辰吉ですが、結局、日本タイトルマッチはこの一試合のみでした。
当時、協会の内規で、世界王座挑戦資格は「日本王座獲得、及び指名試合クリア」が条件、と決まっていたので、初防衛戦は、1位の松尾隆と闘うのだろう、と思っていたら、実現しませんでした。
まず、松尾が眼筋麻痺を患って辞退。では2位以下のランカーと、となるところでしょうが、話がまとまらなかったのでしょう。
こういうとき、割と雑に「対戦希望者が現れず」「ランカーたちが尻込みした」なんて書き方が目についたりもしますが、ジム側がそう判断したとしても、選手自身の意志が反映されたものかどうかは、何とも言えない場合があることでしょうね。
当時上位だった尾崎恵一などがやっていたら、勝ち負けはともかく、どんな試合になっていたかな、と思いますが...。
で、こういう事態と平行して、上記の内規が「撤廃」されたと発表がありました。
この辺はもう、今さらつべこべ言う話でもないのでしょうが、いかにもタコにも、という感じです。
結局、辰吉の次の試合、デビュー5戦目は、比国9位のジュン・カーディナル戦、と決まりました。
今から思えば、実に景気の良い話ですが、なんとこの程度のカードで、府立の地下ではなく第一競技場が使われ、5千人以上の観客が入りました。
赤井英和には及ばずとも、世界チャンピオンでも無いボクサーとしては、規格外の注目度、集客力だと言えるでしょう。
試合自体は、童顔で小柄、健気に頑張るが技量力量の差はいかんとも、というカーディナルを、辰吉が余裕を持って打ち込み、2回にKOしました。
と、書いてしまえばそれだけの、格下相手の「片付け仕事」なんですが、単にそれだけではない、中身のある試合内容でもありました。
ジョー小泉氏が、辰吉のことを英文レポートで「浪速のジョー」Joe in osaka と書いても、欧米の読者には意味が通じない、ということで Japanese Olivares と書いたそうですが、言い得て妙だなあ、というくらい、左ダブル、トリプルを巧みに、強烈に上下に打ちわける攻撃が冴え渡った試合でした。
もちろんスピード、パワーの差は歴然でしたが、それでも果敢に闘う姿勢を見せるカーディナルを、前後に揺さぶって右カウンターで脅かし、ロープ際では上下の打ち分けで崩して仕留めた、その攻撃面における技巧の冴えは、この手の「片付け」的試合としては、望みうる中で最高クラスのものでした。
契約体重は119ポンドで、岡部戦ほどの軽やかさは感じなかったですが、このカードではその辺の不安が勝敗に影響することはなく。
格下相手にこれだけの内容を見せられるなら、そもそもキャリアの少ない選手なのだし、この手の試合をあと数試合やってから強敵と組む、というのが理想的だなあ、と思った記憶があります。
しかし例によって「最短記録」が大好きな日本ボクシング界の倣いというか呪いというか、この次に「あの選手」との一戦が組まれるわけですが...。
最短記録、何年何月に、7戦目で世界王座獲得、とデビュー前からジムの黒板か何かに書いてあった、って話ですから、そんな知恵も見識も、誰にもなかったんでしょうが...当時、今ほど冷静に物事を見ていたわけではないですが、それでもこの話を記事で読んだときは、このジムには馬鹿しかいないのか、と呆れたものです。大人の事情、という言葉には及ばないレベルの話ですね。
確かに試合を組むのは難しい面もあったでしょうが、日本ランカー数名とやって、サムエル・デュランと再戦して、そのあとにトーレスくらいが良かっただろう、と思いますが、まあ今となっては...ですね。