ロッキング・オンの時代(橘川幸夫著)

2017年11月29日 | 音楽本
ロッキング・オンの時代
橘川幸夫
晶文社
 2016.11.25刊 


雑誌「ロッキング・オン」と渋谷陽一の若いこだま、ヤングジョッキーは、自分の10代後半から20代前半、頭の中のほとんどがロックに占められていた時代を大きく彩る事柄だ。こんな本が出たんだというのは日経の書評欄に「あとがきのあと」と題して橘川氏の写真入りで載ったので知った。

さっそく読んでみると、創刊当時のエピソードが満載で、店頭に並んだ裏側ではこんなことがあったのかととてもおもしろく、渋谷氏、橘川氏、岩谷宏、松村雄策とそれぞれの個性が集まるべくして集まったのだなあと感じる。渋谷氏からみればまた別の見方もあるはずだが、主に印刷を担当した橘川氏の視点もおもしろい。


雑誌は72年8月号が創刊。初めて「ロッキング・オン」を買ったのは77年12月号・通巻32号。79年、80年、81年あたりは毎月買っていて全部今もとってある。79年あたりからは背表紙を順に並べるとアーティストの顔になった(と思う。納戸に行くのが大変なので推定)


「ロッキング・オン」の存在を初めて知ったのはいつか?たぶん75年か76年あたりだったと思う。77年12月号には毎月1日発行とあるが、その前は隔月刊だった。当時「ロッキンf」というやはり洋楽系の雑誌もあり、”f”の方は「ミュージックライフ」みたいな写真とかたくさん載ってる雑誌だった記憶だが、そちらはたぶん毎月で、隔月だと当然店頭に無い月もあるわけで”オン”の方は潰れてしまったのか?などと思ったりした。

「ロッキング・オンの時代」では10号まで表紙と目次が紹介され、その時点での発刊にまつわるエピソードが書かれている。4号から全国で販売されるようになったとあり、7号で1年続いた、とある。手元にある77年12月号の巻末には、バンドメンバー募集や文通相手募集があり実際同学年の女子と数年間文通した。またバックナンバーから全部持ってる人が10人位載っていて、「見たい人は往復ハガキで連絡を」などとありこちらも創刊号を見せてもらったことがある。なにより渋谷氏、橘川氏ら編集者の自宅の住所が載っていて、「執筆者に対する連絡はそれぞれの自宅に手紙でして下さい」などとある。渋谷氏の住所を見ると下宿と近いではないか! その新宿区下落合は同じ落合出身の泉麻人とともに氏も語るところであるが、なるほど遠回りをして行ってみるとちゃんと「渋谷」の表札があった。

77年12月号の編集後記では、六本木に新編集室が移ったこと、また就職やアルバイト募集者には「現在手は足りている」、事務所はヤケに立派な所になりましたが、あれは編集長のミエで、会社としての実質が整うのはもう少し先になりそうです。などとあり、こう手作り感、ミニコミ誌感が漂う。

また渋谷氏が「若いこだま」に出るいきさつも書いてあった。NHKが若者向け番組を作ることになり、DJを関係者からの推薦で募集し、淡々としたDJが採用になったということだ。採用される時は編集メンバーみんなに相談があって、皆の「NHKは全国放送だし、ロッキング・オンの宣伝だと思って受けてみたら?」ということだったとある。ロッキング・オンが全国配布になってからとあるので73年頃のことだろう。高校の頃から聴いていた気がするので始まってすぐ聴き始めたのではないかと思う。2,3年すると「今度FMでやることになった」と言って「ヤングジョッキー」が始まり、「若いこだま」は大貫憲章氏が後を継いだのだった。

渋谷陽一の社長はつらいよ2017.2.19  朝日と日経に同時に書評が載ったこと、ロッキング・オンは常に変なものであり、とても位置づけしにくいものとして扱われてきた、とあった。先に開いたロッキングオン同窓会でもこの本の話題になったら何人かが「勝手なことかいてるよな」と声を揃えて言ったのが笑えた、とある。

渋谷陽一の社長はつらいよ 2017.2.7 ロッキングオン同窓会を開いた記事。1号の表紙が載っている。


→橘川幸夫ポータル
→橘川幸夫ブログ ロッキング・オンの時代1970-74、として「渋谷陽一との出会い」「リボリューション」が載っている。

パソコンを鍛える (講談社現代新書)
岩谷 宏
講談社
1998.9刊 仕事でパソコンの事があまりよく分からなかった時に図書館でこの背表紙を見つけた。え?岩谷宏?と思ったら正しくロッキングオンの岩谷氏の本だった。パソコンの動く仕組みとか少し分かった気になる本だった。
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音楽談義(保坂和志)

2016年07月09日 | 音楽本
音楽談義 Music Conversations (ele-king books)
保坂和志,湯浅学
Pヴァイン
 2014.12 

”同級生”保坂和志とそのまた同級生湯浅学の音楽対談。2013年5月から2014年9月にわたり7回。

洋楽が主なのだが、保坂さんが「どうして我々の学年にアイドルが少ないのか」と嘆く場面がまったく同感。1年上に郷ひろみとか御三家がいて、アン・ルイスが同学年でいるものの、すーっと2学年下の百恵ちゃんまでいってしまった、と。

発売元がPヴァインだ。
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ピーター・バラカン音楽日記

2012年03月01日 | 音楽本
ピーター・バラカン音楽日記
ピーター バラカン
集英社インターナショナル
 2011.9.30

2002年10月号から2009年1月号まで月間プレイボーイに連載していたものに追加・再構成をしたもの。連載は終刊をもって終わりとなった。
最初プレイボーイ誌からの依頼に躊躇し、特に女性には読んでもらいにくいだろうと思ったと書いてありますが、単行本となり確かに読むことができたわけです。

NHKFMの番組が朝早くに移動してしまい、なかなか肉声がきけなくなってしまいさみしかったのですが、久しぶりにこの本をなんと図書館でみつけ思わず手に取りました。日記とあるように、ひとつひとつのタイトルはミュージシャンになっているのですが、バラカン氏がその音楽をどんな状況で聴いたか、ということが書かれているので、正に氏の生活も垣間見られる日記となっているところがおもしろいところです。・・しかし、知っているミュージシャンがあまりでてこない。TBSのテレビ番組「CBS60ミニッツ」昔のCBSドキュメントの司会を引き受けたくだり~音楽バカで経済は素人程度しかしらないけど担当者から、あなたがミュージックビデオを紹介した後にそれについて正直な感想をコメントするのと同じように、社会問題に関するドキュメンタリー映像についての感想を話せば大丈夫です~なんか興味深かったです。この番組は逆に時間が遅く見逃しがちですがやはり氏のコメントは興味深いのです。

バラカン氏の魅力は、そのTBSの担当者が言ったように、正直なコメントにあるのでしょう。評論というものに関しての存在位置を示しているのかとも思います。一体に評論家、コメンテイターは自分では何も実行・表現しないくせに言いたいことを言っている、と考えてしまうこともありますが、ことバラカン氏の言説に関してはそれが自分とは違う考えであったにせよなにかあたたかいものを感じます。それはきっと正直な感想、に含まれる思慮深い表現からくるのかな、と思います。興奮気味の鋭い物言いより、一歩引いた表現、というのが案外説得力があるんだ、ということでしょう。一歩引いた表現になるのは、英語が母国語の氏が日本語をしゃべるせい?もあるのかな。

ちなみに氏はどうしても肩書が必要な時は「ブロードキャスター」と名乗るそうです。これはテレビやラジオの放送媒体を通して、自己表現をして生計を立てる人(放送する人)で、決してジャーナリスト(報道関係者)ではないとのことです。

ピーター・バラカン氏のblog 氏の直接の書き込みではなくスタッフのようです。氏の出演番組のリンクあり。
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「僕の音盤青春記 Part2 1976~1981」牧野良幸

2012年02月18日 | 音楽本
僕の音盤青春記 Part2 1976~1981 著者:牧野良幸(CDジャーナルムック)
牧野 良幸
音楽出版社
 2012.1.20

「僕の音盤青春記1971-1976」に続く第2弾。時代は1976-1981。牧野氏、大学1年から卒業後1年。牧野氏は1つ下なのでほとんど体験は同時代。時代の雰囲気はあとがきによく書かれています。「60年代から70年代にかけて活躍したアーティスト達のパワーが、ひと段落した時期で、かわりにパンクやディスコなど新しい世代の音楽が台頭してきて」「音楽の聴き方もこの時期に変わって、70年代前半のようにみんなが同じレコードを聴く事も減って、これが大人への道で、大学生ともなればヒット曲に踊らされず自分がこだわる音楽を聴くようになる。がそれを差し引いても70年代前半とは変わったような気がする」と書いてます。

これがまったく同感なのです。70年代後半は学生運動はひと段落し、キャンパスは大学によって違うでしょうが、自治会の独特の文字の立て看板はあったものの、話に聞くような運動はありませんでした。音楽に関し、高校時代と違ったのは、地方から東京へ出たせいもあって、それまではFMはNHKしか聴けなかったのが、FM東京が聴けるようになって格段に情報量が増えたことです。FM東京の邦楽・洋楽それぞれのベストテン番組は聴いていたものの、流行りの以外のジャズや特集される昔の音楽を聴くようになりました。

これまた氏の言葉と同じ、なんといっても70年代後半のトピックは自分にとってはパンクとディスコでした。70年代前半にビートルズを聞くようになって、彼らとかサイケデリックとか同時代体験してないのが悔しかったのですが、やっとパンクは出現時に体験できたのです。これは音楽はもとより、男性の髪が短くなったのが印象的です。そしてディスコ。これは映画「サタデーナイト・フィーバー」で頂点に達したのでしょうか。この映画も友人と当時銀座でロードショーで見て、そのあと入った喫茶店でいくらだったのか、食事セットが値段が高くて頼めず、隣でおいしそうに食べてるおじさんを眺めてました。三橋美智也が焼きそばのCMで”フィーバー♪”とやってた気がします。それに、なんと卒業式のあと式服のまま新宿のディスコに行き、当時の友人たちとの最後の別れとなったのでした。

・・と同世代人である私は読みながら自分の事にオーバラップさせ、どんどん回顧のるつぼにはまっていきます。

僕の音盤青春記パート2 牧野さんの公式ページ(目次があります)
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オーディオ小僧の食いのこし(牧野良幸 絵と文)

2010年01月11日 | 音楽本
オーディオ小僧の食いのこし (AUDIO BASIC MOOK21)
牧野 良幸
共同通信社 2009.4

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「僕の音盤青春記」に続いて、今度はオーディオ版青春記である。
副題が~ソノシートからホームシアターまで、昭和~平成オーディオクロニクル
~アポロ11号、大阪万博・・そしてオーディオブーム! あの頃が懐かしくよみがえる

そうだ、オーディオブームだったのだ。そういえば昭和51,2年頃、NHKで「オーディオ入門」とかいう番組があって、揃えるべきオーディオを指南していました。

60年代のspレコード、ソノシート、70年代のFM番組とエアチェック、FM誌の隆盛と終焉、そしてデジタル時代へと氏のオーディオ生活の変遷が氏のイラストと文で綴られる。このイラストと文がなかなかよいのです。誌面が過ぎ去った幸せなアナログ時代へのタイムマシンのようです。

牧野氏のオーディオクロニクル、まずはオープンリールのテープ。これは音楽用のでっかいのではなく、家庭電化製品である。昭和40年あたり、家庭で家族の声とかを録音するのです。これがまた我が家と同じ。牧野氏は「うんち」とか言って楽しんでいたらしいが、ここで初めて聴く自分の声の驚き、”尋常でない恥ずかしさ” 私は祖母が具合が悪くなって、あわてて祖母の昔話を録音したりしましたが結局その後3年くらい無事でした。

FM誌面も隆盛時は4誌面もあったのですね。私は「FMレコパル」を買ってました。エアチェックの項目では、・新しいFM誌を買ってくる~2週間の番組表で録音したい番組表を選ぶ~赤の色鉛筆でその番組表を囲む~どのテープを使うか決める~その日になるまでソワソワして待つ、おおーそっくりですねー。いざ番組が始まっても解説者の声が入ってしまったり、あと10秒というところでテープが切れてしまったりと、それは気苦労が多いものでした。そのあとの曲名書きもまた楽し・・ と懐かしいあの頃がよみがえります。レコパルはジャンル別にマークがついてた気がします。

2001年7月から「FMfan」に連載を初め、同12月に休刊となった後は「オーディオ・ベーシック」に移って連載をし、現在も連載中。この経過が正にオーディオ事情になってます。

著者マッキーこと牧野良之さんのblog



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「at武道館」をつくった男(和久井光司著)

2008年10月06日 | 音楽本
『at武道館』をつくった男 ディレクター野中と洋楽ロック黄金時代
『at武道館』をつくった男 ディレクター野中と洋楽ロック黄金時代
 2008.7.20 

1972年にCBSソニーに入社し、2年間の宣伝活動の後、洋楽ディレクターとして、モット・ザ・フープル、エアロスミス、ジャニス・イアン、クラッシュ、そしてチープ・トリックなどのディレクターを務めこの6月に定年退職を迎えた野中氏の足跡を辿った書。と一言で言うとこうなってしまいますが、70年代、ちょうど自分が洋楽を聴き始めた時期、こういう風にして洋楽アルバムが日本で発売されていたのか・・ という事がとても興味深く語られています。

最初の2年の宣伝というのは担当のアーティストのシングル盤を持ってラジオ局を回ったり、来日の時はいろいろ裏でお世話する、といった事。特に番組の初めの1曲目にしてもらうようにするのがヒットの要件とか。アルバート・ハモンドの「落ち葉のコンチェルト」は最も力を入れ東京の深夜番組の1曲目を勝ち取ったそうです。・・それを当時私は聴いていたことになります。

あとはポルナレフの宣伝も担当で来日時には空手をしていた彼を空手道場に連れていったりもしてます。そのポルナレフの”敵”がキング・レコードのカーペンターズたった、などファンとして聴くのと、売り手の現場にいるのとではまったく違ってきます。小売と製造、買い手、立場によって見る目が違ってきます。

その後洋楽を日本で売るディレクターとなるわけですが、この洋楽ディレクターというのは、邦楽を売る場合は目の前にアーティストがいるのでそのバックアップということになるのに対し、当のアーティストは海外にいるので”自分がそのアーティストになってしまうこと”だと言っています。ここらへんはなるほどーそうなのかととても興味深いです。アーティストを体現しつつレコートの帯の文句を考えたり、発売のタイミングを考えるのだそうです。

題名にもなっているチープ・トリックに関しては、デビュー・アルバムを褒めたのはロッキング・オンの渋谷陽一だけで、自身の交通事故と、さらにミュージック・ライフの東郷かおる子さんの「この子たちいくわよ」という、この二つの音楽誌が同時に動く新人・・あまり無い事態・・にピンときたという興味深い記事があります。

それにしても野中さんはソニーの社員であったわけで、30余年に渡るサラリーマン生活を満期定年したんだなあ、すごい、というのがこの本の重みでした。

著者の和久井さんはミュージシャンでもありますが、彼は制作側から見た洋楽史を書くのはもちろん、団塊世代の一像を書きたかったとも記しています。和久井さん曰く「1958年生まれの僕は、団塊に圧し潰されて四五度ぐらい捩れてしまった世代(50年代中盤生まれ)を直接の先輩として育ち、さらに四五度ぐらい捩れてしまったという自覚があり、団塊の作った”王道”に素直に同調できなかった」と自らを記してるのですが、あれそうかい、それじゃあ私は45度かいと思いました。和久井さん年代と同一と思ってたのが2年違いでさらに思いは複雑だったのかと。


「社長の履Rec書」 野中規雄さんのblog
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1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター

2008年02月25日 | 音楽本
1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター
1995年のスモーク・オン・ザ・ウォーター 2007.10 五十嵐貴久著

ついでにこの本。去年図書館の新刊コーナーにあって、おお? と思い借りて読んだもの。
舞台の年は1995年、阪神大震災の年。主人公は44歳の主婦。昔の友人、パート先の同僚らと女性だけのバンドを作り、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」をやる、というもの。(すいません筋を書いてしまいました)
これはblogネタになるゾなどと思って読み始めたものの、そしてなつかしい曲名がたくさん文中に出てはくるものの、あれれ、なんか題名のあのイントロの強烈なインパクトとはちょっとずれてるなー と感じる文でした。

著者は1961年生まれ。95年に44歳だと1951年生まれあたりの人が主人公なのか?という気がして読んでいた。会話などで○○の時に何年生だったよね、などというのがあって、それを数えるとあれ?ずれてるんじゃない?などと思い始めたり、早生まれのずれかなどと思ったり。著者にとっては約10歳年上の女性を主人公にしてるわけで、そこに心情などの書き込みに無理があるんじゃない?と感じたのがマイナスな読後感だったのかも。
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わが青春のロック黄金狂時代/東郷かおる子著

2007年12月04日 | 音楽本
わが青春のロック黄金狂時代―ビートルズからボン・ジョヴィまで (角川SSC新書 4)
わが青春のロック黄金狂時代―ビートルズからボン・ジョヴィまで (角川SSC新書 4)
 東郷かおる子著 2007.10.30

実は新書好き。本屋に行くとつい新書コーナーを見てしまう。そこで目についたのがこれ。社会科学系の多い新書の中「ロック」の文字に目ざとく反応。みれば著者は東郷かおる子さんではないの。なつかしい名前におもわず手に取る。

いわずと知れた「ミュージック・ライフ」の元編集長だ。67年にシンコー・ミュージックに入社し翌年「ミュージック・ライフ」の編集部に配属されてからの仕事の数々を時代を追って書いている。そう、これは東郷さんの仕事一覧でもあると同時にそれがロックの変遷記にもなっていた。箱根アフロディーテ、雨のグランド・ファンク、イスの下敷きになってしまったレインボー、東郷さんは裏側で取材していた。60年代、70年代、80年代、90年代と4つの章で構成されている。それぞれ最初に時代を概観する小文が載って、その後にミュージシャンの取材記が載っている。活字の間から発散されるのは東郷さんの熱気。

ミュージシャンと向き合う東郷さんの写真もたくさん載っていて、それは演奏してる時とは違うミュージシャンの雰囲気が伝わってきてお宝写真のようだ。取材記を読むと本当に体当たりで仕事をしてきたんだなあ、と思う。記事の裏側にこのような困難(楽屋裏は破天荒なアーティストも多く大変)があったとは思いもよらなかった。

高校時代のクラスメイトに同じ「かおる子」という名前の太目の子がいて、東郷氏も勝手に太めの人とずっと思ってしまっていたのだが、載ってる写真は細身のきりりとした方だった。

取材記はミュージシャンの知られざる逸話が満載だ。
常識的だったのはミック・ジャガーとボン・ジョビで、その常識さがバンドの長生きの秘訣だと東郷氏は語る。やっぱり破天荒なヴァン・ヘイレンとモトリー・クルー。77年のキッス来日のおり、ゴジラとキッスの並んだ写真を表紙にしようとしたら、大柄な上にあの靴のキッスとゴジラの身長が同じになってしまい肖像権の問題もあり写真はお蔵入りになってしまったとか。一番多く取材したクィーンでは、クィーンの最大の産物は「ロック少女」の誕生だと語る。まさに年代的に自分があてはまるのだが、ML誌上でクィーンについてハガキや問い合わせをする「少女」の
数が一気に増えたというのだ。東郷氏はその「少女」たちは今何をしているのだろうと書いてるが、・・blogを見てごらんよー と教えてやりたくなった。


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大瀧詠一KAWADE夢ムック

2007年07月28日 | 音楽本
大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史
大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史 KAWADE夢ムック 文藝別冊
2005.11

読みました♪たてよこななめ、昔のから新しめのまでたくさんの記事が載っておりました。
氏のHPで演劇少年からアメリカンポップスに目覚めることは分かったのですが、どこでギターを始めたのか、どういう風にポップスに目覚めたのか知りたかったのです。

おもしろかったのは「ナイアガラ・ライフ30年」内田樹氏との対談と、「大滝詠一のポップス講座~分母分子論」相倉久人(聞き手)や、関係ある人たちの「私的大瀧詠一ベスト5」

「ナイアガラ・ライフ30年」では大瀧さんの歌い方は鼻音にあると自身で語っていて、歌はセクシャリティに関係していてそれはmとnやkの発音にかかっていると言っていました。言葉のある歌を聴いて、特に異性の歌手がいいなあと思うのは楽曲とともに、そんな歌い方にも関係しているのかあと目からウロコでした。確かに大瀧氏の声はつやがあって、今回個人的にどんな人か興味が湧いたのも鼻音の発音にあったのかも。

分母分子論というのは83年に雑誌「FMファン」で対談されたもので、明治以来日本の音楽は洋楽(世界史・分母)を音楽教育とかの土台にしてきて、そのうちそういう洋楽を消化した人(古賀政男や服部良一など)が「君恋し」などの歌謡曲を発表して、日本の流行歌になる(分子)。戦後の流れだとロカビリー、GS、フォーク、ニューミュジックなどどんどん新しい流れは出てくるが、ロカビリーなどの人は分母が洋楽でそれを意識しているが、次の世代になるとそのロカビリーを分母として新しい音楽を作るようになり、消化された洋楽を土台にしてるので、自分で大元のルーツの音楽を意識していなくて影響されるものが二重三重になってくる・・ というようなのが分母分子論?なのかな。

でロング・バケイションは自らのルーツの50年代ポップスの確認作業であったと言っています。それで盗作が目立つなどと言われたとか。

で肝心の氏のポップス元年は・・ 
「私の100枚」(サウンドレコパル81年所収)の一文と「巻末の年表」でわかりました。家にあった蓄音機で「お富さん」とか聴いてが、10才の時にコニー・フランシスの「カラーに口紅」をラジオで聞いたのが最初のポップスとの出会い。で中学時代の61.62.63年には当時のヒット曲のシングルを買い集める。64年の高校一年、ビートルズが出てきてLPを買うためにプレスリーのレコードを手放してしまう。66年ビートルズの日本公演をTVで見てギターを始める。

しかし「FMファン」に「サウンドレコパル」となつかしい雑誌です。

はぴいえんどがバッファロー・スプリングフィールドに影響を受けているようなのですが、こうみると氏の分母はアメリカンポップスとビートルズのようですが、次の世代の自分だとはぴいえんどが分母になってしまっている、ということでしょうか。

大瀧氏のHP「Amigo Gara-Ge」 手作りHPという感じでナマな読み応えが。

対談:船村徹氏と 2005年の姿が・・

上流階級倶楽部~ナイアガラなパラダイス UTOさんのHP 大瀧氏の作品一覧など細かいデータがたくさん


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マイルスづく~私のこだわり人物伝

2007年06月23日 | 音楽本
私のこだわり人物伝 2007年4-5月 (2007)私のこだわり人物伝 2007年4-5月 (2007)


興味を持ってる物には自然に嗅覚が働くのか本屋で偶然「私のこだわり人物伝」なる本が目に入った。NHK教育でやってる番組の活字版でマイルス・デイビスとオードリー・ヘプバーンが載っているものだ。

放送は5月に終わってしまったらしいが菊地成孔の語るそれはとても分かりやすく、マイルスの音楽と環境が簡潔に語ってあった。裕福な家庭の育ちとか小柄でけっこうそれをコンプレックスに思っていたとか初めて知ることもあった。もちろん音楽家の菊地氏の語るマイルスの楽曲の変遷はとてもわかりやすい。

時代の音楽には敏感で、フランク・シナトラの歌いまわしをトランペットに取り入れてそれがスターになるきっかけとなり、50年代に主流だったジャズも60年代に入ると時代はロックに移りレコード会社のドル箱ではなくなり、といった経過も触れられています。

ビートルズにはさほど興味を示さなかったようですが、ジミヘンやジャニスなど西海岸に興味を示しそれがジャズにエレクトリック・サウンドを入れるきっかけになったようです。ジミヘンと会ったマイルスは楽譜の読めないジミヘンが一度きいただけですぐ理解することに驚嘆し共演の計画もたてたようですが、ジミヘンの死で幻に終わったとか。実現してたらどんなものが出来上がったのか。

菊地氏は中学生の時に「ゲット・アップ・ウィズ・イット」を聴いて鳥肌がたったといいます。誕生祝にレコードを買ってやるといわれ2枚組なら徳だと思い76年当時ロックもあったのになぜかこれを選んだとか。音楽との出会いはこんな風に偶然っていうのが多い気がする。マイルスのことを語りながら、菊地氏にも興味がわくとてもおもしろい本です。放送ではきっと映像や音なんかもあったんでしょう、見逃したのが残念です。

「知るを楽しむ」マイルス・デイビス HNKのHP 4回分のあらましが書いてあります。
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