ロッキング・オンの時代(橘川幸夫著)

2017年11月29日 | 音楽本
ロッキング・オンの時代
橘川幸夫
晶文社
 2016.11.25刊 


雑誌「ロッキング・オン」と渋谷陽一の若いこだま、ヤングジョッキーは、自分の10代後半から20代前半、頭の中のほとんどがロックに占められていた時代を大きく彩る事柄だ。こんな本が出たんだというのは日経の書評欄に「あとがきのあと」と題して橘川氏の写真入りで載ったので知った。

さっそく読んでみると、創刊当時のエピソードが満載で、店頭に並んだ裏側ではこんなことがあったのかととてもおもしろく、渋谷氏、橘川氏、岩谷宏、松村雄策とそれぞれの個性が集まるべくして集まったのだなあと感じる。渋谷氏からみればまた別の見方もあるはずだが、主に印刷を担当した橘川氏の視点もおもしろい。


雑誌は72年8月号が創刊。初めて「ロッキング・オン」を買ったのは77年12月号・通巻32号。79年、80年、81年あたりは毎月買っていて全部今もとってある。79年あたりからは背表紙を順に並べるとアーティストの顔になった(と思う。納戸に行くのが大変なので推定)


「ロッキング・オン」の存在を初めて知ったのはいつか?たぶん75年か76年あたりだったと思う。77年12月号には毎月1日発行とあるが、その前は隔月刊だった。当時「ロッキンf」というやはり洋楽系の雑誌もあり、”f”の方は「ミュージックライフ」みたいな写真とかたくさん載ってる雑誌だった記憶だが、そちらはたぶん毎月で、隔月だと当然店頭に無い月もあるわけで”オン”の方は潰れてしまったのか?などと思ったりした。

「ロッキング・オンの時代」では10号まで表紙と目次が紹介され、その時点での発刊にまつわるエピソードが書かれている。4号から全国で販売されるようになったとあり、7号で1年続いた、とある。手元にある77年12月号の巻末には、バンドメンバー募集や文通相手募集があり実際同学年の女子と数年間文通した。またバックナンバーから全部持ってる人が10人位載っていて、「見たい人は往復ハガキで連絡を」などとありこちらも創刊号を見せてもらったことがある。なにより渋谷氏、橘川氏ら編集者の自宅の住所が載っていて、「執筆者に対する連絡はそれぞれの自宅に手紙でして下さい」などとある。渋谷氏の住所を見ると下宿と近いではないか! その新宿区下落合は同じ落合出身の泉麻人とともに氏も語るところであるが、なるほど遠回りをして行ってみるとちゃんと「渋谷」の表札があった。

77年12月号の編集後記では、六本木に新編集室が移ったこと、また就職やアルバイト募集者には「現在手は足りている」、事務所はヤケに立派な所になりましたが、あれは編集長のミエで、会社としての実質が整うのはもう少し先になりそうです。などとあり、こう手作り感、ミニコミ誌感が漂う。

また渋谷氏が「若いこだま」に出るいきさつも書いてあった。NHKが若者向け番組を作ることになり、DJを関係者からの推薦で募集し、淡々としたDJが採用になったということだ。採用される時は編集メンバーみんなに相談があって、皆の「NHKは全国放送だし、ロッキング・オンの宣伝だと思って受けてみたら?」ということだったとある。ロッキング・オンが全国配布になってからとあるので73年頃のことだろう。高校の頃から聴いていた気がするので始まってすぐ聴き始めたのではないかと思う。2,3年すると「今度FMでやることになった」と言って「ヤングジョッキー」が始まり、「若いこだま」は大貫憲章氏が後を継いだのだった。

渋谷陽一の社長はつらいよ2017.2.19  朝日と日経に同時に書評が載ったこと、ロッキング・オンは常に変なものであり、とても位置づけしにくいものとして扱われてきた、とあった。先に開いたロッキングオン同窓会でもこの本の話題になったら何人かが「勝手なことかいてるよな」と声を揃えて言ったのが笑えた、とある。

渋谷陽一の社長はつらいよ 2017.2.7 ロッキングオン同窓会を開いた記事。1号の表紙が載っている。


→橘川幸夫ポータル
→橘川幸夫ブログ ロッキング・オンの時代1970-74、として「渋谷陽一との出会い」「リボリューション」が載っている。

パソコンを鍛える (講談社現代新書)
岩谷 宏
講談社
1998.9刊 仕事でパソコンの事があまりよく分からなかった時に図書館でこの背表紙を見つけた。え?岩谷宏?と思ったら正しくロッキングオンの岩谷氏の本だった。パソコンの動く仕組みとか少し分かった気になる本だった。
コメント
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