アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

翁長知事は直ちに「岩礁破砕許可」を取り消せ

2016年01月14日 | 沖縄・翁長知事

  

 13日付沖縄タイムスによれば、日本自然保護協会、沖縄・生物多様性市民ネットワークは12日、辺野古・大浦湾埋め立てのために安倍政権(沖縄防衛局)が大型コンクリート製ブロックを海中投入するのを阻止するため、翁長雄志知事に対し、岩礁破砕許可(2014年8月28日)を直ちに取り消すよう求めました。

 これに対し県(担当課)は、「岩礁破砕許可の撤回など当然あるが、代執行訴訟などがあるので、どういうタイミングが適切か検討している段階だ」(13日付沖縄タイムス)と述べ、即刻取り消しの要求を突っぱねました。「司法判断などで公有水面埋め立て承認取り消しの効力が復活すれば、岩礁破砕許可を『撤回』する理由の一つになり得るとみている」(同)といいます。
 県・翁長知事は、少なくとも代執行訴訟の結果が出るまでは岩礁破砕許可は取り消さないし、仮に裁判で負ければ、取り消す「理由」がなくなる、というわけです。

 これはとうてい容認できない「回答」であり、辺野古新基地建設を阻止しようとしている県民・国民への重大な背信だと言わねばなりません。

 そもそも翁長氏は、埋め立て承認本体を取り消した昨年10月13日の段階で、当然、岩礁破砕許可も取り消すべきでした。ところが翁長氏は「調査中」を口実に取り消さず、「調査結果」が出たら、「岩礁破砕がなされたかについては残念ながら判断することはできない」(昨年11月17日の記者会見、同18日付沖縄タイムス)などといって、岩礁破砕許可の取り消しを正式に棚上げしてしまったのです。

 翁長氏は一貫して「岩礁破砕許可取り消し」に背を向けてきました。

 沖縄防衛局が最大45㌧のコンクリートブロックを49個も大浦湾に投入したのは昨年1月末のことでした。それによるサンゴ破壊、海底環境の変化が、「ヘリ基地反対協議会ダイビングチーム・レインボー」の独自調査によって明らかになったのが昨年2月です。

 これに対しては翁長与党の県議からさえ、「環境が破壊されている行為にまず知事が明確な反応を示すことが重要」(2015年2月12日付琉球新報)という声が出ていました。
 稲嶺進名護市長も「取り消しも当然」(同2月17日付琉球新報)と、岩礁破砕許可の取り消しを求めました。
 県紙も「翁長雄志知事は即刻、許可を取り消すべきだ」(同2月26日付琉球新報社説)と主張しました。

 しかし翁長氏はこうした声にも耳を貸さず、「ブロック設置の作業停止を指示」(同2月16日)しただけでした。「取り消しも視野にある」(同2月17日付琉球新報)という常套句で、実際に取り消そうとはしなかったのです。

 日本自然保護協会や沖縄・生物多様性市民ネットワークが指摘しているように、「岩礁破砕は判断できない」とした11月17日の会見での翁長氏の表明は、まったく根拠がないものでした。それどころか、非専門家による形だけの「調査」だったことが明らかになっています。

 防衛局の「埋立本体設計図書」全文を入手した北上田毅氏(土木技師・沖縄平和市民連絡会)によれば、安倍政権は今後、最大57㌧もの巨大コンクリートブロック102個を含め、総数286個のコンクリートブロックを大浦湾に投下する計画です。そもそも「岩礁破砕許可には、多くの瑕疵があり、取り消されるべき」(北上田氏、「けーし風」2015・7号)なのです。

 ことは急を要します。
  「安倍政権は自民、公明両党の推薦する現職の佐喜眞淳氏が再選すれば(今月24日投票の宜野湾市長選-引用者)、そう間をおかずに辺野古沿岸部の海へ土砂を流し込むシナリオを描いている」(12日付中国新聞=共同)からです。
 いいえ、「安全保障に関わることは国全体で決めることであり、一地域の選挙で決定するものではない」(安倍首相、12日の衆院予算委員会)という安倍政権は、佐喜眞氏の当落にはかかわりなく、土砂を流し込んで埋立工事を強行してくるでしょう。

 「代執行訴訟」云々の言い訳はまったく通用しません。辺野古新基地に本当に反対なら、翁長氏は直ちに、少なくとも宜野湾市長選挙までに、岩礁破砕許可を取り消す「知事権限」を行使すべきです。


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翁長氏『戦う民意』を読む② 「イデオロギーよりアイデンティティ」の正体

2016年01月12日 | 沖縄・翁長知事

  

 翁長雄志知事著『戦う民意』には、翁長氏の本音が見え隠れしています。
 その1つが、翁長氏が唱える「オール沖縄」「イデオロギーよりアイデンティティ」の正体です。

  翁長氏はこの本でも、「自民党出身という政治経歴からいっても、私は日米安保体制の重要性を十二分に理解しているつもりです」(107㌻)など、日米安保=軍事同盟支持を再三強調しています。そしてその「日米安保支持」に至るルーツをこう語っています。

 「私は保守政治家の家庭で育ったため、『共産主義国のようになってはいけない。自由主義社会を守ろう』という考えが根っこにあり、そうした中で日米安保体制も支持してきました」(140㌻)

 これは冷戦思考による古典的な「反共主義」そのものです。その思想は今日、次のように継続されています。

 「アジアのリーダー、世界のリーダー、国連でも確固たる地位を占めようとしている日本は、それに見合う品格のある日米安保体制が築けて初めて同じ価値観を共有し、世界の国々と連帯できる資格が持てます」(140㌻)

 翁長氏の「品格のある日米安保体制」とは、アメリカなどと「同じ価値観を共有」し、「日本が、まさに世界の中心で輝く」(安倍首相の年頭所感)ためのものなのです。

  翁長氏は「オール沖縄」で知事選に出馬したいきさつをこう語っています。

 「二〇一四年の知事選に向けて、私は保守側からも革新側からも出馬の要請を受けました。・・・革新側には、こんなふうに注文をつけました。『私は日米安保体制を重要だと考えている点で、あなた方とは立場が違う。ただ、沖縄に基地が集中した状態がこれからも続くことに対しては、うちなーんちゅとして絶対に許せない・・・あなた方各政党にもいろいろ考えがあるだろう。しかし、私が右から左に腹八分、腹六分で真ん中に寄ったように、あなた方も腹八分、腹六分で真ん中に寄ってこなければ、一緒にはやれない』・・・『イデオロギーよりアイデンティティ』を優先し、『オール沖縄』で立ち向かわなければ基地問題は解決しない」(191~192㌻)

 この結果、翁長氏と「革新側」の間で「沖縄県知事選挙にのぞむ基本姿勢および組織協定」(2014年9月13日)が調印され、「オール沖縄」の候補として翁長氏の出馬が決定したわけです(写真中)。

 ところが不思議なことに、『戦う民意』は知事選からの「経緯を見る」といいながら、この「基本姿勢および組織協定」のことには一言も触れていません。それどころかこう言っています。

 「(知事)選挙の争点はただ一つ、米軍普天間基地の辺野古移設でした」(22㌻)

 「私と仲井眞さんの政策の違いは、辺野古埋め立て承認の是非以外にはありませんでした」(24㌻)

 冗談ではありません。「革新側」と調印した「基本姿勢」、即ち知事選の争点には何が明記されていたか。

 「・米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設断念を求めます。オスプレイ配備を撤回させ、新たな基地は造らせません。
  ・くらしと経済を壊すTPP(環太平洋連携協定)と消費税増税に反対します。
  ・憲法9条を守り、県民のくらしの中に憲法を生かします。解釈改憲に反対し、特定秘密保護法の廃止を求めます。
  ・自然環境の保全、回復に力を入れます」(2014年9月15日付「赤旗」)

 この「基本姿勢」はけっして十分なものではありません。「高江ヘリパッド反対」も「那覇軍港移設反対」も「嘉手納基地縮小・撤去」も「自衛隊配備反対」もありません。まして「日米安保反対」などありません。その意味で「革新側」が「腹八分、六分」どころか大幅に譲歩(後退)したものです。

 ところが翁長氏の念頭からはその不十分な「基本姿勢」さえ消え失せ(というより初めから無いのだと思いますが)、「選挙の争点」、仲井眞前知事との「政策の違い」は「辺野古移設」の「ただ一つ」だったというのです。

 それを実証するように、翁長氏は知事就任後、「解釈改憲」の最たるものである戦争(安保)法案に反対せず、TPPにも正面から反対せず、泡瀬干潟の自然を破壊する埋め立ては推進し、果ては「オスプレイ反対」も直接政府に求めることはしないなど、「基本姿勢」を踏みにじり続けています。
 それどころか逆に、「基本姿勢」に反する普天間の「県外移設」を臆面もなく繰り返しています。

 以上の①と②は何を示しているでしょうか。
 「イデオロギーよりアイデンティティ」と言いながら、翁長氏自身は「反共主義」をルーツとし、アメリカなどと「価値観を共有」して「世界のリーダー」になるという強固なイデオロギーに基づいて、「品格ある日米安保」を唱えているのです。
 そして「腹八分、六分」と言って「革新側」に大幅譲歩させながら、自分は何ひとつ譲ることなく自民党幹事長当時からの「政策」を堅持し、さらにその「革新側」と調印した「基本姿勢」すら守る意思はないということです。「真ん中に寄る」どころか、自分は「右」に居座り続けながら、「革新側」だけを「右」に引き寄せているのです。

 これが翁長氏の「イデオロギーよりアイデンティティ」「オール沖縄」の正体です。

 「革新側」はこの事実を、いつまで見て見ぬふりをするのでしょうか。


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キネマ旬報ベストテン映画と天皇制

2016年01月11日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 7日発表された2015年公開日本映画のキネマ旬報ベストテンで、第2位に「野火」(大岡昇平原作、塚本晋也監督・主演)が選ばれました。「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作、原田真人監督)はベストテンに入りませんでした。

 両作品は、「戦後70年」に公開された「2つの戦争映画」として注目されました(8月25日のブログ参照。http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20150825)。
 キネマ旬報が「野火」を第2位とし、「長い日」を選外としたのは、同誌(映画関係者)の良識がいまだ健在であることを示したものとして評価されます。

 先のブログで書いたように、「長い日」の最大の特徴は、天皇裕仁を准主役として描き、美化したことです(写真中は天皇裕仁を演じた本木雅弘さん)。この点で、四方田犬彦氏(映画史・比較文学研究家)が興味深い指摘をしています。

 「この作品(「長い日」)が描きだす裕仁像は、『昭和天皇実録』が夥しい資料を巧みにモンタージュして浮かび上がらせてみせた裕仁像、つまり平和の実現のために努力を惜しまなかった誠実な権力者の映像に対応している。両者が同じ年に発表されたことは偶然ではない。原田は天皇裕仁をスクリーンに登場させることによって、彼の本質を逆に隠蔽し、その歴史的役割を批判的に考察する機会を観客から奪ってしまった」(「世界」1月号)

 原田監督はラジオのインタビューで、自ら『昭和天皇実録』を読んで脚本を書き、撮影したと述べています(2015年8月7日NHK)から、四方田氏の指摘は正鵠を得ています。

 ところで、キネマ旬報の第1位は、「恋人たち」(原作・脚本・監督・橋口亮輔)でした。「不器用だがひたむきに日々を生きる3人の“恋人たち”が、もがき苦しみながらも、人と人とのつながりをとおして、ありふれた日常のかけがえのなさに気づいていく姿」(チラシ)を描いた秀作です。

 その「恋人たち」にも、実は「象徴天皇制」が描かれているのです。
 それは、冒頭近くともう1回(記憶が正しければ)出てくる、「皇太子妃」雅子さんの実写映像です。3人の主人公のうちの1人、「退屈な日常に突如現れた男に心が揺れ動く平凡な主婦」(チラシ)が、せんべいをかじりながら、テレビに映った「雅子妃」に喜々として見入る場面と、その主婦がパート仲間と一緒に沿道で雅子さんに「日の丸」を振るシーンです。

 チラシでも橋口監督のブログや座談会などでもこのシーンについては触れられていませんが、私にはとても印象的でした。橋口監督はどういう意図で「雅子映像」を使ったのでしょうか。
 監督自身の口からその意図を聞くことはできていませんが、「雅子妃」が、「退屈な日常」を生きる中で「突如現れた男に心が揺れ」、「人と人とのつながりをとおして、ありふれた日常のかけがえのなさに気づいていく」「平凡な主婦」と対比させられていることは確かです。それで何を言いたかったのでしょうか。

 「日本のいちばん長い日」は、故岡本喜八監督作品(1967年)のリメイクです。岡本監督は乗り気ではなかったけれど会社の方針で撮らざるをえず、悩んだ岡本監督は「長い日」の完成直後、映画「肉弾」を自費制作し、いち特攻兵士の視点から戦争を描き直した、と言われています。
 岡本作品の中の「昭和天皇」は、すだれの向こうでしゃべることもない「殿上人」として描かれています。原田作品とはまったく別世界です。原田監督は岡本作品と比較して、「今は昭和天皇の人間性を描けるようになった」と語っています。

 橋口監督の「雅子映像」も、今日における「皇室・象徴天皇制」を映画に取り込んだものの1つと言えるでしょう。
 時代が昭和から平成へ、そして次の代へ変遷する中で、「皇室・天皇制」を映画・テレビ・小説で描くことが増えてくるかもしれません。その「表現の自由」は尊重されなければなりません。
 同時に、「皇室・天皇制」をどういう視点で描くのか。どういう眼をもって観るのか。作り手と受け手の双方に、(象徴)天皇制の歴史、日本社会の中で果たしている役割、そしてその「将来」についての見識が問われるのではないでしょうか。


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年頭、翁長知事の数かずの問題発言

2016年01月09日 | 沖縄・翁長知事

  

 辺野古をめぐる訴訟は、8日の「代執行訴訟第2回口頭弁論」で今年の幕を開けました。
 翁長雄志知事は同日、公判に先立つの県民集会で、「ぶれずに頑張る」(9日付沖縄タイムス)と「決意」表明しました(写真左。中は集会参加者=琉球新報、沖縄タイムスより)。
 しかし、県紙などに掲載された翁長氏の「年頭見解」には多くの問題点があり、その「決意」には重大な疑念を抱かざるをえません。

 ①「辺野古阻止」の決意のない「年頭あいさつ」

 5日付琉球新報に掲載された「知事年頭あいさつ」は、新聞の行数で192行におよぶ長文でしたが、この中で「米軍基地の問題」に触れたのは、33行(17%)にすぎません。しかもその大半は昨年(過去)の話で、今年の抱負らしきものは、「私たち責任世代が・・・後ろ姿を子どもたちに見せることによって・・・沖縄の未来を切り開く力になるのだと思う」という一般論・精神論がわずか11行(0・6%)。訴訟の勝利、辺野古新基地阻止への今年の「決意」は一言もありませんでした。

 ②「辺野古」・・・「30~50㌶埋め立ては十分ありうる」

 1日付沖縄タイムス「翁長知事に聞く」の中で、「辺野古移設阻止の見通しは」との質問に、翁長氏はこう答えました。

 「辺野古基地は絶対できない(「造らせない」ではなく「できない」です-引用者)ということは私自身、確信している。ただ、例えば30㌶、50㌶と埋め立てられ、それが計画中止になって残骸として残ったときに、この勝算というのは、どっちがどうだったとなる。造れなかったという意味では日米安保体制というのがおかしくなるだろうし、30でも50でも埋め立てられたら、私たちの大浦湾が厳しい環境になってしまう。どちらにも益のないような結論で終わる可能性も十分にある」

 50㌶といえば東京ドームの1・1倍です。翁長氏は大浦湾がそれくらいは埋め立てられる「可能性も十分にある」と言うのです。いったい、どういう姿勢で「辺野古問題」に臨んでいるのでしょうか。

 ③「高江ヘリパッド」・・・「今は辺野古一点に絞っている」と後回し

 1日付琉球新報のインタビューで、「那覇軍港、高江ヘリパッドについての見解を」と聞かれ、こう答えています。

 「今、心一つでやっているのは辺野古新基地を造らせないということを、日本の安全保障体制を含めて国民全体で考えてもらいたいとの主張をするために一点に絞ってやっている。一つ一つということも、やぶさかではないが、当面は物事を前に進め、本土、世界に理解してもらえるようにしないといけない

 さすがにこれだけではまずいと思ったのか、「高江の問題は、オスプレイの配備撤回ということで・・・そこに収斂される」と付け加えました。これは知事選の時と同じで、要は、高江のヘリパッドには正面から反対しないということ。良くて後回しだということです。

 ④普天間跡地のディズニー誘致・・・「(説明を)聞いて判断」と反対せず

 1日付「赤旗」の「会見要旨」で、宜野湾市の佐喜眞淳市長が選挙目当てに持ち出している「普天間基地跡地へのディズニーリゾート誘致」について見解を聞かれ、翁長氏はこう答えています。

 「普天間飛行場の跡地利用は、沖縄県と宜野湾市が一緒になって計画の策定をしてきております。ある意味突然であり、宜野湾市側から出た話なのかもよく分かりませんので、この辺のところを聞いたりして判断をしたい

 置いてけぼりにしないで「誘致話」に参加させよ、ということです。

 ⑤宜野湾市長選・・・負けたら「過去の民意は一切関係なくなる」

 同「赤旗」で、宜野湾市長選(1月24日投開票)について、こう述べています。

 「宜野湾で勝って、しっかりとした民意という形でやっていきたいと思います。ここで万が一ということがありますと、過去の選挙のものは一切民意とは関係なくして、ここだけの民意だという話になります

 同じことは、昨年12月22日の報道各社のインタビューでも言っています。
 「宜野湾で勝ち、しっかりした民意でやっていきたい。万が一があると、過去の選挙の民意は一切関係ないという話になる」(12月23日付琉球新報)

 冗談ではありません。宜野湾市長選で翁長派の候補が負けたからといって、どうしてそれで「過去の選挙の民意は一切関係ないという話になる」のですか。それはまさに安倍政権の言い分そのものではありませんか。それとも「宜野湾市長選の敗北」を、「辺野古」から距離を置く口実にするつもりですか。
 宜野湾市長選の結果にかかわらず、絶対に辺野古に新基地を造らせてはならなういことになんら変わりはありません。

 宜野湾市長選、県議選、参院選と選挙が相次ぐ沖縄。そのたびに、翁長氏の実態が露わになってくるでしょう。沖縄は今年、大きな岐路に立つと思います。

 ※火曜、木曜、土曜に更新してきましたが、書きたいテーマがたまっているので、当分月曜日も書きます。次回は11日です。よろしくお願いいたします。


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「北朝鮮の核実験」と戦争法制

2016年01月07日 | 戦争・安倍政権

  

 北朝鮮の核実験(6日)は、言語道断、強く非難されるべきです。
 同時に重要なのは、この事態に対し、日本は、私たちは、何をすべきかです。

 安倍首相は早々に「独自制裁」を含め「断固たる措置」をとると強硬姿勢を見せました。大手メディアも一様にそれに呼応するように、「国際包囲網の強化・再構築」を主張しています。
 それでいいのでしょうか。

 第1に確認する必要があるのは、「核抑止力」論の誤りです。
 金正恩・第1書記が「核保有国の仲間入り」をアメリカや中国などに対する「外交手段」にしようとしているのは、「核抑止力」論の妄想にはまり込んでいるからにほかなりません。

 これに対し、「核武装は無謀な体制の維持に何ら役立たない。むしろ破滅へと導く逆効果しか生まない」(7日付朝日新聞社説)という指摘はその通りです。
 しかし重要なのは、この指摘は北朝鮮にだけ該当するものではないということです。

 アメリカをじはじめとする核保有大国は、自分たちの核保有・核実験は棚上げし、「小国」のそれを非難・攻撃し、核兵器を独占しようとする。それが世界の核兵器廃絶を阻害している元凶です。国連安保理も核保有大国で占められています。
 重要なのは、日本が日米安保条約によってアメリカの「核の傘」に入り、その大国主義の一端を担っていることです。

 北朝鮮の核実験・核保有を批判・非難するのは当然ですが、同時に、その矛先はアメリカをはじめとする核保有大国にも向けなければなりません。そして「核抑止力」論そのものを打破しなければなりません。北朝鮮だけを批判・非難するダブルスタンダードから脱しない限り、根本的解決はありえません。

 第2に考える必要があるのは、安倍首相や大手メディアが主張する「国際包囲網」とは何かということです。
 「日本は、米韓両国との連携を改めて固めたうえで、中露などと協力して国際包囲網の再構築を図るべきである」(7日付毎日新聞社説)
 「北朝鮮政策で結束する日本、米国、韓国にとっても、正念場である。改めて共通の立場を確認し、中国・ロシアとの協調も探り、北朝鮮に一致して対応する態勢を固めるべきだ」(7日付朝日新聞社説)
 
 安倍首相や大手メディアが主張する「国際包囲網」とは、日・米・韓同盟=軍事同盟を中心に、中国、ロシアを加えた軍事力(「経済制裁」を含む)による包囲網、軍事ブロックの強化にほかなりません。

 そして今りわけ重大なのは、昨年安倍政権が強行成立させた戦争(安保)法制が、施行(3月)目前だということです。
 戦争法によって、「北朝鮮の核の脅威」を口実にした日米韓の「包囲網」=軍事ブロックに、日本の軍隊(自衛隊)が加わることになるのです。

 今回のことでその問題に触れた新聞の社説は、私が見た限り、東京新聞だけでした。
 「昨年成立した安全保障関連法は朝鮮半島有事など、『重要影響事態』での自衛隊の後方支援などを定める。国際情勢の変化に応じて防衛力を適切に整備するのは当然だが、北朝鮮の脅威を名目に『軍事力』強化を加速させてはなるまい」(7日付東京新聞社説)

 戦争法を想起させたことは評価しますが、下線部はとうてい賛成できません。また「軍事力強化を加速させてはなるまい」という悠長な問題でもありません。

 東アジア情勢が「緊迫」すればするほど、「制裁」や「軍事力」による「包囲網」ではなく、「対話」の促進こそ模索すべきです。それが「拉致問題」解決への道でもあります。
 そのためにも、日米軍事同盟強化・集団的自衛権行使の戦争法を廃止することがまさに急務であり、それこそが私たちに課せられた責任ではないでしょうか。
 
 沖縄戦で撃沈された「対馬丸の」生存者・上原清さん(81)はこう訴えています。
 「政府は平和外交に徹してほしい。圧力ではなく対話を重視し、国連を通じて話し合いで問題を解決すべきだ」(7日付琉球新報)
 戦争体験者のこの思いを共有したいと思います。


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「天皇の国会開会式出席」はやはりおかしい

2016年01月05日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 4日、日本共産党は結党以来初めて党の方針として、天皇が出席する国会開会式に出席しました。
 この方針転換はきわめて不可解であり、94年の党史に大きな汚点を残すものと言わざるをえません。
 同時に、自民党が「天皇元首化」を図ろうとしているまさにその時だけに、たんに共産党の問題にとどまらない重大性を持つものとして見過ごせません。

 志位和夫委員長(写真中は議場で天皇に頭を下げる志位氏=テレビニュースから)は、方針転換を明らかにした昨年12月24日の記者会見で、これまで欠席してきた理由として「おもに二つの点」を挙げました(以下、引用はすべて同12月25日付「赤旗」より)。

 「第一に、開会式の形式が、『主権在君』の原則にたち、議会は立法権を握る天皇の『協賛』機関にすぎなかった、戦前の大日本帝国憲法下の『開院式』の形式をそのまま踏襲するものになっているということ」(以下A)

 「第二に、以前の開会式では天皇の『お言葉』のなかに、米国政府や自民党政府の内外政策を賛美・肯定するなど、国政に関する政治的発言が含まれていました。これは、日本国憲法が定めている、天皇は『国政に関する権能を有しない』という制限規定に明らかに違反する」(以下B)

 Aは「現在においても変わりがない」が、Bは「天皇の発言に変化が見られ、この三十数年来は、儀礼的・形式的なものとなってい」るとし、「日本共産党としては、三十数年来の開会式での天皇発言の内容に、憲法上の問題がなくなっていることを踏まえ、今後、国会の開会式に出席する」と述べました。

 まず、これまで欠席してきた「2つの理由」のうち、1つ(B)が仮に「問題ない」としても、もう1つ(A)は問題があるままです。それは共産党自身認めているのです。つまり天皇出席の開会式に憲法上の疑義があることは解消されていない。それなのになぜ「欠席」から「出席」へ方針転換できるのでしょうか。

 開会式出席後の記者会見で、志位氏は、「高い玉座が設けられ(天皇の)お言葉を賜るという形式は日本国憲法の主権在民の原則に反する」(5日付朝日新聞)と繰り返し、「改善を求めつつ出席を続ける」(同)考えを示しました。
 共産党が求める「改善」とは何ですか?「玉座」も「お言葉」もない天皇の出席がありうると考えているのですか?
 12月24日の記者会見で、「開会式の改革を実現するうえでも出席するとはどういうことか」と聞かれた志位氏は、「わが党が天皇制反対という立場で欠席しているとの、いらぬ誤解を招」くからだと答えました。この「理屈」にどれだけの人が納得するでしょうか。いま共産党に問われているのは、天皇制自体の賛否ではなく、「戦前の大日本帝国憲法下の『開院式』の形式をそのまま踏襲する」(A)開会式になぜ出席するのか、ということです。
 
 次に、共産党が方針転換した理由のBはどうでしょうか。

 1989年2月10日の第114回国会開会式で、天皇明仁は「お言葉」でこう述べました。
 「我が国は、今日まで、幾多の苦難を乗り越え、国民の英知とたゆまない努力により、国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。内外の諸情勢が変動する中で、我が国は、国民福祉の一層の向上を図るため不断に努力するとともに、世界の平和と繁栄を目指し、自然と文化を愛する国家として広く貢献することが期待されています」(宮内庁HPより)

 1989年といえば、その前年1988年8月にリクルート事件が発覚し、12月には消費税法案が成立、89年4月から消費税がスタートするという政治状況の中で、自民党政治に対する不満・批判が高まっていた時です。

 まさにその時に、「国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました」という天皇明仁の言葉が、「自民党政府の内外政策を賛美・肯定する」「国政に関する政治的発言」でなくてなんでしょうか。
 この発言は27年前のものです。これでも「三十数年来問題ない」と言えますか?

 さらに重大なのは、天皇の国会開会式出席が憲法上問題なのは、共産党がいうAとBだけではないということです。
 憲法第4条は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と厳格に定めています。
 そしてその「国事行為」は、第6条(①首相任命②最高裁長官任命)と第7条の10項目に明記されています。天皇の国会出席・「お言葉」はそのどこにも記されていません。第7条の2項目に「国会を召集すること」とありますが、これと開会式出席は別です。宮内庁は「天皇陛下のご活動」の説明で、「国事行為に関連して、国会開会式に毎回ご出席になる」(HPより)としています。「関連して」と言わざるをえないのは、それが国事行為でないことが分かっているからです。

 天皇の国会開会式出席が憲法から逸脱していることは憲法学上の定説です。
 「天皇を外交上元首として扱ったり、さらには制度化されていないいわゆる天皇の『公的行為』の拡大によって天皇の政治性、権威性をさらに高めようとする試みが行われている。その例としては、一九四七年以来の国会開会式への出席と『お言葉』の朗読・・・などをあげることができる」(舟越耿一著『天皇制と民主主義』)

 憲法にない「公的行為」こそ、「天皇の政治性、権威性」を高め、天皇の政治利用を強めるための脱法手法にほかなりません。「3・11」東日本大震災直後の天皇の「ビデオメッセージ」以降、とくにその拡大を図ろうとする動きは顕著です。来る「フィリピン訪問」もその1つです。

 「赤旗」(4日付)は、安倍政権・防衛省が、統幕議長や陸幕長を天皇の「認証」を受ける「認証官」に“格上げ”することを検討しているとスクープしましたが、これも天皇の政治利用策動の一つです。

 憲法を逸脱したこうした天皇の「公的行為」の拡大、政治利用の強化、その行きつく先が、自民党改憲草案の「天皇元首化」であることは言うまでもありません。

 天皇の国会開会式出席は、その「形式」や「お言葉」の内容いかんにかかわらず、出席すること自体が「主権在民」に反し、「国事行為」から逸脱した憲法違反なのです。共産党もかつてはそう主張していたではありませんか。

 安倍政権がいよいよ天皇元首化の改憲に乗り出そうとしている時、共産党の方針転換とは逆に、天皇の「政治性・権威性」の拡大・政治利用を図るあらゆる策動に反対し、阻止することがますます重要になっています。


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見過ごせない「天皇新年の感想」の“異変”

2016年01月02日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 天皇は毎年元日付で「新年の感想」を発表します。今年のそれには、例年にない文言が含まれていました。該当部分を引用します。

 「私どもの住む日本は誠に美しい自然に恵まれている一方、自然災害を受けやすい環境にあり、今年も日本人一人ひとりが防災の心を培うとともに、お互いが気を付け合って、身を守る努力を続けられることを心より希望しています」(宮内庁HPより)

 天皇は「日本人」に防災を呼び掛けたのです。しかし、いうまでもなく日本に住んでいるのは「日本人」だけではありません。在日コリアンをはじめ多くの外国人が生活しています。日本国籍を取得している人も、そうでない人も。天皇のこの「感想」からはそうした在日外国人は排除されているのです。

 そんなに深い意味ではなく「日本に住んでいる人」くらいのつもりで使ったのだろう、と思われるかもしれませんが、ことはそう簡単ではありません。なぜなら、明仁天皇の「新年の感想」は即位以降今回で27回目になりますが、これまで「国民」「この国の人々」「人々」とは言うものの、「日本人」という言葉は一度も使ったことがないからです。

 例えば昨年の「新年の感想」でも「防災」について述べていますが、そこでは、「それぞれ地域の人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくこと」と言っています。宮内庁のHPには英文も掲載されていますが、昨年「people」であったものが今年は「Japanese」。違いは歴然です。

 天皇のこの「日本人」が、安倍首相の「年頭所感」の次の言葉と重なるのです。
 「日本が、まさに世界の中心で輝く一年だ。しっかりとリーダーシップを発揮していく」

 偏狂なナショナリズムは民族差別と表裏一体です。それは「戦争をする国」の思想的・精神的底流でもあります。憲法違反の戦争法を強行した安倍晋三首相の下で、「偏狂ナショナリズム」が広がることが危惧されます。そうした中での天皇の「日本人」発言は、けっして軽視できません。 

 昨年の通常国会に野党は人種差別撤廃法案を提出しましたが、成立しませんでした(継続審査)。本来は1995年に日本が人種差別撤廃条約に加盟した時点で制定しておかねばならなかったものです。その後国連人種差別撤廃委員会から包括的な人種差別禁止法を制定するよう3回も勧告されながら、日本はいまだに制定していません。

 弁護士の師岡康子さんによれば、定住外国人に対する各国の政策を比較した国連の2010年の調査では、差別禁止に関する項目で日本は100点満点の14点、39カ国中最下位で、「致命的に遅れている」と批判されています。
 師岡さんは、「差別禁止を宣言する法案すら通らず、排外主義と闘う法も政策も全く整備されていない日本の状況は極めて特異である」(2015年12月11日付中国新聞)と指摘します。

 昨年末にあらためて表面化した、「難民」問題、「慰安婦」問題、選択的夫婦別姓の不許可、そして「沖縄の基地問題」などは、すべてその根底に「差別」が深く根を張っています。そうした日本の「差別構造」の頂点に立つのが、(象徴)天皇制にほかなりません。

 安倍政権の歴史修正主義、日米軍事同盟強化、格差拡大の新自由主義とたたかい、日本の新たな道を切り拓くことは、“内なる天皇制”を含め「極めて特異」な差別構造・差別社会を克服することと一体不可分です。それは同時に、自分に染みついた思想・精神を洗い直し、自分の生き方を問い直すことでもある、と痛感する年頭です。

 


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