アリの一言 

オキナワ、天皇制、朝鮮半島の現実と歴史などから、
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天皇・皇后訪比① 「フィリピン独立」と「マニラ戦」の虚実

2016年02月01日 | 戦争・天皇

  

 天皇・皇后のフィリピン訪問(26日~30日)については、23日のブログでその背景について考えました。(http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160123
 今日から3回にわたり、実際の訪問内容にそって、今回の「天皇・皇后訪比」が持つ意味を考えます。

 1回目は、天皇が行った2つの公式「あいさつ」―出発時の羽田空港(26日、写真左)と晩さん会(27日、写真中)の中で触れた「フィリピンの独立」と「マニラ市街戦」について、メディアが礼賛するその発言内容とは裏腹に、彼があえて言わなかった事実に注目します。

 (1)「フィリピンの独立」を妨害した「天皇制帝国日本」

 「晩さん会あいさつ」で天皇は、ホセ・リサール(1861~1896)の名を2回出し、「スペイン支配」からの「独立」を目指した「国民的英雄」として讃えました。「あいさつ」で賛美しただけでなく、午前中にリサールの記念碑を訪れ、供花さえ行いました。

 しかし、「フィリピンの独立」を言うなら、1世紀以上前の「対スペイン」ではなく、今日に続く「アメリカからの独立」こそ取り上げるべきではないでしょうか。天皇はなせ「アメリカからの独立」に触れなかったのか。
 それは、成就しかけた「アメリカからの独立」を妨害したのが、日本(天皇制帝国日本)にほかならないからではないのでしょうか。

 「戦前にアメリカからの独立を果たす目前まできたところで日本の侵略を受けたフィリピンには、他の東南アジア諸国と違う(日本に対する―引用者)思いがあった」(若宮啓文氏、『戦後70年・保守のアジア観』)

 そのため、東京裁判ではフィリピンの判事(ハラニーニャ)はA級戦犯に対し「全員死刑」という最も厳しい判決を主張しました。そしてさらに、サンフランシスコ講和条約(1951年)に出席した同国のロムロ外相は、日本に対し、こう述べたのです。

 「われわれが許しと友情の手を差し伸べる前に、あなたがたから精神的悔悟と再生の証拠を示してもらわねばならない」(鹿島平和研究所『日本外交史27』、若宮氏前著より)

 「フィリピンの独立」を妨害した日本の責任は、けっして過去のものではありません。

 「フィリピンの今日の政治的・経済的に困難な問題は、その源をたどれば未完のフィリピン革命とアメリカ植民地政策にゆきつくものが多い。それだけにフィリピン人にとって歴史は過去を問うだけでなく、現在を問い、未来を切り開くために必要なものである。そして、その歴史に日本人が大きくかかわってきたことを、日本人は考える必要があるだろう」(早瀬晋三氏、『未完のフィリピン革命と植民地化』)

 (2)マニラ市街戦の惨禍と天皇裕仁の責任

 天皇は2つの「あいさつ」でいずれも「マニラの市街戦」にふれました。
 「マニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」(26日)
 「この戦争においては、貴国の国内においては日米両国の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないこと」(27日)

 1945年2月3日、アメリカ軍のマニラ入城で火ぶたが切られた市街戦(~3月)などで、フィリピン人約110万人が戦闘や日本軍による虐殺で犠牲になりました。1941年12月8日の東南アジア侵攻(真珠湾攻撃より早い)で開戦したアジア・太平洋戦争の最高責任者である天皇裕仁にその大局的責任があることは言うまでもありません。
 しかし、マニラ戦(フィリピンの膨大な犠牲)における天皇裕仁の責任は、それだけではすみません。

 日本の敗戦が誰の目にも明らかになった1945年初頭から、近衛文麿元首相を中心に、「国体護持」(天皇制維持)を最優先にした「和平交渉」が本格的に模索されます。近衛は米内光政らとも内々に話し合った結果、天皇裕仁に「戦争の即時終結」を進言します。いわゆる「近衛上奏」です。しかし、裕仁はこれを拒否し、戦争を続行したのです。

 「上奏文のなかで近衛は、『敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候』として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって『共産革命』が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、『もう一度戦果を挙げてからでないとなかなかむずかしいと思う』と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである」(吉田裕氏、『昭和天皇の終戦史』)

 「近衛上奏」は1945年2月14日。天皇裕仁が近衛の進言を受け入れていれば、マニラ市街戦(2~3月)で大きな犠牲を出すことはありませんでした。そして、東京大空襲(3月10日)も沖縄戦(4月1日~)も、広島(8月6日)・長崎(同9日)への原爆投下もなかったのです。

 戦争における「フィリピン市民の犠牲」を口にするなら、「無辜の市民が犠牲になりました」などという評論家的な言葉ではなく、まず、父親である天皇裕仁の責任(開戦から終戦引き延ばしまで)に対する謝罪の言葉があってしかるべきではなかったでしょうか。
 それが「精神的悔悟と再生の証拠」(ロムロ外相)というものではないでしょうか。

 「日本人が決して忘れてはならない」のは、真実の歴史であって、隠ぺい・美化された虚偽の「歴史」ではありません。

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