へーちょうなんだ。

ときどき書きます。
4コマ漫画「こねことへんないきもの」略して「こねへん」れんさいちゅう。

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ぱそこんきょうしつ。

2011-06-17 18:00:17 | にっき
今日、駅から自宅への帰り道の途中でパソコン教室を見つけた。いや、見つけたといってもそれは前からずっとそこにあったわけで、僕はなんども通りかかっていたわけで、正確には今日はじめてそこにパソコン教室があることに気づいたと言うべきなんだろうけど、なんてことはどうでもよくて。
その中では十人くらいのおじいさんやおばあさんが、自分の息子や娘よりももっと年の若いだろう講師に、パソコンの操作の仕方を教わっていた。
きっとこのおじいさんやおばあさんたちは自分の子供や孫に「おじいちゃん、パソコンくらい使えないと将来困るわよ」「将来って言ったって、わしはもう老い先短いけど」「来世の話よ」なんて会話はしてないだろうけど、生活のどこかでパソコンを習う必要性ってものを感じて、ここに集まったんだろう。
ここで僕は、母から聞いたパソコン教室に関するある話を思い出した。なんでも母の知り合いのお父さん(つまりだいぶ高齢の方)がパソコン教室に通っているんだけど、先週教室でプリントアウトのやり方を聞いてきたと言うので、ちょっとプリントアウトしてみて、と言ったらもう忘れた、とか言う。なんのために教室に通っているのか。ほんとうに覚える気があるのか。いつまでたっても成長が見られない。母の知り合いはほとほと呆れてた。んだそうだ。
だけれども、と僕は思った。あるいは、パソコンを覚えることが目的ではなくて、パソコンを覚えに行くことが目的になっているんだとしたら。
ヴォネガットが言うには、アメリカで最も優れている宗教は「アルコホーリックス・アノニマス(アル中患者を中毒克服者に合わせて助言を受けさせる全米組織)」なのだそうだ。「この会は血縁関係にとても近い拡大家族を会員に与えてくれます。あらゆる会員が同じ破滅的体験を持っているから」。
この会の面白いところは、酒飲みではない大勢の人が所属していることなのだそうだ。彼らは単なる上辺だけの付き合いではない、本当の関係を求めてこの会に入るのだ。
同じように、いまやどの街にも三四軒はあるこのパソコン教室(考えてみるとすごい曖昧な教室だ。パソコンを教わるってなんぞや)というものも、この会と同じように、共通の破滅体験(パソコンができない!)を持つお年寄りがこぞって集い、そこで拡大家族を形成する一つのコミュニティになっているのではないか。
もしかしたら、従来からある生花教室とか碁会なんかも同じようにコミュニティを作っているのかもしれないけど、パソコン教室というのは、みんな同じパソコンができないという負い目を持って集まっている。ご存知のように、同じ趣味の人より同じ欠点を持つ人のほうが人は親近感を持ちやすい。そこにパソコン教室コミュニティの特殊性がある。
そのコミュニティの中にはもしかしたら、そもそもパソコンを覚える気がなかったり、もともとパソコンを知っていたりする人も少なくないんじゃないか。
これはあくまで僕の推測である。でも、そう間違ってはいないと思うのだけど、どうだろう。
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しりょく。

2011-06-16 03:46:23 | にっき
僕は小学生の頃からずっと右の目の視力が0.1未満の近視で左の目の視力が1.0の遠視という超絶ガチャ目なのだけど、幸いなことに未だに眼鏡なしの裸眼での生活に支障がない。
たぶん近くのものを見るときは右の目だけを使い、遠くのものを見るときは左の目を使うという分業体制になっているのだろうけど、先日眼の構造のことを知って小学生からずっと変わらない視力でいられた理由がわかったのだった。
というのも、おおかたの人はご存知だろうけど、目というのは水晶体を筋肉で引っ張って屈折率を変えてピントをあわせている。それで、近視になるメカニズムというのは、近くのものにピントを合わせ続けていると水晶体を引っ張る筋肉が延びっぱなしになってしまって、遠くのものにピントをあわせられなくなるからなのだそうだ。
で、そうなると僕の目は普通の人と違って左右それぞれ遠近しか見ていないのだから、遠くしか見ていない左の目は近視になることはありえず、近くしか見ていない右の目が遠視になることもありえない、のだ。(たぶん)おかげで度重なる視力の酷使に関わらず、僕は近くのものも遠くのものもある程度視えるままで今までこれたのだ。
ということを考えたので書き留めておく。読み返してみると単なる自慢かこれはって思わないでもないけどいいのだ。日記なのだ。日記とは日々を記すことなのだ。今日こういうことを思ったから書くのだ。誰にも文句は言わせないのだ。国会で青島幸男がキメたのだ。アヘ顔ダブルピースを。キメないわ。もういいわ。やめさせてもらうわ。おしまい。
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そうさくすること。

2011-06-11 03:38:30 | にっき
ついったーで「創作者の脳の動き」ってのについてちょっと考えたのをつらつら書いたのでまとめとく。

「猿にタイプライターを適当に叩かせてシェークスピアは完成するか?」って話題で、そんとき僕は「たとえば俳句の文章には50の17乗通りの組み合わせしか存在しないけど、だからといってコンピューターによる総当りでそれらを列挙したからといって、いい俳句ができるわけではない」ってことを言った。気がする。
だけど本当は「完成する可能性はゼロではない。しかし、猿には自らの打ったものがシェークスピアだと判断できない」って感じの答えをしたかった。
人間の「創造力」というのはつまりは「判断力」なのだ、という説。
というのは、芸術家が創造するといってもいきなり作品が形となってぽんと飛び出すわけじゃなくて、おそらくだけど無意識下や意識下でたくさんの試行錯誤をして、その中から「いいもの」を選び出している、のだと思う。
石や木といった素材の中に形が埋まっていて、それを掘り出すだけだ。っていう彫刻家も、本当は無意識の中で延々試行錯誤した結果がその素材の中に埋まった形、という感覚で表れているんじゃないかとか。
となると創作の本質っていうのは、何が「いいもの」なのかを判断する審美眼的視点だけなのであって、試行錯誤そのものはコンピューターでもできる。バロウズがやったように自分の作品を切り刻んでランダムに並べてその中から「いいもの」を選ぶというやり方でも作品は作れる。だけど、それはランダムに作られたものだとしてもやはりバロウズの作品なのだ。なぜなら彼が「いいもの」だと判断し、形に残したものなのだから。
つまりはすべての創作者は監督なのだ。自分の脳内やランダムに生成された何かから、「いいもの」を判断し、それを形として残す判断を下す、総責任者なのだ。
だから作者の個性というものは、試行錯誤の過程なんかではなく、最終的な価値判断の基準、なにを「いいもの」とするかのばらつきにあるのだ。
なんてことを思いました。
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