団地夫婦の日々

常盤平団地の53年、団地内散歩で気付いた事を時々に

高田馬場の思い出4守屋魚店 稀勢の里オメデトウのオマケ

2017-01-22 16:15:35 | 故郷
稀勢の里14勝優勝おめでとう、白鵬ご苦労様、他の横綱、大関陣壊滅の中、場所を救ったのは若手力士達と横綱白鵬です、千秋楽結びの一番正面から必死の相撲を取ってくれました。負けて淡々潔い負け方でした。白鵬のお蔭で稀勢の里は遂に心技体の整った日本人横綱になれたのだと思います。来場所両横綱頑張って土俵を盛り上げて下さい。
横丁の魚屋さん、小さな鮮魚店、親父さん一人でお店を仕切っていた。戦争中は配給はスケトウ鱈バカリで近所なのに子供達もお店に行くことも少なくなって寂しかったが、それにしても我が家の食卓に守屋さんの魚が出た記憶が無い、或る日守屋魚店の店先に人だかりが出来た、近所の子供が前列に、周りを大人が囲んでいた。親父さんが大きな俎板の上に馬鹿デッカイ鮟鱇を載せて、今、正に捌き始めていたのだ。大人になって常磐のつるし切りはTVで見たことが有るが、子供の時だから、鮟鱇を見たのも初めて、魚屋さんで捌くのを見るのも初めて、それでも守屋のオジサンは手際よく包丁を翳して鮟鱇様の腹を真っ二つにカッ割いて・・鮟鱇の真っ白い、広い腹から先ず出て来たのは小魚のホッケ?だったか、大口から丸呑みされた魚達は一匹、又二匹、平べったいカレイも出た来た時は見物客の拍手が起こった位、正に鮟鱇の解体ショー、オジサンは涼し気な顔でニコニコしておった。何しろ沢山の魚が出てきて、俎板の端に魚の一山が、その魚達がどうなったか、売られたか、食われたか、でも半分溶けかかったか傷んでいたか、然しこんなに沢山の魚を吞み込んでいた鮟鱇様、ぺちゃんこになった鮟鱇がオジサンの包丁捌きによって皮を剥がれ、白い綺麗な身に切られて、アッと言う間に俎板に並んだと思ったら、店の奥に消えて・・・この辺は記憶曖昧となっている。
戦後守屋のオジサンは戸塚町の鮮魚店の仲間5~6人と共にホロ付きの中型トラックに乗って毎朝築地まで魚の仕入れに出掛けていた。或る日守屋オジサンの息子と私はオジサンたちのトラックの荷台に乗せてもらい、都内を築地の魚河岸まで行く途中の事、誰かが「さあっ始めるか」何と花札、悪いのかどうかわからないが、暗がりのトラック荷台の上で、手慣れた手付きで花札賭博?を始めたのだ、私達の目の前で始めた行為に、トラックに乗せてくれた好意?に黙っているしか無かった。大体荷台に7人も人を乗っけて都内を走りまわるとは。戦後の東京は逞しい復興の途上で有ったのだ。私達帰りは如何したのか、確か帰りも一緒だったと思うが、帰り道、花札が出て来た記憶が無い、きっと魚屋のオジサン達、帰りは商売の事で頭が一杯だったに違いない・・・
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高田馬場の思い出3 熊田畳屋

2017-01-22 11:14:16 | 故郷
熊田畳屋は横丁角に有った、正面の記憶は無い。子供時代母のお供で出掛ける時は何時も裏口、終戦後集団疎開先草津から帰った時は、畳屋は焼け跡に他の店同様バラックに暮らして居られた。玉音放送の時間、横町の大人達は熊田さん宅の裏口に集まっていた、人数で10人程、熊田宅では唯一?ラジオが有ったのだ、どういう訳か大人達の後ろに子供は私一人、当日未だ横町に子供達はいなかったようだ、子供達は疎開先で暮らしていたからだろう、
昭和天皇の放送は大人達の背中の向こうから切れ切れに聴こえて来たが、重々しい甲高い声の調子だけ結局意味不明の儘終わりを告げていた。
大人達が私の方に振り返り、そして一人が小声で「負けたんだ・・」他の大人達も小さく頷いて、熊田さんの裏口から夫々のバラックに帰って行った。
父の後を追って我が家に戻った私は、バラックの土の土間隅にガックリと肩を落として座り込んだ父の姿を前にジッと立ち尽くす・・父は悔しそうに下を向いて「チクショウ!」と一言・・そんな父の姿を見て私は何を感じたのか憶えていない、若しかして疎開生活から帰って間もなく父の事も母の事も未だ他人のように思い、日々生きる為、食べる物に飢えて暮らして普通の子供には戻って無かったのかも知れない、苦労の父は63歳で、男の子5人を産み育てた母は83歳で死去、去年13回忌をしたが二人共苦労の多い一生涯だったと思う、・・
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高田馬場の思い出2横丁の商店

2017-01-21 20:40:17 | 故郷
戦災が町並みを変えた、焼け野原に次々建てられたバラックから文化住宅、そして本格的な家屋、それが今寂れつつある高田馬場の路地横町、戦前昭和15年頃、実家旧淀橋区戸塚町3丁目(今は新宿区高田馬場4丁目)高田馬場駅から大通りを左へ500m位、(距離感が掴めないのは子供の感覚と違うせいだと思う)左側路地へ入った途中に実家が在る、この路地の100mの間に戦前は商店が有ったのだ、入り口の左の角が②熊田畳屋、①唐木酒店の裏口はL字方の小道を通って元の路地へと繋がっている、その出口の手前角が③浜田と言うノコギリ目立の職人のお店だった、狭い横町には④ビリヤード店も有った、この路地を入って右側に⑤松田米店、10m進んで左側に⑥守屋魚屋、その先右側に⑧青山湯、この銭湯の前が⑦遠山理髪店、銭湯の脇の角にはには⑨チャンポンそば店、小さな路地を跨いで変な⑩カフェ入った事は無いし店内は謎めいていた、そして更に路地を上ると⑪タバコ屋、その前が町工場で◎私の実家、隣が⑫呉服屋で、その隣が高橋大工店の筋向いに⑬豆腐屋さん、色んな人達が住んでいた実家のある戸塚3丁目873番地の路地横町だ、この路地通りの左右の商店、でも今は普通の所でも無くなってしまうような商店が一軒置きに並んでいた訳である。
戦後残っていたり、再開された店が、米屋、酒屋位か、銭湯青山湯は50m離れた隣の横町に戦後福の湯(新潟の人)が出来て今でも営業中である。古い記憶を辿って1店1店思い起こしながら書いていくと、どうしても長くなってしまう、ご勘弁を・・
この100m程の路地両側に畳屋、酒店、米店、魚屋、銭湯、床屋、チャンポン蕎麦、カフェ?タバコ屋、呉服店、豆腐屋と商店が11軒、無いのは八百屋位だが、これは大通りに出て右側にチャンと八百吉と言う店が有って今は3間ほど横にずれたが、今回前を通ったらシッカリ営業していた、更に一つ高田馬場寄りの通りには昭和マーケットと言う総合市場が有って(今はパチンコ店に変わっている)更に高田馬場寄りに50m辺りにミツワマーケットも有ったのだから、何故この路地にこんなに多種の店が有ったのか、昔神田川の周辺に染物業が多く、この路地にも2軒の織物問屋が有ったが、そのせいか、或は銭湯青山湯と遠山理髪店に遠くから客が来てたのか、大人、子供、家族、人口密度が濃かったのか、流石、大通りは店も並んでいたが、この路地のお店の数、今思うと不思議でもある。1店1店昔の思い出もある、大体は悪戯腕白時代のそれでも今は懐かしい、一つ又一つ思い出したら綴りたいと思ってます。82歳耄碌爺少しづつ、思い出しては綴ります。
こんな絵図で恥ずかしいの極みですが・・・

右側の松田米店、最近店を閉じて遂に、この路地通り1店も店が無くなった、子供のいない静かな通り道、この先の戸山が原跡では更に大変貌の町に出くわした・・

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高田馬場の思い出

2017-01-17 11:39:07 | 故郷
82歳の私が子供の時、過ごした高田馬場の家、遊んだ戸山が原の思い出、年一度の高校クラス会はJR高田馬場駅の近くで毎年成人の日頃(今年は13日金曜日)に行われた。故郷が如何変わったか、クラス会で隣に座ったS君が近況報告で「皆が高田馬場が変わったと思う程、私には変わったとは思わない、毎日ここで生活してると町の変化には殆ど気付かない云々・・」成程一年に一度来ると、母校の有る早稲田周辺から高田馬場を経て高田馬場4丁目、小滝橋まで商店が並ぶ街並みは「アレ?あの店は?・・」と商店の移り変わりも激しいのが判る、採算が合わなければ次々経営者、テナントが新しくなっていく、その中で、戦前戦後生き残って生きていく老舗の店も有って、矢張り懐かしいと思い、昔の自分に帰る私で有った。
当時私達が大通りと呼んでいたが、この通りは早稲田から高田馬場経由で東中野(東中野停留所の前に日本閣が有って後に母の77歳のお祝いを此処で行ったがそれは又の機会に)まで都営バスが運行されていた(今でも有るかも?)高田馬場駅からは戦後早稲田~洲崎15番が一時早稲田~高田馬場迄延長されて都電が全盛期?だった頃も有ったようだ、更に大通りを早稲田方面に1km程歩くと明治通りに出る、この通りは更に広くて新宿と池袋駅間都電とバスの変形トロリーバスが車両の頭にパンタグラフを載せて走っていた時期も有った。その後トロリーバスも消え、都電の線路も無くなって、今は都電荒川線のみ早稲田から大塚へ巣鴨へ終点は王子駅?とチンチンと走る、話が脱線序でに親戚のお爺さん(頭がツルツルしてたから)が都電(当時は市電?)の車掌さんだったので、制帽を被って狭い車内でパチパチと手際よく切符に鋏を入れて、最後尾で得意げに(私にはそう見えた)目の前の紐を引っ張ってチンチンと鳴らして、あれは運転手に「発車オーライ」の合図だったのだ、未だ5才か6才の頃、タダで載せて戴いた?・・そうだ小学生以下は幼児で無料だったのだが、母に連れられて都電に乗ると靴を脱いで座席に座り(わりにしつけがしっかりしていたのは母のせい?)窓の外の風景が楽しみだったが、やたら長い塀と電信柱毎に電線が上がったり下がったり、座席で背伸びして民家の屋根の連続しか記憶に無い、荒川線は工場住宅地を走っていたらしく、都電が車と並走して走るなんて事は無かった、それでも楽しかったのだと思う・・ここまで大通り、明治通りの話になっては、題名も変えねばなるまい・・・
戦前から有る和菓子の青柳と鰻の伊豆栄、ニ三軒おいて蕎麦屋の塚田だっけ?皆子供が同じ戸塚第三小学校の生徒、親はPTAが一緒、
1500円握りしめて来いの看板が今の高田馬場を象徴する店の様でもある。


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