Nonsection Radical

撮影と本の空間

時代としてのとらえ方

2014年04月20日 | Weblog
耳にばい菌が入って顔半分が腫れてしまい安静のために寝ていた。
何年か前に同様の症状で、その時には両耳で、顔全体が腫れて高熱が出て肺炎にもなった結果、両耳ともキーンという耳鳴りが取れなくなってしまい、左右でわずかに”周波数”が違う”音色”に耳障りな感じがしていた。
それが今回は片耳の耳下腺がつまった感じで熱が出たのだけれど、不思議な事にその時には耳鳴りがしなくなっていた。
耳鳴りは一生取れないものだと思っていたが、治療の方法もあるのかもしれない。
もっとも症状が良くなるにつれて耳鳴りは復活し始めたけれど。

で、ずっと寝てはいたのだが、時折本のページをめくってみた。
読み始めたのは「メガロポリス犯罪日記」朝倉喬司著 朝日新聞社
1984~85年にかけて朝日ジャーナルで連載されたものをまとめたもので、朝ジャー発売当時も目を通していたものだ。
著者の朝倉喬司という人は独特の文章を書く人で、また文体から現われる”思考”も独特のものである。
当時は個性を持った書き手がたくさんいて、内容の賛否はおいて、その個性に魅かれて読みあさったものである。
本著は執筆近辺に起きた事件を追った”ルポ”なのだが、朝倉氏の視点が平均から外れていて、現在であればネットで”炎上”するような文章も多々あるのだが、その文章を読んでいると「そうだよなぁ、そういうふうに考えたら”誰でも”罪を犯すかもなぁ」と思わせる不思議な説得力がある。
というのも、取り上げられた”犯罪者”は、みんな”普通”の人であり、途中から歯車が噛み合わなくなってくる状況も誰にでも起きうる可能性があるのだ。
実際に取り上げられた事件は、現在でも同様なものが起きており、普遍性を持った犯罪とも思えるのだ。
ただ「そういうふうに考える」かどうかが罪を犯すかの境目であるのが人間の思考として興味深い。

しかし、時代がそう書かせているのか、著者は事件の背景に時代性を感じており、文章にもしばしば時代性をにおわせている。
当時は何かと言えば、「こういう時代だから」という傾向があった。
が、30年経った現在から見ると、時代が生んだ特異な事件とは言えないのがわかる。
しばしばこの手の話には時代性と結びつけるものが多いのだけれど、過去をさかのぼれる現在では、特異性が普遍性を持っていることがわかるのが面白い。
ただ、80年代前半には戦前戦中生まれの戦争の、あるいは戦後の混乱期の匂いを背負った人々が生きていたあかしが強烈である。
現在において、戦争と人生を結びつけて語ることは少数になったと言えるだろう。
では、朝倉喬司が現在の犯罪をどのように書くのかと興味を持つもだけれど、残念ながら2010年に67歳で死んでしまった。




川西町の街並み
岡山県倉敷市川西町
撮影 2014年1月11日 土曜日 14時40分
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