アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

徳仁天皇即位1年・天皇制の不要性を証明

2020年04月30日 | 天皇・天皇制

    
 徳仁天皇が即位して5月1日で1年になります。安倍政権は数々の憲法違反を犯して一連の「代替わり儀式」を繰り広げ(写真)、懸命に天皇制の維持を図ろうとしてきました。
 しかし、そうした政府(国家権力)の思惑とは裏腹に、この1年は天皇制がこの社会に必要ない、いや、あってはならないものであることがあらためて証明された1年ではなかったでしょうか。

 徳仁天皇は即位以来、何をしたでしょうか。ほとんど記憶に残ることはしていません。それは批判すべきことではなく、逆に歓迎すべきことです。

 天皇の影が薄くなった理由の1つは、新型コロナウイルスによって諸行事が中止・延期になったことです。ざっと挙げても、天皇誕生日の一般祝賀、英国訪問、園遊会、全国植樹祭、春の褒章の親授式、そして秋篠宮の「立皇嗣の礼」などが軒並み中止・延期になりました。

 これらの行事が中止・延期になって市民生活に何か影響が生じたでしょうか。何もありません。すなわち、天皇の「公務」といわれているものは、市民にとってはなくても困らない、まさに「不要不急」のものだということです。

 天皇制が不要であることをよりはっきり示しているのは、コロナ禍に対する徳仁天皇の姿勢です。
 4月9日の当ブログで、「徳仁天皇は『ビデオメッセージ』を発してはならない」と書きましたが(https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20200409)、幸い今現在それは発せられていません。

 天皇制維持勢力にとってこれは忸怩たるものがあるようです。例えば、「天皇退位有識者会議」(2017年)で座長を務めた御厨貴氏(元東大教授)は、「気掛かりなのは、新型コロナで皇室の存在が希薄になっていることだ」と危機感をあらわにしたうえで、「東日本大震災の時に上皇さま(明仁―引用者)はビデオメッセージを出した。陛下(徳仁―同)も国民に向けて何らかのパフォーマンスを見せてほしい」(4月14日付中国新聞=共同)と切望しています。

 しかし、天皇の「ビデオメッセージ」は憲法上多くの問題があり、行われてはならないものです。コロナ禍に対しは、天皇として何もしないことが正解です。それが憲法の象徴天皇制の趣旨であることを改めて銘記する必要があります。

 もう1つこの間の注目すべきことは、天皇制に対する「国民」の支持が減退していることです。

 徳仁即位1年を前に、共同通信は皇室に関する世論調査を行いました。その結果、天皇に「親しみを感じる」という回答は58%にすぎませんでした(4月26日付地方各紙)。しかもこの数字さえ額面通りにとることはできません。
 なぜなら、有効回答が63・3%(3000人に調査票を郵送し有効回答は1899)だったからです。調査票に対し「親しみを感じる」と答えて返送した人(選挙の絶対得票率に相当)はわずか36・7%ということになります。「尊くて恐れ多い」「すてきだと思う」など天皇に対する好意的回答をすべて合わせても、調査票に対するその比率は50・6%にすぎません。すなわち、天皇に対する好意的感情を積極的に回答した人は「国民」の約半分にすぎないということです。

 憲法第1条は、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定しています。世論調査の流動性を考慮しても、今回の共同通信の調査結果は、現在の天皇制がおよそ「国民の総意」に基づいているものではないことを示しているのではないでしょうか。憲法第1条に従えば、徳仁天皇は天皇の地位にとどまることはできないのです。

 コロナ禍は、様々な面で、日本が格差と差別の国であることをあらためて私たちに突き付けています。天皇制こそ日本の差別の「象徴」であり元凶です。コロナ感染によって社会の変容が不可避になっているいまこそ、天皇制廃止へ向かう好機ではないでしょうか。


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