アリの一言 

オキナワ、天皇制、朝鮮半島の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

明仁天皇と福沢諭吉

2018年03月01日 | 天皇・天皇制

     
 
 1万円札の肖像画となって今も生き続けている(?)福沢諭吉が、明治時代の「富国強兵、朝鮮・中国侵略」にいかに犯罪的な役割を果たしたかを先に見ましたが(2月3日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20180203)、福沢はほかにも思わぬところで現在も影響力を持ち続けています。天皇明仁との関係です。

 皇太子時代の明仁天皇の教育係としてはアメリカのバイニング夫人がよく知られていますが、もう1人、大きな影響力を及ぼした教育係がいました。小泉信三です(写真右。『明仁天皇と平和主義』より)。

 「一九四九年に皇太子教育の事実上の責任者となった小泉信三は、悩める(象徴天皇制下の皇太子のありかた―引用者)皇太子に振る舞い方の軸を作っていった。小泉は慶應義塾長を一〇年以上務めた経済学者であり、教育者としても、マルクス主義批判者としても著名であった」(瀬畑源長野県短期大学助教、『平成の天皇制とは何か』岩波書店収録)

 「小泉は…父は、福沢諭吉の高弟で慶應義塾塾長を務めた信吉。その父に六歳で死別した後、諭吉の邸内で諭吉に見守られながら成長した」(吉田伸弥読売新聞編集委員、『天皇への道』講談社文庫)

 根っからの福沢信奉者である小泉を教育係に推挙したのは、友人の田島道治宮内府(現在の宮内庁)長官でした。

 「田島が長官に就任した際に、小泉は福澤諭吉の『帝室論』と『尊王論』を合本したものを贈って激励した。おそらく田島はこの本を読んだ上で、小泉がその任に適切であると判断したと思われる」(瀬畑氏、同前)

 事実、小泉は『帝室論』『尊王論』を明仁教育のテキストに使いました。

 「明仁皇太子は後に、こうした小泉からことあるごとに大きな影響を受けたことを語っている。例えば四三歳の誕生日を前にした記者会見で、自分に影響を与えた人物として、『私の場合、小泉先生、安倍院長(安倍能成学習院長―引用者)、坪井博士(坪井忠二東大教授―同)と三人いました。小泉先生は常時「参与」という形で…私はその影響を非常に受けました』と述べている。小泉は毎週火曜と金曜に各二時間の授業を行った。テキストとして用いたのは『ジョージ五世伝』(イギリス国王の公式伝記。ハロルド・ニコルソン著―引用者)の原書、および福沢諭吉の『帝室論』『尊王論』等である」(斉藤利彦学習院大教授、『明仁天皇と平和主義』朝日新書)

 「小泉信三は福沢諭吉の『帝室論』や幸田露伴の『運命』を明仁親王と代わる代わる音読した」(吉田伸弥氏、同前)

 では『帝室論』『尊王論』には何が書かれていたでしょうか。

 小泉自身はこう語っています。

 「皇室は政治の外に仰ぐべきものであり、またかくしてこそ初めて尊厳は永遠のものとなる。…然らば皇室の御任務はいずこに存するのであるか。それは実に日本民心融和の中心とならせらるることである、と福沢は言うのである」(小泉信三『ジョージ五世伝と帝室論』、吉田伸弥氏同前より)

 この小泉の「解説」はきわめて一面的と言わねばなりません。『帝室論』『尊王論』で福沢が語っている「天皇(制)論」はそれだけではありません。

 「我日本…内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張す可きものなり。…(日本の軍人は)帝室の為に進退し、帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて、始めて戦陣に向て一命をも致す可きのみ」(『帝室論』福沢諭吉全集第8巻)

 「帝室は人身収攬の中心と為りて国民政治論の軋轢を緩和し、海陸軍人の精神を制して其向ふ所を知らしめ、孝子節婦有効の者を賞して全国の徳風を篤くし…」(同、全集第5巻)

 「軍備を拡張…増税…理論を離れて人情に訴へ、日本国中の人は悉皆天皇陛下の臣子にして良民たるを…抵当にして…」(「東洋の政略果して如何せん」全集第8巻―「みな天皇の臣子」を口実にした軍拡のための増税論)

 「政府が天皇陛下の聖意を体して、果して軍備拡張…其全力を軍費に充てるの工風専一なる可し」(海防費用の下賜)全集第11巻)

 「帝室は日本国内無数の家族の中に就いて最も古く…帝室以前日本に家族なく皇統連綿として久しきのみならず、列聖の遺徳も今尚ほ分明にして…天下万民の共に仰ぐ所にして、其神聖尊厳は人情の世界に於いて決して偶然に非ざるを知る可し」(『尊王論』全集第6巻)

 (以上、全集からの抜粋は、安川寿之輔著『福沢諭吉のアジア認識』高文研より)

 福沢において「天皇」は、国内を統治し、軍人を海外侵略に向かわせる要です。まさに「教育勅語」「軍人勅諭」の基本思想にほかなりません。

 明仁天皇は小泉信三からこうした福沢の「天皇(制)論」を叩き込まれ、「その影響を非常に受け」たのです。実際、それは明仁が天皇になってから具体化されていきました(後日具体的に検証します)。

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