忌野清志郎

2009年05月06日 | 日本のロック
PLEASE






1980.12 発売

久しぶりの更新がこんな内容になろうとはなんとも悲しい。訃報を知ってから3日、4日とヤフーで事実を知らせる記事と、彼へのコメントを手当たり次第にクリックしていた。

RCサクセションで持ってるのはこの「PLEASE」だけなのだが、たぶん発売間もなく買ったような気がする。RCサクセションを知るきっかけはまったく思い出せないのだが、この中の「あきれて物も言えない」を繰り返し聴いていた。

どっかのヤマ師がオレが死んでるって言ったてさ
よく言うぜあの野郎よく言うぜ
あきれて物も言えない

なんか怒ってる、見えない壁に両手で拳をくらわせてるけど、何も変わらない
みたいな、そんな印象が当時の自分とぴったりな気がしたのだ。

これは今回wikipediaを見たら、泉谷しげるからの清志郎への言葉を受けてのもの、と書いてあったが真偽はともかくとして、当時の洋楽に対する日本語のロックがどうの、とかそういうのは関係なく「RCの音」としてすんなり入ってきたのだ。

もちろん「トランジスタラジオ」とか「ダーリンミシン」とか「スイート・ソウル・ミュージック」とかどれも耳に残るフレーズと歌詞。思わせぶりな歌詞の「DDはCCライダー」では、間奏で♪~ 練馬ナンバー ♪ 多摩ナンバー ♪ と都会のナンバーに続きなんと最後の方で♪♪栃木ナンバー♪ と歌ってくれてるのだ。えっ清志郎さん、栃木知ってるの? それとも栃木からのライダー達が南方へも列をなして行ってるのか? と当時不思議に思ったものだ。東京人の清志郎がナンバーをどういう理由で選んだのか知りたいものだ。

このblogのアクセス解析を見たら4日が「忌野 ピーター・バラカン 渋谷陽一」で検索されたことになっていた。そういえば「ロッキング・オン・ジャパン」で特集があった気がする、と探してみた。


1988年7月号

「忌野清志郎 どうして、今、反戦反核なのか」の記事。ニュー・アルバム「カヴァーズ」発売に際しての渋谷氏のインタビュー記事だ。「反戦フォークが歌われても戦争は終わらなかったし、何ら社会的変化はなかったわけですよね」とのさすが渋谷氏の意地わるーな質問に「日本のロック、というか日本の歌の世界はあまりに内容が無い気がしてさ。その辺の苛立ちみたいなのはすごくありましたね」と応えている。

で検索の続きだが、このblogで清志郎のことを書いた事あったのかな?と思い出せず、検索結果もすごい後の方らしくどの記事なのかわからず、blog内で検索してわかったのが「サンボマスター」の記事だった。サンボマスターの曲→映画「恋の門」に使用→清志郎の曲も「恋の門」として使用→おまけに映画にも出ていた。 で弔問に大竹しのぶ(恋の門で主人公のお母さん役)が来ていたわけもわかり、またまたヘンな住人役の姿を思い出し感慨にふけってしまった。

でまた今日も検索していたらこんなページをみつけた。
「NHK青春ラジカセ」である。
FMの番組「サウンドストリート」の一部が聴けるようになっている。なんと渋谷氏の回で清志郎がゲストの回が2回もupされてます!

1981.3.19 と 1981.7.10 の回です。

3月では今レコーディングの最中と言ってます。「PLEASE」のあとの「BLUE」が81年11月発売となっているのでその録音なのでしょうか。







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