さうぽんの拳闘見物日記

ボクシング生観戦、テレビ観戦、ビデオ鑑賞
その他つれづれなる(そんなたいそうなもんかえ)
拳闘見聞の日々。

「全てを出し切りたい」 長谷川穂積、孤独で壮絶な決意の言葉

2014-04-20 19:11:26 | 長谷川穂積



水曜日の試合に向けた長谷川穂積のインタビューは、専門誌はもちろん、
スポーツ誌にも掲載されていますし、TV番組も含め、いろいろ見聞きしました。

しかし、最も印象的なのが、以前長谷川がモンティエルに敗れ、ブルゴス戦で再起するまでを
密着して描いたノンフィクション「211」の著者、水野光博氏によるこのインタビューです。


今の長谷川穂積を語るときに、どうしても気になる部分は、
何が何でも勝つ、という、わかりやすい決意表明とはまた違った、数多くの言葉です。

それは、ベテランと言われる領域にさしかかった、数多のボクサーが抱える屈託を、
長谷川穂積もまた、抱え込んでいることの証です。

IBFの当日計量制度の話から語られる、自身のコンディション調整の難易度。
年齢を重ねたことにより生じた、ボクサーとしてのみならず、人としての意識の変化。
今回の試合に対する、精神的な意味合い、位置付けに対するこだわり。

これらを語った後、最後に彼は「勝たねばならぬのは相手より先に自分」と締め括ります。
勝ち負け以前に「全てを出し切りたい」のだ、とも。


こうした方向のコメントは、過去に他のボクサーからも出たことがあります。
概ね、登り坂にある、若いボクサーではなく、一定の成功を収め、ファンや一般に
広く認知された段階にあるボクサーから、これに類する言葉を聞くことが多かったように思います。

以前の私は、こういう言葉に対して、反射的に反駁を覚えたものでした。

自分自身より、まず相手に勝つことが目的だろう、何を言ってるんだ。
そんな自己満足を語るヒマがあったら、少しは相手のことを研究して、水漏れ無しでリングに上がる姿を見せてくれ。
それがプロたる者の仕事であり、使命ではないのか。

まあだいたい、言葉にするとこんな感じです。


しかし、それなりに長くボクシングを見てきた上で、そして、いよいよキャリアの岐路にさしかかり、
敗北はイコール引退であると、自他共に認めてしまっている一戦を間近に控えた長谷川穂積のこれまでを
あれこれ振り返ってみるに、もはや、単純にそういう思いではいられなくなっています。

彼自身の才能、それを成長させてきた努力、それによって勝ち得た数々の勝利と栄光は、
ひとたびの敗北を機に、あらゆる面において、彼自身を最も苦しめてもきた。
その現実の重さ、ままならぬ自分自身との闘いをくぐり抜け、様々に抱えた屈託や葛藤をも乗り越えて
彼自身が語る決意の言葉には、あまりにも濃い孤独の影と、壮絶なるもうひとつの闘いの跡が見えます。

ボクサー長谷川穂積が、そのキャリアを通じて、拠り所としてきたいくつかのものを喪い、
その喪失を埋めるために辿り着いた「自分自身との闘い」という境地において、
今回の試合は闘われます。それだけが、今の時点で見える、この試合の全風景です。


当然、水曜日の試合が終われば、毎度の通りとりとめもなく、何事かを書き、語るわけですが、
試合が終わった後にどういう振り返り方をすることになるか、今はわかりません。

ただ、かつてのように、長谷川穂積が語ったような「境地」を、無下に切り捨てられるような自分であったら、
ある意味、楽に見られる試合だったのにな、という思いでいます。
何だか、本当に重苦しい気分です。もちろん、闘うボクサー本人より苦しいわけもないのですが、
これはこれで、けっこうなものやなぁ、なんて言うのは、言葉が過ぎるでしょうか。




なんのかんのというても、あと三日ですね。
終わったあとに、何をごちゃごちゃ、わけのわからんことを書いたんや、あほやなぁ、と
明るく振り返ることができたら、何よりもさいわいなことですが...。




コメント (9)
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