アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

沖縄基地「引き取り」論・高橋哲哉氏と目取真俊氏

2020年02月25日 | 日米安保・沖縄

    

 辺野古新基地建設の県民投票1年にあたり、沖縄タイムスが「本土よ」と題するインタビュー連載を行っています。その中で、いずれも辺野古新基地に反対し活発な活動を行っている高橋哲哉氏(東大大学院教授)と目取真俊氏(作家)が、沖縄の米軍基地を「本土」に引き取るべきだとする「基地引き取り」論をめぐって対照的な主張を行っています(17日付と18日付)。

 「引き取り」論の先駆者といえる高橋氏は、「構造的差別がある以上、差別する側がそれをやめなければいけない」と主張。沖縄の米軍基地の存在は、「本土」による「構造的差別」の表れだから「差別する側」=「本土」が基地を引き取るべきだ、という同論の神髄です。

 「本土」の各地で行われている「引き取る」運動について高橋氏は、「大阪の会が15年に立ち上がってから、全国10カ所程度に広がったことは当初の想定を超えていた。…個人の自発的な意思に基づいて市民が集まっていることに希望を感じている」とし、これは「引き取るまでは決意できない、という人たちにもオープンな運動だ」と述べています。この点は、従来の同氏の主張にくらべて柔軟性を感じます。

 これに対し目取真氏は、「基地を引き取るという人は、どの基地をどこにいつまでに引き取るのか。具体的に示すべきだ」とし、「(差別している本土に持っていけ、というのは―引用者)心情としては分かるが、辺野古の現実とはかけ離れている」「もちろんヤマトゥには基地を沖縄に押し付けている責任がある。だから、自腹を切って現場に足を運び、ゲート前に座り込み、船やカヌーで海に出てほしい」なすべきことはまず現場に集まって工事を止めることだ。千人集まれば止まる」と主張します。実際に連日辺野古の現場でカヌーに乗ってたたかっている同氏らしい現場重視です。

 「引き取り」論について、私はその思想には反対ではありませんが、それを運動化することには賛成できません。しかし、目取真氏が「引き取り」論を「自分のやましさを解消するための虚構だ」「引き取り論はむしろ(新基地反対運動の―引用者)足を引っ張っている」と批判していることには同意できません。私が知る限り、「引き取り」論を主張し運動している人たちは極めて真摯です。「引き取り」論・運動が現場のたたかいと矛盾するとも思えません。

 目取真氏のインタビューで最も疑問なのは、同氏が日米安保条約について一言も触れていないことです。高橋氏は「私は安保反対、基地反対という戦後護憲派の中で育ってきた」と婉曲ながらいちおう「安保反対」と言っています(もっと明確に主張すべきですが)。しかし、目取真氏の話に「日米安保」の言葉はまったくありません。

 今回だけではありません。目取真氏は琉球新報に連載コラム(「季刊 目取真俊」)を持っていますが、その1月23日付で、「敗戦から75年の今年、基地問題を原点から考えたい。…米国の顔色をうかがい、代わりの施設を差し出さなければ物事は進まない、という思考自体が、日米両政府の掌の上で踊らされているものだ」と重要な指摘をしています。
 ところが、ここまで主張しながら、その日米関係(軍事同盟)の根拠(元凶)である日米安保条約についてはまったく触れていないのです。

 目取真氏は沖縄タイムスのインタビューで、「植民地主義を言うなら、日本が一番被害を与えているのは朝鮮半島だ。基地を日本のどこに移そうが、殺される側から見れば脅威は変わらない。ヤマトゥと沖縄の二極構造で考えるのはおかしい」と言います。同感です。そうであれば、朝鮮半島に脅威を与えている在日米軍基地の根拠である日米安保条約にはっきり反対し廃棄を主張すべきではないでしょうか。

 「引き取り」論・運動と現場重視の運動は矛盾するものではないでしょう。ただし、いずれもその根底に「日米安保条約反対・廃棄」をはっきり据えるべきです。なぜなら、日米安保条約こそが基地問題(米軍・自衛隊)の元凶だからです。


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