カウンタというものがつかないブログが多くなり、「キリ番ゲット」という言葉を見なくなった。
個人HP時代に流行りだった「キリ番ゲット報告」というものは、ロムラーに口を開かせるためのひとつの手段だったという要素があると思う。
インターネットで生まれる「交流」というもの。
口を開き、掲示板やコメント欄で自己を名乗り、会話を投げかけ、関係を成立させていく。
最近思うのは、それだけが「交流」ではないんじゃないかということ。
ブログというものが存在として維持されている限り、「交流」というものが動いているんではないかと思う。
わたしはロムラーとして、継続して閲覧しているブログがある。
その中には、自己を名乗りコメントをするという「登場」をしていないものもあり、それでもわたしはロムラーとして、そのブログの文章と「交流」する。
その文章と向かい合い、書いた相手とその内容と自分の思考が「交流」する。
相手に伝えていない「交流」というものは、「伝わらない交流」なのだろうか。
「伝わらない交流」は、意味の無いものだろうか。
わたしはそうは思わないんですよね。
そのブログが存在する上で、「読者を持っている」という認識があるのなら、それはそこに「交流がある」ということなんではないかと最近思うようになったというか。
その「見えない交流」というものは、いつか「見える交流」に変化していく軌跡なのかもしれないし、ずっとそのまま「見えない交流」のままなのかもしれない。
でも、見える交流だけを追いかけていくのは、何か違うんではないかと思う最近です。
個人HP時代に流行りだった「キリ番ゲット報告」というものは、ロムラーに口を開かせるためのひとつの手段だったという要素があると思う。
インターネットで生まれる「交流」というもの。
口を開き、掲示板やコメント欄で自己を名乗り、会話を投げかけ、関係を成立させていく。
最近思うのは、それだけが「交流」ではないんじゃないかということ。
ブログというものが存在として維持されている限り、「交流」というものが動いているんではないかと思う。
わたしはロムラーとして、継続して閲覧しているブログがある。
その中には、自己を名乗りコメントをするという「登場」をしていないものもあり、それでもわたしはロムラーとして、そのブログの文章と「交流」する。
その文章と向かい合い、書いた相手とその内容と自分の思考が「交流」する。
相手に伝えていない「交流」というものは、「伝わらない交流」なのだろうか。
「伝わらない交流」は、意味の無いものだろうか。
わたしはそうは思わないんですよね。
そのブログが存在する上で、「読者を持っている」という認識があるのなら、それはそこに「交流がある」ということなんではないかと最近思うようになったというか。
その「見えない交流」というものは、いつか「見える交流」に変化していく軌跡なのかもしれないし、ずっとそのまま「見えない交流」のままなのかもしれない。
でも、見える交流だけを追いかけていくのは、何か違うんではないかと思う最近です。
自分が更新したくて更新しているので、それを開きたくて開く人がいれば、それはその人の自由だと思うし、公開した時点で全てお任せという心境。
文字で出すものというのは、全てそのまま、その人が出したままに理解するのも時に難しく、また相手に理解されるように表現するのも時に難しい。
無理することはないと思う。
それはわたしが無理したくないから、なんですよね、閲覧者として。
閲覧者として、公開された場にあるものから感じるものを、まず自分が大事にしたい。
フィードバックとして欲しい人も多いとは思うのだけれど、わたしの感じるものはわたしのものであって、それを書き手に渡すかどうかもわたしの自由でいたいのです。
わたしはネット上で誰かの書かれたものと「出会う」のは楽しいです。
出版されたものと「出会う」のと、個人がウェブで書かれたものと「出会う」のは、別の楽しさがあると思っています。
自分の書いたものに「反応を引き出す」というには、それなりの「表現」としてのやり方があると思う。
「むだづかいにっき」は、それがうまいと思いますね。
意図してやってるために出てくる表現の仕方があるし、そしてそれは成功しているとわたしは思う。
それはマイナスの思考の出現も引っぱるもので、その覚悟が必要なやり方だとも思いますが。
僕のブログにも、定期的に僕の文章を読んでくださってる方がいます。でも、どう考えても、コメントという形でカミングアウトしてくれる人たちを遥かに上回る数の沈黙の読者という人びとがいるのです。
実を言うと、最初はそういう人たちのことが少し気になったんです。カミングアウトして欲しいなぁって強く感じました。特に、ブログのことを教えていなかったリアルの友達が読んでくれていることを知って、ますます、読んでくれてるなら一言いってくれればいいのになぁという気持ちを強くしました。
でも、僕の文章を読んでくれている限り、確実に何かは相手に伝わっている。僕自身ではなくとも、ウェブ上に刻み込まれた僕の「ことば」と、その沈黙の読み手はきちんと対話して、交流してくれてる。
で、実際問題、よ~く考えてみたら自分の巡回先でもコメントをしていないブログって結構あるんですよね。でも、それって別にそのブログがつまらないからとかではなく、なんとなくコメントするほど自分の考えだとかがことばにならなかったりとかそういう理由がほとんど。でも、結構真剣に記事を読んで考えたりすることで、確実に僕はそのブログの文章と交流しているんですよね。だから、そういう沈黙の読者さんのことは気にしなくてもいいのかなぁと最近思うようになりました。
はてダにカウンタをつけていて。
これははてながキーワードで飛んでくるってのはどのくらいあるのか見たかったからなんだけど、あれはリンク元があっても、なんというか結局数値の意味なんてよくわからんね。
PVで自分が踏む数もものすごく多いし、ずぼらなので数字のチェックをしようと思ってもすぐ忘れる。
いつの間にかカウンタはどんどん回っていて、それがなんでだかわからん。
ということで、よくわからんカウンタになってます。
で、この間ふと自分が見たら「3000」だったのよ。
「おお、キリ番だ」と思って、キリ番だなんだってことがいちいち話題になってた時代が妙に懐かしくなった。
と、共に、「キリ番ゲッターは報告よろしく」って書かれたトップページの個人サイトって多かったなあと。
「報告よろしく」ってのと、キリ番ゲッターを表紙に出すってのと、そういやそうやってロムラーの口を開かせようとしてたんだな、と改めて思った。
(わたしはやりませんでしたが)
それと、ちょっととまどってるのは、「交流」に思うことが書き手として感じるということで受けとめられているのかな、とはてブコメントを見て思ったこと。
>最後の「見えない交流」を求める
いやそうじゃなくて、「見える交流」ばっかり意識してるの、それを追いかけようとしているのって、ちょっと違うかな、とわたしは思ったということ。
あのね、例えばとても具体的に言って、なんだけれど。
Lstyさんの「楽しみとしての評論」って、わたしはとてもおもしろかったのよ。
リンクされている場への感想があって、それを読んで自分も行ってみる。
なるほどって思いながら、Lstyさんが言おうとしたのとわたしが「なるほど」って思ったのと一致してるかしら、ちょっと違うかしら、なんて思って再度元記事に戻る。
それでまたリンク先に行って、ふむふむって。
わたしはただリンク先を読むだけじゃない、Lstyさんが出した「思考」と交流してる。
それをコメント欄で報告しなきゃいけないってことでもなく、報告してもうまく伝わるかわからないなって思ったり。
コメント欄にコメント入れてやり取りをする「交流」もおもしろいかもしれない。
でも、そうやって見えない交流もおもしろいし、見える交流の存在にばかり意識がとらわれてると、そういうこと見えにくくなるのかなって、自分に対して思ったりしたということ。
報告入れようとして、どこか小さく字面になってまとまっていくよりも、この「見えない交流」のまま、自分の思考をのびのびとさせてやっておきたい部分もある。
結局、そんな具体的な「事例」として「報告」入れて、「見える交流」になってますが、展開として。
でもその内容は「見えないまま」にしておきます、ケチだから。
うん、おもしろかったです。
ブログ上では意見(コメント)が目に付きやすいために、コミュニケーションが安直になる、ということもあるかも知れません。
こういう内容は「聞かれて答える」というものでもないし、わたしの勝手な感想を出して、その言葉が一人歩きをしていくことに責任を取りきれないということもあるので、「ご想像にお任せします」というところにしたいです。
ご期待にそえなくてごめんなさい。
私の書く物を読んで私という個人が見えるでしょうか?
あなたの目には私がどう映っているのか知りたいと思いました。
全て人それぞれだと思うので、それでいいんではないかと。
わたしは、読んで別の思考が生まれることも、発端が「読んで」なら、そこで「思考の交流」というものが存在すると思う。
そしてそれがまず生まれないと、発展もしないよなと。
天の邪鬼ということで言えば、わたしは「自分を知って欲しい」という意志やエネルギーが、その文章の思考より強い場合は、ちょっと敬遠気味になりますね。
書かれたひとつの思考を通して個人が見える、って方が好きかな。
ま、そんなものも含めて、人それぞれということで。
ただ、この寂しいという感情も言葉にして出してしまえば相手にとっては押し付けになってしまうのでなるべく口外はしないようにしようと思ってきました。
今回はつい口をついて出てしまったのですが、後悔はしていません。
時にはブログで読んでもらうだけでなく、直接このように相手の方との対話をしてみたいと思う時もありますから。
私はあなたの言われるシンパシーというものをそれほど感じるという事がありません。全くないわけではないのですが、どうしても相手の方が言われる事と反対の想いが浮かび上がってくるからなのです。
何かが違う、私はそうは思わないという、そういう気持ちが常にあるのですね。
たとえその考えに99人が賛同したとしても、私にとっては最後の一人として「何かが違う」と思ってしまうようなのです。
友人の一人は、そんな私を天邪鬼だなと笑っていますが。
個人の感じ方は人それぞれなので、それでいいんではないでしょうか。
わたしはこの記事上で書いた、
>その文章と向かい合い、書いた相手とその内容と自分の思考が「交流」する。
ってことに、なんというか「存在」を認めたい気がしたんですよね。
「思い込み」とは、わたしにとってはちょっと違うと思うのですよ。
わたしがロムラーとして閲覧するブログで、わたしはそこに書かれた思考と自分の思考がシンパシーを感じ合ったりすること自体、とても興味深い。
まあそういうものの一部をはてブに入れたりしていますから、書かれた人がわたしのはてブに気がつけば、それはそれで「見える交流」の一部となっていくのかもしれませんが。
そういう「存在」を認めたいと思う「交流」が、メノウさんにとって「単流」ということ。
要はそういうこと、かな、と。
交流とは僅かながらも相手にも此方の存在が分かっているのならば納得できる言葉だと思います。
もし、相手にも伝わっているような気がするとしたら、それは思い込みのような気がしますね。私の友人がよく陥る状況ですが。(苦笑)
ですから、あなたの言われる流れは単流と言う物ではないでしょうか。如何でしょう?
訪問するブログの管理者は、見ているわたしの存在すら知らない。
わたしのブログに訪問してくださる方で、わたしが相手の存在すら知らない人というものが実は存在する。
そんなブログの持つ「不思議」というもの、かな。
>相手に伝えていない「交流」というものは、>「伝わらない交流」なのだろうか。
「伝わらない交流」は、意味の無いものだろうか。
私もあなたと同じでそんなことはないと思っています。
私にも読むだけでコメントを残さない場所は多くありますから。
ですが、時々、相手の方が日記で書かれることに、これは自分の事ではないかなと思われる言葉を残してくださる事があるのです。
それはただの思い込みかもしれませんが、それでもいいと私は思っております。
ただ、伝えなければならない方には伝えるようにしています。
疑心暗鬼に囚われる方も中にはいますので。
それの見極めも大事かなと思っております。