へーちょうなんだ。

ときどき書きます。
4コマ漫画「こねことへんないきもの」略して「こねへん」れんさいちゅう。

手紙。

2012-10-30 02:22:20 | にっき
 今日は手紙というものについて考えていました。最近、誰かに手紙を書くことがほとんどないな、と思いつつ。メールで済ませてばかりです。というよりもはやメールで「済ませる」という言葉自体に違和感すらあります。メールはメールで独立の完結した連絡手段であって、手紙は何か別の、たとえば魚屋で鯖を買うのではなく海に釣りに行くような、そういう贅沢で特別な行動であるような錯覚を覚えてしまったりします、最近。
 それでもやはりそれは錯覚であって、メールもまた宛先へ言葉を届ける手段という意味で手紙と同じものであり続けるわけで、この世に文字が誕生してから連綿と繰り返されてきた人間の普遍的行動の焼き直しなのであります。たぶん。
 しかし手紙というのは、同じ言葉を届けるものでもたとえば電話や肉声、あるいはボディーランゲージと違って、「文字」というかなり特殊な記号を用いるところに特徴があります。なにせ「言葉」自体はゴリラやクジラでも理解すると言われていますが、「文字」はこれは正真正銘人間固有のもの、他の動物は絶対に持ち得ない我々だけの記号なわけです。ちょっと脱線しますが、「計算をする犬」というのが時折テレビなんかに登場します。出題者が手にした紙に書かれた計算式を読み取り、正しい答えの書かれたボードを咥えて持ってくる、というあれです。この「驚くべき能力を持った人類最良の友」についてノーベル賞学者のコンラート・ローレンツという人が検証の実験をしています。それによると、犬は実は計算式ではなく飼い主の表情や反応を読み取って正解を選んでいた、という結果が出たそうで、やはり文字を扱える動物は人間だけなのだということらしいです。(さらに脱線しますと、コンラート・ローレンツ博士は飼い主のわずかな表情の機微や変化から正解のボードを読み取る犬の能力を真に驚嘆すべきもの、とも言っています)。
 さて、脱線したものを戻そうかと思いましたが、よく考えるとはじめから線路などなしにこの文章は書き綴られていたのでした。まるで文通をはじめたばかりの乙女のようです。なんて。
 ところで文字による伝達、という意味ではこの文章のようなブログ、書籍、SNSその他もろもろも同じものですが、手紙にはもうひとつ大事な構成要件があります。
 手紙には必ず宛名があるのです。なかったら郵便局の人が困ってしまいます。
「そう、手紙には宛名があるの」
 なんだかここでちょっと妄想が活発になってきました。宛名をなくした手紙が僕のところを訪ねてくるのです。そして、こう尋ねる。
「だから私が誰宛の手紙なのか、あなたにそれを教えて欲しいの」
 これは難しい質問です。世の中には通信の秘密というものがあって、勝手に他人の手紙を開封して読んでみてはいけないのです。これはフランス革命からずっと守り続けられている郵便の鉄則なのです。中身がわからなかったら誰宛かなんてわかるはずがないのです。君はまず郵便局に行くべきなのです。
「行ったわ。そしたら、ここへ行けって」
 語るに落ちました。つまりこの手紙は「宛先不明」なのです。宛先不明の手紙はどうなるか。そう、差出人のところへ戻るのです。
 真実を知った手紙は怒り顔です。当たり前です。宛先がない手紙なんて怪文書と同じです。
「まったく、あなた、差出人をちゃんと書いたのに、宛名を忘れるなんて間抜けね。……いや、もしかして……自分宛ての手紙、なんて?」
 そうですね。そんな陳腐なものもまたこの世にはあり。
「……いや、それとも……ううん、まさかね」
 そう、まさか。普通はありえないこと。でもこの手紙は、最初から最後まで手紙のために、手紙のことを書いている。
「……ありがと」
 手紙宛の手紙、なんて珍妙なものももしかしたら存在するかもしれないのです。なんて。

おひさしぶりです。

2012-10-28 04:22:08 | にっき
全然ブログを更新していなかったら、勝手にテンプレートが変更されてまりあ†ほりっくじゃなくなってて悲しかったので更新しようと思いました。
とはいえ別に今どうしてもブログに書きたい何かがあるわけでもなく、それならば肩肘張らない小学生の夏休みの宿題のような単なる日記すらも書く気が起きないのである、ということを書いておくことにします。
それでもどうしても何か書くことを僕のしなびた脳髄から絞り出すとしたら、したら……それでも何も浮かびません。いや、何も浮かばないというと嘘になるでしょう。なにがしかの文章になりそうな思いつきは浮かぶのですが、その思いつきの一つ一つを手にとって眺めてみても、文章という形にして誰かの目の前に晒すべき価値のあるものに思えないのです。

今、ふと「文章を書くことはダイヤモンドを掘ることに似ている」なんて言葉が思い浮かびました。
鉱脈は確かにそこにある。掘ればダイヤの原石は出てくる。しかしそれらの原石はどれもこれも小粒で輝きも悪く、ちゃんと磨いてカットしてもとても値段はつきそうにない。それでもダイヤはダイヤである。なんて。
実際のところダイヤモンドというものは、産出量自体はものすごく多いそうではないですか。工業用のダイヤなんて鉄くず並に安いと聞きます。それでもダイヤモンドが高価であり続けているのは、装飾用に使えるほど大粒の原石が貴重であると同時に、宝石会社が価値を下落させないために流通量を絞っているから、とかなんとか。

語るに落ちたような気がしました。
「文章を書くことはダイヤモンドを掘ることに似ている。見つかったもの手当たり次第に売りに出してしまえば、誰も価値を認めなくなる」
書くことがない、なんて案外そういうものなのかもしれません。

小説「オレンジジュース」

2012-07-01 02:48:01 | にっき
「こんにちは」
「誰だい、幽霊か?」
「わたし、あなたが作ったキャラクターよ。忘れたの?」
「忘れた。作者の僕が忘れたのに、君は生きているんだな」
「だってあなた、書いたじゃない。わたしのこと、紙の上に。それが消えない限り、わたしずっと生き続けるわ。幽霊みたいね」
「消しゴムはどこだったかな」
「まってよ!わたし、あなたのこと呪いにきたんじゃないよ。お礼を言いにきたの」
「お礼?」
「オレンジジュース」
「洒落か?」
「オレンジジュース、わたし、大好きなの。あなた、自分がオレンジジュース大好きだから、わたしもオレンジジュース大好きってことにしたでしょう。おかげでわたし、あんなにおいしいものを好きでいられるの」
「なんだか、結果と原因が逆さまみたいだ」
「わたしとあなた、どっちも卵でどっちもにわとりなのよ。あなた、わたしを作ってから、ポニーテールが好きになったでしょう」
「かもな」
「わたし、色んなことを考えたよ。今は人物像だけだけどいつかわたしも何かのお話に放り込まれて、大冒険をしたり、大恋愛をしたりするのかな、って。わたしね、あなたが本を読むたびに、その本の中に自分が登場するのを空想したよ。あなた、きっと驚くかなって、自分の作ったキャラクターが、どうしてここに?なんて」
「それはね、僕も空想したよ。自分だったらこのお話をこんな人物で、こんな語り口で書くだろうな、って」
「だけど、一度もわたしは物語の中には出ていけなかった」
「……すまない」
「うらんでなんかないよ。わたしは、あなたが思いついて、でも紙にすら書かなかった何万もの人たちに比べたらずっと幸せだから。これまでずっと生きてこれたんだから」
「だけど…」
「約束して」
「約束?」
「あなたの書いたものは、たとえ誰にも読まれなくても、誰にも理解されなくても、ずっとずっと残り続けるの。いつか消えてなくなるまで、文字の上にずっと。忘れるなとは言わない。ただ、消えていくあなたの思念や感動や言葉を、どこか消えてしまった文字の彼方から見守り続けている人は、確かに存在するんだよ。だから、諦めないで」
「……」
「わたし、あなたのこと、けっこう好きなんだよ」
「そんなくだらない設定は作らなかったはずだ」
 僕の呟きは何もない虚空に消えていく。白紙のメモ帳だけが机の上に残っている。

一日かじりかけのパンをぶら下げて歩いてたことについて。

2012-06-26 18:41:06 | にっき
今日は一日かじりかけのパンをぶら下げて歩いてた。
っていう書き出しなんか村上春樹っぽくないかな、と思ったので書き出してみたけど、特に村上春樹的なことはなにもなく、本当に僕は今日一日ただかじりかけのパンをぶら下げて歩いてた。
コンビニでパンを買ったはいいけど、食欲がなくて、一口かじってからずっと袋の中で放置していたのだった。
かじりかけのパンをぶら下げていることによって、僕の内面になにか重大な形而上的変化が起こったかというと、そんなこともなく、ただ「ああ、今はパンをぶら下げてるから突然津波かゾンビかなんかに襲われてどこかに閉じ込められても、一食だけなら大丈夫だな。でもそうなったら、きっと避難したところにはたくさんのお腹をすかせた人がいて、僕がパンを食べるのを恨めしそうに見つめるかもしれないな。もしかしたらその中に美少女がいて、彼女にはお腹をすかせて今にも死にそうな弟がいて、無言ながら目ではそのことを僕に訴えかけてくるかもしれないな。そしたら当然パンを分けてあげて、感謝した彼女は、こう、あれがあれで、二人きりで生き残って、みたいなことになるかもしれないな。それだと弟死んでるな」などと思いながら、パンを食べようとしたら、あまり長いことぶら下げて歩いてたもんだからパンはかぴかぴに干からびてた。
ちくしょーなんでだー。

サラダのりんごについて。

2012-06-24 00:33:46 | にっき
サラダに入ってるりんごについて話します。そもそも世界中のどこにもサラダにりんごを入れる風習はなかったそうで、単に日本でフランスのレシピ本のサラダの項目において「じゃがいも」を「りんご」と誤訳したのが始まりなのだそうです。(フランス語でじゃがいもとりんごはよく似た綴りらしい)
サラダさんサイドからしてみればじゃがいもさんが来ると思ってたら、突然の果物さんサイドからりんごさんの登場とあいなったわけで、まさに青天の霹靂、キャベツさんやトマトさんからしてみれば「誰あいつ?知り合い?」「誰?呼んだの?」「トマトの知り合い?」「知らん、わからん」といった具合であり、りんごさんサイドのいたたまれなさといったら想像するにあまりあります。
しかしりんごさんサイドからしてみれば、このような事態は想定外であり、皮を剥かれて薄切りにされている間は単体で人間さんサイドに供されるか、最悪でもアップルパイさんサイドに投入されてお菓子さんサイドの仲間入りするか程度の覚悟しかなかったはずで、まさかサラダさんサイドで野菜さんサイドの仲間入りしてしまうとは、りんごさんサイドにとっても青天の霹靂、どうしてわたしここに連れてこられたんですか的状態であって、むしろ被害者、悪いのは誤訳した日本人さんサイドであり、むしろりんごさんサイドは謝罪を要求してもいい立場であり、しかるに僕がさっき女子トイレに突入してしまったのもわかりにくい表示をしてた相模原駅さんサイドに問題があり、女子さんサイドに冷ややかな目で見られた僕サイドはむしろ被害者であり謝罪と賠償を請求したいといったところで唐突に終わる。